パリス、祝日の月曜日を回想する

 財務官クワエストルの執務室では、筆が羊皮紙の上を走るかすかな音だけが響いていた。


「パリス様」


 そこに財務官クワエストルを気遣う一人の男が現れ、こう忠告してきた。


「仕事に打ち込むのは結構なことですが、どうかご自身のお体とご相談のうえ、切りのいいところで仕事を切り上げて夕食をお取りになってくださいませ」


「分かってる。いつも俺を気遣ってくれてありがとう、ナルキッスス」


「いえ、御主人様の精進をお支えするのが従者たるわたくしの務めですから」


 従者が執務室から廊下に向かうのを一瞬見やると、すぐにパリスは仕事に戻る。室内で聞かれるのは、再び筆が奏でるこすれる音だけとなった。


 あの人は、いつ来てくれるのだろうか。


 他方、室内の静寂とは対照的にパリスの心中はひどく騒めいていた。



『私にとってはマリウスさんも、死んでしまったテレンティアさんも実の親ではないんです』


 パリスは、去る月曜日にマリアが語った自身の複雑な過去を思い出していた。


『ティブルリア河の下流で、私は牛をあしらったブローチを握り、おくるみに包まれた状態でテレンティアさんに見つけられたんです』


 最初にマリアは自身の出生直後の出来事を語ってくれた。


『もしも河沿いにあったエウメニスさまのほこらの傍をママが……テレンティアさんが訪れなければ、私はこの世にいなかったかもしれなかった』


 次に、ファレルにおいて慈悲の女神に祭り上げられていたエウメニスのほこら――それはファレルの南方にあり、ラウィニアに近い場所にあった――を偶然にも訪れた、巫女にして篤いエウメニスの崇拝者であった養母テレンティアとの出会いについて語ってくれた。


『私は捨て子だったんです。でも、そんな私でもママは……テレンティアさんは他の子供達と同じように……私も含めた、親に捨てられて傷ついた子供達にたっぷりの愛情を注いでくれて……。だから幸せでした。そして、そんな日々がずっと続くんだ、と思ってたんです。けど』


 一度、マリアが語らうのを止めたのを、パリスは今でも鮮明に覚えている。


『私が五歳の時、神殿で飼われていた鶏から生まれたばかりのコケコが寝ている私のところに来て、ピヨピヨって泣いて危険を知らせてくれなかったら、今頃私はこの世に……でも、私が寝室を出た瞬間にママの体を斧が……』


 マリアがそれ以上何も話せなくなってしまったのを、マリウスが「もう、これ以上、無理をして話さなくてもよい」と本当の父親のように気遣うのを、パリスは見ていることしかできなかった。


 こんな時、マリアさんになんと声をかければ……。


 パリスは、こういう時に限って口が重くなる性質の男であった。悲しみの底に沈んでいる女性を励ます言葉一つ浮かばないし、仮に浮かんだとしても口には出す勇気がない。


『なあ、マリアちゃん。せっかくパリスが作ってくれた朝食なんだからさ。君と、君のお父さんのために作ってくれた食事を、そんな悲しみいっぱいの顔で口に運ぶのは、ちょいとどうかと思うぜ、僕は』


 一方、陰鬱な食卓に似つかわしくない調子で話し始めたのは他ならぬアキレウスだった。彼は自らの手で食卓の足元に連れて来ていた雄鶏おんどりのコケコを相手に、勝手に漫談を始めた。


『ね、コケコちゃん。お前もそう思わない? お前さんだって本当はマリアちゃんには笑いながら食べてもらいたい、って思ってんだろ?』


 コッケー。


『ああ、やっぱそうだよなぁ。だって、怖い男の人達からマリアちゃんを守ってやるぞ、って、自分がやられちゃうかもしれないけど、それでも小さなマリアちゃんを守るんだ!、って思って、昔のお前は今よりもずっと小さいヒヨコの体で悪い奴らに立ち向かったんだもんな?』


 コケ……。


『おいおい、お前も昔を思い出して泣き出すつもりか? 駄目だぞ。そんなことしちゃ。マリアちゃんがもっと泣いちゃうから。ほれ、泣く代わりにこれ喰って元気だせ』


 アキレウスの手からポトリと音を立てて、たくさんの小麦の粒が落とされる。


 コケッ!?


 コケコは大きく鳴き、小麦の粒のある方にトコトコと歩いてきて、そして麦粒を次々にくちばしへと運んでいく。


 コッコッ……コケッ……。


『あぁっ! もう、勢いに任せて食い過ぎだぞ、コケコ。ほれ、食べたやつを吐き出せ。ほれほれ』


 アキレウスが、コケコの首の後ろを手で擦ってやる。


 コケェーー!!


 するとコケコは口につっかえていた麦粒を、さながら矢玉のようにアキレウスの顔面目掛けて一斉に発射した。命中率百パーセント。全弾命中であった。


『コケコ……お前』


 コケ?


『よくもマリアちゃんの前で、僕の顔を汚したな! もう許さねえ! 今までマリアちゃんの部屋に忍び込むたびに僕の顔を突こうとした仕返しに、蒸し焼きにして食ってやる!』


 コケ!? コッケーーー!!


 さすがのコケコも、この時のアキレウスの剣幕には平然とした態度を維持できなかったらしい。アキレウスが自分に掴みかかろうとするのをかわしつつ、食卓を行ったり来たりすること数分。


 コケ、コッケ!


 最後は、いつもなら守る対象であったマリアのふところに飛び込み、そして彼女に庇護を求めた。その間にもアキレウスはマリアとコケコに近づいていき、


『さぁ、コケコ。ここらが年貢の納め時だぞぉ。覚悟しろよぉ』


と言って、コケコの全身を両手でくすぐり始めた。当然、耐えられなくなったコケコはマリアのことなどお構いなしに暴れ出し、やがてピクピクと痙攣した後、


 コケ。


と何事もなかったように、いつもの調子に戻り、そして、


『わぁ、悪かった! 悪かったって!』


 今度は反撃とばかりにアキレウスの顔を、特に黒色の目を集中的に攻撃するのだった。


 そして、それが終わる頃には食卓に座る誰もが腹を抱えて笑い、アキレウスの敗北とコケコの勝利を認め、アキレウスは計画が上手くいったことに喜び、何も知らぬコケコは首を左右に捻ってから床に散らばる麦粒を黙々と食べ始めるのだった。



「おーい、パリス。お客さんだぜ! ってあれ? どうした? 深刻な顔して。あ、もしかして書類にミスがあったのに最後の最後で気付いて、すごく落ち込んでたとか?」


 パリスの回想は、ノックなしで執務室の扉を開けて現れたアキレウスにより中断させられる。


「違う。俺はお前みたいに仕事で細かいミスを連発したりはしない」


「お? 今日はいつもより当たりが強いね」


「そうか?」


「うん。いつものお前だったら本気で怒ってても顔のどこかに和やかな感じがあるのに、さっきのお前ときたら……怒ってるっていうよりも自分の不甲斐なさを恥じてるような感じに見えたぜ。いったいどうした?」


「いや、なんでもない。ちょっと働き過ぎて疲れてるだけだ。それで、お客さんというのは――」


 アキレウスの返事を待つまでもなかった。その客自身がパリスの執務室に入ってきて、こう伝えてくれたのだから。


「あの、こんばんは。パリスさま。いきなり来てすみません。でも、昼間のお礼はできるだけ早くした方がいいかなと思って……」

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