第9話 未来への序曲

 あれから数週間後。まだ生々しい傷跡を残しながらも、復興の槌音が力強く響き始めた渋谷の街を、夜明けの光が優しく照らしていた。僕と引野さん、そして奇跡的に一命を取り留めた相葉は、スクランブル交差点を見下ろせる、新しく建てられた仮設カフェの、いささか無粋なテラス席にいた。我ながら、よくもまあこんな場所で感傷に浸れるものだと、自分自身の神経の図太さには少々呆れるほかない。


 ハチ公口には、献花台が今も設置されており、訪れる人が後を絶たない。


「『観測者』は消滅した。けれど『大いなる災厄』の本体、または同等の脅威が、この宇宙の、僕たちの認識の及ばぬ彼方に複数存在する可能性が高い、か……」


 氷川さんが回収し、そして解析した「観測者」のデータと、聖槍騎士団に秘匿されてきた古文書からもたらされた情報は、僕たちに、血反吐を吐く思いで掴み取った一時的な勝利と、同時に、さらに絶望的な新たなる戦いの始まりを、冷徹に告げていた。「観測者」が消滅間際に残した「我は無数に存在する尖兵の一人に過ぎぬ。真の黄昏はこれからだ」という、悪趣味極まりない不気味なメッセージが、僕の脳裏から片時も離れることはない。まったく、迷惑千万な話である。


「ハシュマル機関と聖槍騎士団も、水面下で協力関係を模索し始めたらしいわよ。氷川さんが連絡役になったって聞いた」


 引野さんがソーダ水のグラスを指で弄びながら、少しだけ穏やかな、にもかかわらずどこか遠くを見るような表情で言う。彼女のその横顔は、以前の快活さに加え、戦いを乗り越えた者だけが持つことのできる、ある種の静謐な美しさを湛えていた。


「橘のおっさんも、ハシュマル機関内部の腐りきった膿を出し切るって、どこぞの秘密国際会議で大見得を切ったらしいぜ。情報公開の推進だとか、異能者との共存を目指す耳障りの良い倫理規定の見直しだとか、まあ、あのおっさんなりに、色々と背負う覚悟を決めたってことなんだろ」


 初耳だ。表に出ていない情報を知っている相葉。彼はいつもの軽い調子をようやく取り戻しつつあった。ただし、その言葉には、以前にはなかった、どこか達観した響きが混じっていた。


 アルビレオさんは、僕たちに「真の戦いはこれからだ。備えよ、若き獅子たち。我らもまた、槍を研ぎ続けるであろう」という、激励なのか、それとも新たな呪縛なのか判然としない警告の言葉を残し、騎士団の本拠地へと、おそらくはバチカンであろうその地へと帰還した。彼の背負うものの重さは、僕には想像もつかない。


 失われた多くの命。手を取り合った仲間たちとの、血よりも濃い絆。そして、否応なく向き合わなければならない、あまりにも壮大で、おそらくは救いのない未来。僕たちは、自分たちの、この忌むべき力がもたらす責任の重さを改めて自覚しつつも、不思議と絶望してはいなかった。いや、絶望している暇などない、と言うべきか。


「誰かの犠牲の上にある欺瞞に満ちた平和なんて、こっちから願い下げだ」


 僕の決意表明のようで、それでいてどこか投げやりなつぶやきに、引野さんと相葉も、それぞれの想いを込めて、力強く頷く。


 ふと、何かに誘われるように空を見上げると、そこには一瞬だけ、本当に一瞬だけ、以前中洲の上空で見た、赤い光が虹の如く揺らめき、そしてすぐに消えた。あれは「大いなる災厄」の残滓か、それとも、さらに悪趣味な希望の兆しか。今の僕には、残念ながらそれを判断するだけの材料も気力も持ち合わせてはいない。


 とはいうものの、僕たちは知っている。この、あまりにも犠牲の大きすぎた戦いが、決して無駄ではなかったということを。どんな未来が、どんな絶望が僕たちを待ち受けていようとも、僕たちには、共にその不条理と戦う仲間がいるという、その一点の事実だけを。


 僕は引野さんと相葉に、笑顔を向けた。それは精一杯のものであったが、我ながらぎこちないと思った。僕の瞳には、拭い去ることのできない深い悲しみを乗り越えた僅かな強さと、仲間と共にどんな未来であろうとも切り開いていくという、ほとんど狂気にも似た決意が宿っていたはずだ。

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