第5話 騙し騙され
屋上でアノマリーを辛くも撃退した後、ぜいぜいと荒い呼吸を整える暇もなく、首にかけていたイヤホンから叩きつけられる橘さんの切迫した声に意識を引き戻された。
『神代! 無事か! 応答しろ!』
「橘さん……! 屋上には
『陽動、か。奴の狙いが判明した。文学部棟地下書庫、最奥にある『禁断の部屋』だ。そこへ向かえ。単独行動は許可したが、状況は刻一刻と悪化している。我々も別動隊を編成し、まもなく大学へ強行突入する。それまで持ちこたえろ』
禁断の部屋なんて聞いたことがない。その言葉の響きに、言い知れぬ不吉な予感を覚えた。
「分かりました。ですが、引野さんたちが……『観測者』は、友人たちが危険な状況にあると……」
橘さんは電話の向こうで一瞬沈黙した。それは、甘さを詰るようでもあり、何かを深く慮るようでもある、複雑な間だった。
『……その可能性は高い。だが、お前が今優先すべきは『観測者』の確保、そしてその目的の特定だ。感傷的になるな。最悪の事態に備え、こちらでは『プロトコル・キマイラ』の発動準備を進めている。これが何を意味するか、お前も分かっているだろう。対象とその周囲一帯を『浄化』する最終手段だ。そうなれば、友人たちの安否も保証できん』
橘さんの言葉が脳髄を直接殴りつけた。浄化。最終手段。安否も保証できん。ハシュマル機関において、その名が意味するものは一つしかない。複数の異能、特殊技術、戦略を複合的に組み合わせ、予測不能な超常脅威に対抗するための、文字通りの最後の手段。対象の無力化、封じ込め、最悪の場合は周囲環境ごと対象を「消滅」させることも辞さない、非情なる強硬策。実行エージェントには多大な犠牲と精神的負荷を強いる可能性が高く、その危険性ゆえに、機関内でも一部の上級エージェントにしかその詳細は知らされていない「最後の切り札」それが発動されれば、この大学キャンパスは、文字通り焦土と化す。引野さんや相葉、そしてまだ大勢の学生たちがいるこの場所が、すべて。
「橘さん、それでも……彼らを見捨てられない。地下書庫へ向かう前に、二人を探します。合流して、安全な場所へ誘導してから……必ず!」
橘さんは深くため息をついた。
『……馬鹿者が。だが、それがお前の答えならば、好きにしろ。ただし、タイムリミットは三十分だ。それ以上遅れれば、プロトコル発動の是非を再考せねばならん』
それだけを言い残し、通信は一方的に途絶えた。
唇を強く噛みしめる。
「プロトコル・キマイラ……発動されれば、引野さんたちも……僕がやるしかない」
文学部棟へ向かうルートを頭の中で描きながら、同時に引野さんたちの微弱な生命エネルギーの気配を、全神経を集中させて探り始めた。
*
見つけた。相葉が学生の一人に組み伏せられ、引野さんが悲鳴を上げようとした、まさにその瞬間だった。
僕の意思が、眼前の空間を圧した。不可視の力が衝撃波となって狭い通路全体を駆け抜け、暴徒化していた学生たちを薙ぎ倒す。彼らは壁や地面に叩きつけられ、呻き声一つ上げることなく次々と意識を失っていった。念動力――僕の忌むべき、そして今この瞬間、唯一頼れる力。
「神代君!」
安堵と驚きの入り混じった声で僕の名を呼ぶ引野さんの顔が、視界に飛び込んできた。僕自身、肩で大きく息をつき、まだ微かに震えが残る右手をゆっくりと下ろす。念動力の余波で舞い上がったコンクリートの粉塵が、僕の周りで渦を巻いていた。
倒れている相葉に駆け寄り、彼の肩を貸して無理やり立たせた。
「大丈夫か、相葉! 引野さん、怪我は?」
「か、神代……マジ助かったぜ……」
相葉はまだ顔面蒼白だったが、安堵の表情を浮かべていた。
「神代君……ありがとう……。私は大丈夫…でも、相葉君は大丈夫かな?」
引野さんは、自分のことよりも相葉の心配をしている。
周囲を見渡す。
「ここは危険だ。安全な場所まで誘導する。ごめんけど、そのあと僕は行くところがある」
「神代君? こんな状況で、どこへ行くつもりなの?」
「……」
「神代君?」
「地下書庫にいく」
僕の顔を見つめながら、引野さんは力なく首を横に振った。
「待って、神代君。私も一緒に行く」
「駄目だ、引野さん。あそこは危険すぎる。この状況を引き起こしてる『観測者』が待ち構えているんだ。君たちを巻き込むわけには……」
引野さんは、こちらの目を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳には、恐怖の色は微塵もなく、ただひたすらに強い意志の光が宿っていた。
「分かってる。でも、神代君を一人で行かせるわけにはいかない。私のこの力でも……あなたの消耗を少しでも和らげたり、誰かの役に立てるかもしれない。それに……何もしないで待っているだけなんて、私にはできない」
彼女の声は震えてはいたが、その言葉の一つ一つには、決して折れることのない芯の強さが込められていた。
相葉も、まだ震えが止まらないながらも、懸命に口を開いた。
「お、俺もさ……足手まといかもしんないけど、何か手伝えること、あるかな……!」
「……」
言葉を失った。彼らの覚悟が、心を揺さぶる。しかし、それでもなお、彼らをこれ以上の危険に晒すことへの強い躊躇いが、決断を鈍らせた。
「だけど……」
話すのをやめて窓の外へ目をやる。
文学部棟の地下方向から、地響きを伴う不気味な轟音が響き渡ったからだ。それは、地球の奥深くで何かが目覚めたような、禍々しい振動だった。
同時に、地下書庫があると思われる辺りの地面の裂け目や、建物の窓ガラスという窓ガラスから、どす黒い、それでいて爛々と輝く赤い光が、間欠泉の如く噴き出し、曇天の空を焦がす。
僕たち三人は、そのあまりにも異常で、終末的な光景に、ただ息を呑むしかなかった。
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