第4話 癒やしという名の痛みと鍵と女神

 引野さんの指先から放たれる、温かい黄金色の光。それは、僕の荒れ狂う精神に差し込んだ、一条の救いの糸であった。だが、光が僕の身体に触れた瞬間、安らぎではなく、灼けるような激痛が全身を貫いた。


「ぐっ……あ……!」


 それは肉体的な痛みではない。彼女の純粋な生命エネルギーが、僕の内側に澱む罪悪感やトラウマという名の不純物を、強制的に炙り出していく。癒やしとは、かくも苛烈な浄化作用を伴うものだったのか。蓋をしていたはずの記憶――小鳥の砕ける感触、メガフロートで響き渡った悲鳴、僕の力に怯える人々の瞳――が、脳裏で強制的に再生される。


 僕は、その苦痛に耐えきれず、彼女の手を振り払っていた。


「やめろ……! 僕に、触るな……!」

「神代君……」


 引野さんの瞳が、悲しげに揺れる。違う。彼女を傷つけたいわけじゃない。むしろ、その逆だ。僕のこの穢れた闇が、彼女の光を汚してしまうことが、何よりも怖いのだ。


「僕のせいで、君まで……。君は、僕みたいな奴の側にいちゃいけないんだ」

「違うよ」


 彼女は、僕に振り払われた手を胸の前で握りしめながら、一歩も引かなかった。その声は、震えてはいたが、決して折れない芯の強さを持っていた。


「あなたの力が『破壊』の力だっていうなら、私のこの力は、あなたのためにある。あなたが傷つくなら、私が癒やす。あなたが何かを壊してしまったら、私が治す。……だから、お願い。一人で痛みを抱えないで。あなたの傍に、私をいさせて」


 引野さんの言葉の一つ一つが、僕が独りでいるために築き上げた分厚い氷の壁を、内側から打ち砕く。そうだ、僕はいつだって、一人で勝手に傷ついて、一人で壁を作っていた。彼女は、その壁の向こう側から、ずっと僕に手を差し伸べてくれていたのだ。


 僕はまだ、彼女の光を正面から受け止めることはできない。だが、理解した。この壁を、僕自身が壊さなければならない。彼女を、そして相葉を守るために。この、忌むべき力で。



 聖域の自室で、相葉陽太はキーボードを叩く指を止めた。引野がもたらした「勝利の女神」のヒント。それは、彼の思考に天啓にも似た閃きを与えていた。


「歴史、神話、聖歌……非論理的なようで、そこには必ず人間の作った『法則』がある。だとしたら……」


 彼は、聖槍騎士団のネットワーク構造を、全く新しい視点から再構築し始めた。それは、プログラミング言語ではなく、音楽の楽譜を読み解く作業に近かった。古代の聖歌に使われる音階、歌詞に隠されたゲマトリア数秘術、それらをパスワードやアドレスとして配置していく。一つ、また一つと、これまで鉄壁だったファイアウォールが、嘘のようにその扉を開いていく。


「見つけた……!」


 数時間の格闘の末、彼はついに、特定の聖歌の一節を逆再生した音響データを認証キーとして使用する、常識外れのプロトコルを突破。ネットワークの深層にあるデータアーカイブへと続く、隠されたバックドアをこじ開けたのだ。そこにあったのは、騎士団の戦力配置や兵器のスペックではない。おびただしい数の、予言や古文書を記した羊皮紙のデジタルデータだった。そのほとんどは、ラテン語や古代ギリシャ語で記されており、彼には解読できない。だが、その中で、一つのファイル名が、彼の目を強く引きつけた。


 『Project:Falsa Communio』


 ラテン語の辞書アプリが、その意味を弾き出す。


「……偽りの、聖体せいたい拝領はいりょう……?」


 何のことだか、さっぱり分からない。だが、この言葉が、この聖域の、そして聖槍騎士団という組織の、根幹に関わる重要なキーワードであることだけは、直感で理解できた。彼は、この言葉を暗号化した上で、外部の橘へと送信する。これが、反撃の狼煙になることを信じて。



 漆黒の闇に包まれた、アリア・ロッシの私室。彼女は、ホログラムモニターに映し出されたアルビレオ総長の姿に、静かに頭を垂れていた。


「――神代那縁の訓練経過を。……対象は、極めて危険な兆候を示しています。感情の昂りを力の源泉としながら、その奔流に呑まれ、自滅しかねない。かつての……いえ、このままでは『鍵』として機能不全に陥る可能性が高い、と進言いたします」

『……そうか。だが、焦るな、アリア。彼の力は、我らが扱う聖遺物とは根本的に異なる。感情こそが、その力の源泉なのだからな』


 アルビレオの声は、どこまでも落ち着いていた。


『我々の目的は、彼の感情を消し去ることではない。荒れ狂う嵐の海の中で、なお航路を見失わぬ、静謐な精神を彼に体得させることにある。それこそが、古来より『鍵』を扱う者が乗り越えてきた、最初の試練だ』

「……御意に。ですが、彼にその覚悟が?」

『そのための『器』だ。少年が自らの弱さと向き合い、その痛みを、守るべき者のために受け入れる覚悟を決めた時……『鍵』は、真の力を解放するだろう』


 通信が切れた後も、アリアはしばらくの間、闇の中で佇んでいた。脳裏にかつての記憶が蘇る。感情の昂ぶりの果てに、守るべき仲間を、そして自らの部隊を壊滅させた、あの忌まわしい任務の記憶が。


 ――神代那縁。貴様は、私と同じ過ちを繰り返すのか。それとも……。


 彼女は、自らの内に燻る感傷を振り払うように、強く拳を握りしめた。



 翌日の訓練場。僕の前に立ったアリアの雰囲気は、昨日までとは明らかに異なっていた。冷徹な部分は変わらない。だが、その瞳の奥に、試すような、あるいは何かを期待するような、複雑な光が宿っていた。


「昨日の続きを始める。だが、今日の課題は、破壊ではない」


 彼女がコンソールを操作すると、僕の目の前に、新たなホログラムが生成された。それは、瓦礫に埋もれ、鉄骨の下敷きになって身動きが取れず、怯えて涙を流す――引野さんの姿だった。


「……くっ!? これは、一体どういう……」

「見ての通りだ。だが、これは単なる映像ではない。彼女の生命エネルギーのパターンを、寸分違わず再現したホログラムだ」


アリアは氷のような声で続けた。


「お前が力を制御できずに瓦礫を破壊すれば、その衝撃はホログラムを通じて、本物の彼女の精神に回復不能なダメージを与える」


 息が止まる。人質、というわけか。あまりにも卑劣で、しかし、僕という人間の核心を突く、的確な一手だった。


「救ってみせろ、神代那縁」


 アリアは冷酷に言い放った。


「守りたいという、その強すぎる感情を、破壊の衝動から完全に切り離して、だ。もし、それができなければ――」


 彼女は、そこで言葉を切った。だが、その先は、言われなくとも分かっていた。

 僕は震える拳を握りしめ、瓦礫の中の引野さんを、ただ真っ直ぐに見据えた。これは試練だ。僕が、僕自身の力と向き合うための。

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