第7話 絶望の坩堝

 地獄とは、斯くも個人的な情景の集合体を言うのだろうか。

 秋雨に濡れる常世の磐座。その聖域は、いまや百人百様の地獄が交錯する、巨大な坩堝と化していた。


 何故こんな事態になったのか。その答えは明白だ。僕たちの戦いが、憎悪が、恐怖が「大いなる災厄」という名の悪魔を、その永き眠りから呼び覚ましてしまったのだ。そしてその悪魔は、戦場にいる全ての人間から、その理性を容赦なく剥ぎ取っていく。


「儂の……儂の力が足りぬばかりに……あの時、あの子らを見殺しにしてしもうた……」


 時守が、虚空に向かって呻いている。その瞳は、DARPAの兵士でも、長老会の異能者でもない、遥か昔に失ったであろう、誰かの面影を追っていた。数千年の孤独な務めが生んだ彼の罪悪感が、今、災厄の精神汚染によって、最も残酷な形で彼自身に牙を剥いていた。自然を味方につけるその絶大な力も、己の内なる敵の前には、無力であった。


 この狂気の蔓延する戦場で、辛うじて正気を保っていられるのは、僕と引野さんだけだった。


 如何にしてか。それは、僕たちが互いの魂を、固く結びつけていたからに他ならない。僕が災厄の囁きに心を乱されれば、彼女の黄金色の光が、精神の防壁となって僕を守る。彼女が過去のトラウマに呑まれそうになれば、僕のサイコキネシスの糸が、彼女を現実へと繋ぎ止める。僕たちは、二人で一つとなって、この精神の嵐に耐えていた。


「神代君、駄目……! このままじゃ、みんな……!」


 引野さんの悲痛な声が僕の耳を打つ。彼女の瞳には、狂気に陥った敵味方の区別なく、ただ苦しむ「人間」の姿だけが映っていた。


 僕たちは何をすべきなのか。この地獄を終わらせるために。



 その答えを探し求めている男が、もう一人いた。聖域から遠く離れた、安全な場所で。

 相葉陽太は、アリアから提供された仮設シェルターの中で、独り、キーボードを叩き続けていた。彼の目の前の複数のモニターには、氷川が遺した「サイファー・キー」と、騎士団の古文書から抽出された、膨大な古代言語のデータが、無秩序に羅列されている。


「クソッ、クソッ、クソッ! なんだよこの言語体系! 構造が、人間のそれじゃねえ……!」


 吐き気を催すほどの情報量と、異質な言語の構造。彼の天才的な頭脳をもってしても、解読は絶望的に思えた。だが、彼は諦めない。友が命を懸けている。自分にできることは、これしかない。彼はコーヒーで胃を焼きながら、ディスプレイに映る地獄の光景から目を逸らさず、指を動かし続けた。彼こそが、この狂気の戦場に差し込む、唯一の「理性の灯火」だった。



 僕は戦場の中心で、ある事実に気づいていた。狂った兵士をサイコキネシスで無力化すればするほど、磐座から漏れ出す黒い霧は、より濃くなっていく。僕の力の行使――たとえそれが守るためであっても、そこに込められた闘争心や恐怖が、結果的に災厄の供物となっているのだ。


 破壊では駄目だ。この連鎖は断ち切らなければならない。

 僕が新たな道を探して思考を巡らせていた、その時だった。


「――私がやる」


 隣にいた引野さんが、有無を言わさぬ決意を込めてつぶやいた。


「え……?」


 彼女は僕の制止を振り切り、前へ踏み出す。そして、その両腕を、天に掲げた。

 黄金色の光が、彼女の身体から、奔流のように溢れ出す。それは、これまでのような、個人を対象とした治癒の光ではない。この戦場にいる全ての者、狂気に囚われた全ての魂を、等しく救おうとする、あまりにも無謀で、自己犠牲的な、博愛の光だった。


「引野さん、やめろ! そんなことをしたら、君の命が……!」


 僕の叫びは、彼女に届かない。彼女の身体が、その莫大なエネルギーの放出に耐えきれず、透き通るように薄くなっていく。彼女は、自らの魂そのものを燃料として、この地獄を浄化しようとしているのだ。


 彼女を止めるべきか。


 それとも、彼女の覚悟に、この世界の未来を託すべきか。


 絶望の坩堝の中で、僕は選択を迫られていた。

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