第3話 感情という名の異端
白亜の庭、という名前は、ある種の悪趣味な冗談なのだろうか。僕が足を踏み入れた聖槍騎士団の日本聖域は、その優美な呼称とは裏腹に、人の精神を無機質な純白で塗り潰すための、巨大な実験施設であった。長野県の山中に、これほどの規模の地下空間が広がっているとは、地上からでは到底想像もつくまい。壁も、床も、そして僕の矮小な心を映すかのように高くそびえる天井も、全てが継ぎ目のない、光を鈍く反射する未知の素材で構築されている。ここでは、自然の光も、季節の移ろいも、存在しない。ただ、空調の低く唸る音だけが、僕の鼓膜を単調に揺らし続けていた。
施設の最下層に位置する、途方もなく広大な訓練場。そこで僕は、一人の女性と対峙していた。聖槍騎士団精鋭部隊指揮官、アリア・ロッシ。彼女の怜悧な美貌と、氷の如き冷徹な青い瞳は、僕という存在を「解析すべき異物」として、容赦なく値踏みしていた。
「それが貴様の限界か、神代那縁。感情の昂りに任せた暴力の垂れ流し。ハシュマル機関は、このような制御不能な力を『切り札』などと呼んでいるのか。
僕が
彼女が操作する訓練プログラムは、僕の精神的限界を正確に突き、最も触れられたくない部分を執拗に抉ってくる。高速で飛来する障害物を回避、あるいは破壊する。単純な反復作業。しかし、その障害物は、僕のトラウマ――過去に僕の力が引き起こした破壊の光景を、ホログラムとしてその表面に映し出していた。
「黙れ……!」
歯の隙間からかろうじて言葉を絞り出す。脳裏にメガフロートの惨状が、奥多摩の迷宮で怯えていた人々の顔が、そして――遠い記憶の奥底、僕の小さな手のひらで冷たくなっていく、温かかったはずの小鳥が明滅する。
感情に呑まれるな。思考を無にしろ。橘さんはそう言った。だが、この力は、そもそも感情の奔流そのものではないのか。守りたいという清らかな願いも、傷つけたくないという切実な恐怖も、この力の前では等しく破壊の燃料でしかない。僕のような欠陥品に、感情を捨てて力を操れなどと、それはもはや禅問答の領域だ。愚問に対しては愚答しか返せぬ僕に、何を期待しているというのか。
「まだだ! まだやれる!」
自らを叱咤し、再び
その光景を、アリアは冷ややかに見下ろしていた。
「やはりな。感情に呑まれた力は、守るべきものすら破壊する。それは異能ではなく、ただの災害だ。我々、騎士団は、そのような不浄な力を『異端』と断じ、浄化してきた」
彼女の言葉は、鋭利な刃物となって僕の心臓を貫いた。その瞳の奥に、一瞬だけ、僕と同じ、あるいはそれ以上に深い絶望の色が揺らめいた。この人は、知っているのだ。力が暴走した先にある、取り返しのつかない喪失の感情を。
「アリア……あんたに何が分かる!」
叫んでいた。僕の怒りに呼応して、訓練場の床がひび割れ、周囲の機器が激しく火花を散らす。まずい、まただ。また、この力が――。
「それ以上は許さん」
アリアの声は、絶対零度の響きを伴っていた。彼女の右足が、床をトンと叩く。その刹那、訓練場の空間そのものが凍てついたかのように、僕の力の奔流がぴたりと止んだ。これが、聖槍騎士団指揮官の実力か。力の次元が、あまりにも違いすぎる。
僕は、なす術もなくその場に膝をついた。絶望と、自己嫌悪が、濁流となって僕の全身を駆け巡っていた。
*
聖域の片隅に与えられた、無機質な自室。そこは相葉陽太にとって、唯一心を許せる城であり、同時に、出口のない戦場でもあった。何せ、この「白亜の庭」は、物理的にも、そしてデジタルの領域においても、鉄壁の要塞なのだから。
「……くそっ、手強すぎるだろ、ここのセキュリティ」
相葉は持ち込んだ愛用のノートパソコンの画面に映し出される、意味不明な文字列の羅列を睨みつけながら、悪態をついた。橘から託された極秘任務――聖槍騎士団の内部ネットワークに侵入し、彼らの真の目的を探る。言うは易し、だ。それは単なる防御壁ではない。こちらの思考を読み、嘲笑うかのように構造を組み替える、意思を持ったデジタル上の迷宮。その防御アルゴリズムの根幹を成しているのは、現代の暗号理論ではなく、古代言語で組まれた祈祷文であった。それはハッカーの侵入を拒む、電子の呪詛そのものだった。
「これじゃ、いつものやり方は通用しねえな……」
壁にぶち当たった、まさにその時だった。コンコン、と控えめなノックの音。次いで、滑るように扉が開き、引野がマグカップを二つ、お盆に乗せて入ってきた。
