ファレル戦役

 マリアがラウィニアで勉学に勤しんでいた時、その北方にあるラウィニアは騒然としていた。戦える者は武装して市内の中央広場への集合が、戦えない女性や子供に老人は小高い丘に建つ神殿――慈悲の女神エウメニスの立像が安置されている聖域への避難が同時に行われたために、雄叫びと悲鳴が混じり合い、市内の騒ぎは大きくなるばかりであった。


「陣形を組め!」


 一方で法務官プラエトルのアレクサンドロスは、想定しうる限りでの最悪の状況に陥っていた。ラウィニア本国から早馬がやってきて「執政官閣下が貴君に軍の指揮権を付与された」旨の記された書簡が届けられた時、彼は頭を抱えると同時に逃げ出したい気分になっていた。それは今こうして北の市門を出て屈強な体躯たいく極北人ヒュペルボレオイと対陣していても変わらなかった。


 こいつらは、本当に人間なのか……?


 噂には聞いていたが、こうして実際に狂暴な蛮族を目にしたのは初めてのアレクサンドロスには、ティブルリア河を挟んで対峙している極北人ヒュペルボレオイの姿が人ならざる怪物のように見えていた。遥か北方から大挙して押し寄せた彼らはさながら熊のように吠え、足で地面を叩くことで不可思議な踊りを見せて自分達を威嚇している。中には武器の槍を丸盾に打ち付けて不快な音を出している者さえいた。


 いかん。友軍が怯えている。それに騎兵隊の乗る馬まで落ち着きを失っている。


 アレクサンドロスの不安は増すばかりであった。騎乗していることで少し高い位置から友軍の動揺を知ることのできた彼には、この時点で勝負が付いたように思えてきた。戦においては士気が勝敗を決することがあるのはアレクサンドロスも分かってはいたが、分かっていながらも友軍を鼓舞できないでいたのは彼自身が指揮官として向いていない何よりの証拠だったと言える。


「おいっ! なぜに敵と衝突する前から足をビクビクさせておるのじゃ!」


 その時、市門の内側から一騎の騎兵が勢いよく駆け出してくるのを、アレクサンドロスに指揮されていた男達は目撃した。その出で立ちは風変わりなもので、ボロボロの胸当てに表面が傷だらけの丸盾を装着し、そして何よりも頭に被った麦わら帽子が人目を引いていた。


「ありゃ……」


「マリウスの爺さんじゃねえか!」


 兵士らの中で騒めきが起こる。そんな中、マリウスは大きくはないポニーの馬を河の左岸ぎりぎりにまで単騎で走らせ、向こう岸に立つ極北人ヒュペルボレオイの軍団に対して吠えた。


「お前達! どうした? 河を渡って攻めてはこないのか? 言っとくが、今回は十三年前のようにはいかないぞ。夜間に不意打ちをかけるなどといった卑怯な手は使えんからのお! お前達は図体は大きいが、肝っ玉はそれに反比例して小さい。その証拠に、今こうして投槍の届く範囲にいるわしにさえ攻撃を仕掛けてはこない。一方で――」


 マリウスは手に投槍を持つと勢いよく投げた。それは河を越えて、戦闘に立つ極北人ヒュペルボレオイの一人の防御されていない足の甲に突き刺さり、ファレルの男達の耳にも届く程の悲鳴が上がる。


「わしはお前達よりもずっと年老いた身でありながら、雄々しく、勇ましく戦う覚悟がある! わしの背後に立っている仲間達も同じじゃ。決して逃げたりはせぬぞ! なぜなら、わしも背後に立つ仲間達も守りたいものがあるからじゃ! 


 さあ、こちらは戦う準備はできている。戦を始めるか否かはお前達の方に決定権がある。選べ! 干戈かんかを交えるか、それとも立ち去るか!」


 この時のマリウスはファレル人の大半が理解できない極北人ヒュペルボレオイの言葉で敵を煽っていたので、背後に控える男達には彼が何を言っているのかは判然としなかった。例外はマリウスの学校に通っているヴァロの父で、彼はマリウスの勇ましい姿と語られた言葉に勇気を得ていた。


 マリウス先生。あなたはすごい人だ。同族内の争いに敗れて故郷を追い出された私には、とてもあんなことは言えません。


 他方、マリウスの言葉は分からなかった男達も彼一人に敵が恐れを抱いているのを見て取ると武器を持つ手に力が湧いてきたらしい。やがて、そのうちの一人が剣を天高く掲げるのを合図に次々とそれに倣って同じ動作を繰り返し、続けて「おうっ!」という声が周囲の森林に反響するまでになっていた。


 これが「穏やかな人々が住んでいる」とパリスが評したファレル人なのか?

 こちらは僅か千人足らずで、どう見積もっても敵の半数にも満たないというのに。


 指揮権を有する法務官プラエトルのアレクサンドロスには、少し前まで震え上がっていた自軍が現在のそれと同じだとは思えず、彼らが生まれ変わったかのような錯覚をおぼえていた。ここまでの一連の出来事は十分たらずで起こっていたのだ。彼がそう感じてもおかしくはない。


「敵が逃げてくぞ!」


 変化は敵にも生じつつあった。マリウスの勇士に恐れをなしたのか、それとも仲間の一人が苦痛に顔を歪めて悲鳴を上げ続けていることに戦意を挫かれたのか。ともかく極北人ヒュペルボレオイ達はファレルの軍に背を向けて一目散に逃げ去っていったのは確かだった。


「ふぅ、どんなもんじゃ……あぁ、痛いっ!!」


 さて、敵の撃退に成功した当のマリウスは悠々と自軍の方に戻ってくるかと思いきや、その途中で持病の腰痛が発症し、馬上で揺すられながら腰の激痛に耐えつつ、そして法務官プラエトルアレクサンドロスの傍にまでやって来て言った。


法務官プラエトル殿。これでファレルの軍は温存できましたなぁ」


「そうだな。貴君のおかげでファレルを死者ゼロで守り通すことができた。礼を言うぞ。マリウス殿」


「礼はいりません。代わりにこちらの話を聞いていただきたい」


「どのような話ですかな」


「そこの無傷の軍隊を、ラウィニアに率いていってもらいたいのです」


 一度は危機を脱して安堵しつつあったアレクサンドロスの顔は、一転して徐々に曇っていく。そして逡巡を見せてから、マリウスに答えようとした。「申し訳ないが自分には軍を指揮などできそうにない」と。


「その使命、俺が引き受けます!」


 アレクサンドロスが口を開こうとした時、彼とマリウスの間に割って入る騎兵が一騎、ファレル軍の男達の耳目を引きつつ現れた。派手な赤の馬毛の飾りが兜の頭頂部から垂れ下がり、胸を緑染めのリネン製胸当てで飾る、一人の美丈夫。


「パリス!? どうしてここに……」


 謹慎を命じていたはずのパリスが、アレクサンドロスの前に姿を現したのであった。

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