第9話 魂の鋳造

 時は、満ちた。

 という紋切り型の表現が、これほどまでに似つかわしい状況もそうはないだろう。僕の眼下に広がる常世の磐座は、もはや神域としての尊厳を失い、悪鬼羅刹が跋扈する地獄の様相を呈していた。血と硝煙の鉄錆びた匂いが、降りしきる秋の長雨に混じり、鼻腔の奥を不快に刺激する。大地は無数の骸と兵器の残骸に覆われ、その全てを、ただ虚無的な雨音が静かに打ち続けていた。


 そして僕は今、この世界の存亡、というにはあまりに傲慢で、個人的すぎる動機のために、不遜極まる創造の儀式を始めようとしていた。引野さんから受け渡された魂の全情報――その設計図は、僕の内で蒼い念動力サイコキネシスの奔流と混じり合い、白銀の光となって身体から迸っている。僕という陳腐な器に、彼女という至高の魂。あまりに不釣り合いなこの融合は、果たして神への冒涜か、それとも――。僕の意識は、肉体という名の枷を振りほどき、原子と精神が融解し混淆こんこうする、万象の根源へと深く、深く潜っていく。


 目の前では、引野さんが泥濘でいねいと化した地面に膝をつき、祈りを捧げる巫女の如く、その手を固く組んでいた。雨に濡れた黒髪が頬に張り付き、その表情には極度の消耗と、揺るぎない信頼の色が浮かんでいる。彼女は、自らの魂の全てを僕に託していた。その温もり、輝き、優しさ、そして彼女が背負い続けてきた悲しみの記憶に至るまで、一切の隠匿なく僕に委ねてくれたのだ。それは、僕という存在への絶対的な信頼の証左であると同時に、僕のこの創造が万が一にでも失敗すれば、彼女の精神そのものが修復不可能なほどに崩壊しかねない、あまりにも危険な賭けでもあった。


 なぜ僕は、この途方もない儀式に挑むのか。世界を救う、などという大それた御託を並べるつもりはない。それは英雄様方の専門分野だ。僕が欲しいのは、そんな壮大な叙事詩ではなく、ただ、僕の隣で、僕を信じてくれるこの女性と共に、当たり前の明日を迎えるという、その一点のみ。


 その、極めて個人的で、矮小で、利己的な願いだけが、僕という空っぽの人間を突き動かす唯一の燃料だった。


「――始めよう」


 僕の呟きに応じ、無数の念動力サイコキネシスの糸が、大気中に漂う素粒子を掴み、選別し、編み上げ始める。これは、白亜の庭で金属の小鳥を創り出した、あの稚拙な遊びとは次元が違う。あれは模倣に過ぎなかったが、これは創造だ。物質ではない。魂という、この世で最も複雑怪奇で、不可解な形而上学的概念を、無から有へと鋳造するのだから。


 だが、災厄も、そして僕らを取り巻く有象無象も、この神聖な儀式を黙って見守ってくれるほど、寛容ではなかった。


「阻止しろ! 何をしているか分からんが、あの少年を止めろ!」


 磐座の外縁部、ぬかるんだ地面に半身を埋めながら、辛うじて正気を取り戻したDARPAの指揮官が絶叫する。その号令一下、生き残っていた兵士たちが、土砂降りの雨の中、一斉に僕へと銃口を向けた。


 それに呼応し、磐座の裂け目から溢れ出した、亡骸を依り代とする冒涜的な肉人形たちもまた、本能が警鐘を鳴らすのだろう、僕たちの儀式を最大の脅威と認識し、おぞましい奇声を上げながら殺到してくる。


 死の弾幕が火を噴く寸前、一つの影が僕たちの前に立ちはだかった。


「この先へは、一歩たりとも通さん!」


 時守だ。老いた呪術師は、その身に宿る最後の生命力を振り絞り、周囲の木々を、足元の岩を、吹き荒れる風を、その身へと召喚する。彼の身体はみるみるうちに巨大化し、自然そのものを鎧とした化身となって、侵入者たちの前に聳え立った。


 しかし、多勢に無勢。自然の化身が張った防壁に、銃弾と肉人形の爪が突き刺さり、その霊力が確実に削られていく。


「――那縁!」


 天から一条の光が差し込んだ、と錯覚した。否、光ではない。漆黒の戦闘服に身を包んだ、聖槍騎士団精鋭部隊指揮官、アリア・ロッシだ。


 彼女は、この聖域で最も高い杉の巨木の梢に、音もなく降り立ち、氷の如き冷徹な双眸で戦場を見下ろしていた。その手にした白銀の長剣が、静かに鞘から抜き放たれる。


「我らが騎士の誇りに懸けて『鍵』と『器』を守護する! 各員、散開!」


 彼女の号令一下、それまでどこに潜んでいたのか、雨に濡れた森の木々の陰から、黒い戦闘服の騎士たちが次々と姿を現し、時守の築いた防衛線へと寸分の乱れなく合流していく。


 間髪入れず、戦場には場違いな、空気を切り裂く重低音の飛行音が鳴り響いた。


「待たせたな、クソッタレども!」


 上空で静止したハシュマル機関の最新鋭ステルスヘリのハッチが開き、そこから降下してきた複数のロープを伝って、黒いスーツに身を包んだ男たちが舞い降りてきた。最初に降り立ったのは橘さんだ。彼の率いる機関の精鋭部隊が、DARPAと長老会派の残存兵力の間隙を正確に突き、僕たちを守るための第三の、そして最も強固な壁を形成した。


 この常世の磐座で起きているのは、僕と引野さんという、たった二人の未来を守るためだけの、あまりにも局所的で、個人的な防衛戦だ。


 それなのに、時守が自然の力で敵の足を止め、アリア率いる騎士団が、聖句を唱えながら肉人形を聖なる光で浄化し、橘さんの部隊がDARPAの銃弾を的確に防ぎ、無力化していく。


 その三者三様の戦いを、僕は背後の音と気配だけで感じながら、意識の全てを魂の鋳造へと注ぎ込む。


 引野さんの記憶が、奔流となって僕の脳裏に流れ込んでくる。幼い日の誕生日、両親に祝福された喜び。悪戯が成功し、友と腹を抱えて笑い合った放課後。そして、自らの力の未熟さ故に、救えなかった命への、深く、昏い悲しみ。その喜怒哀楽の全てを、僕は自らの念動力サイコキネシスの糸で、壊れ物を扱うように丁寧に、慈しむように、一つ一つ形作っていく。


 一分が一時間に、一秒が永遠に感じられた。僕の生命力が、急速に枯渇していく。意識が朦朧とし、指先の感覚が麻痺していく。


 死ぬ。


 その予感が脳裏を掠める。


 だが、不思議なほどに僕の心は凪いでいた。死ぬほど生きている、という実感。矛盾しているが、これ以上ないほど的確な表現だろう。背後で戦う全ての仲間との絆が、僕の力となっていたから。


 そして――。

 僕の目の前に、それは完成した。

 引野さんと瓜二つの、しかし肉体という軛を持たない、純粋な魂の輝きだけを放つ「光の器」。

 それは、僕と引野さんの、そして仲間たちの、未来への祈りそのものだった。

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