「相葉君、お疲れ様。少し休憩しない?」
「引野さん! おお神よ、サンキュ! マジで脳みそが沸騰しそうだったんだ」
彼女の淹れてくれたハーブティーの、柔らかな香りが鼻腔をくすぐる。引野は彼の隣に腰を下ろし、心配そうにモニターを覗き込んだ。
「大変そうだね。私には何が書いてあるか全然分からないけど……」
「だよな。俺も分かんねえ。こいつら、現代の技術だけじゃねえんだ。なんつーか、もっと古い……歴史とか、神話とか、そういうレベルの知識で鍵をかけてやがる」
そこまで言って、彼ははっとした。そうだ。歴史。神話。非論理的で、しかし確固たる法則性を持つもの。
「……もしかして」
彼はハシュマル機関のデータベースに接続し、キーワードを打ち込んだ。「古代暗号」「聖歌」「ゲマトリア」。画面に、膨大な古文書のデータが呼び出される。聖槍騎士団のシステムがもし、古代の暗号理論と最新技術のハイブリッドだとしたら。
「引野さん、あんた、マジで勝利の女神かも」
「え? 私が何かした?」
きょとんとする彼女に、相葉はニカッと笑いかける。見えた。暗号の壁の向こうに、僅かだが、確かに道が見えた。彼は、感謝の気持ちを込めてハーブティーを一口飲むと、再びキーボードへと向き直った。この謎解き、俄然面白くなってきた。
*
西新宿の超高層ビル、その一室。眼下に広がる無数の光の河を睥睨できるその部屋は、氷川怜にとって鳥籠であり、同時に二重スパイとしての仮面を被るための舞台でもあった。彼は二つの通信端末を前に、深く息をついた。一つは、ハシュマル機関の橘へ送る定時報告用の端末。もう一つは、官房長官、三枝から直接貸与された、彼の監視下にあることを示す忌まわしい枷。
『氷川君、聖域の様子はどうかね。神代那縁に、何か変化は?』
橘からのチャットは、部下を気遣う上司の仮面を被ってはいたが、その文面には、氷川の行動を探る鋭い棘が隠されている。
『……今のところ、特異な変化は観測されておりません。対象は、騎士団の訓練プログラムに適応しようと試みている段階です』
当たり障りのない、嘘ではないが真実でもない報告。言葉を選び、慎重にキーを叩く。次に、三枝の端末へと向き直る。こちらには、騎士団の戦力配置や、引野知子の能力解析に関する、意図的に誇張され、かつ核心を逸らした情報を入力する。綱渡りだ。一つのミスが、全ての計画を破綻させる。
彼は送信ボタンを押した。その指先は、忠誠と裏切りという、あまりにも重い二つのデータを、同時に世界へと解き放った。両親の顔が脳裏をよぎる。『『鍵』と『器』を守れ』。その遺言は、彼を英雄にも、そして卑劣な裏切り者にも変えうる、諸刃の剣だった。
窓の外には、煌びやかな東京の夜景が広がっていた。その無数の光の中に、どれほどの嘘と、どれほどの真実が隠されているのか。今の彼には、それを見通す術はなかった。
*
深夜、一人自室のベッドで、僕は天井を睨みつけていた。アリアとの訓練で負った打撲が、鈍い痛みを訴えている。だが、それ以上に、彼女の言葉が、僕の心を蝕んでいた。『感情に呑まれた力は、守るべきものすら破壊する』。
過去のトラウマが、鮮明な悪夢となって蘇る。力の暴走。砕け散る命。僕のせいだ。僕が弱いから。
無意識に握りしめた拳が、ベッドの枠にゴツリと当たる。静寂に満ちたこの部屋では、その音は不釣り合いなほど大きく響いた。
数秒の沈黙の後、控えめなノックが扉を叩いた。返事をする気力もなく、身じろぎもできずにいると、ためらいがちにドアノブが回り、そっと扉が開かれる。
「……神代君? 物音がしたから……大丈夫?」
そこに立っていたのは、引野さんだった。彼女の瞳には、僕の苦悩を見透かしたような、深い憂いの色が浮かんでいる。
「いや、平気だよ……」
当たり障りのない言葉で、彼女を拒絶しようとした。僕の側にいてはいけない。僕の闇に彼女を巻き込んではいけないのだ。
しかし、言葉とは裏腹に、僕の
「大丈夫。一人で苦しまないで」
彼女は僕の拒絶を意に介さず、ゆっくりと僕に近づいてくる。彼女の優しさが、僕の腐りかけた心を浄化すると同時に、聖なる光で僕の罪を暴き立てる。安らぎと、それと同じだけの激しい自己嫌悪が、僕の中で渦を巻いた。彼女の存在そのものが、僕にとっての聖域であり、同時に、決して触れてはならない聖体になりつつあった。
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