第4話 分断される仲間、共闘への微かな光明

 大学本館屋上。吹き抜ける風は生ぬるく、眼下に広がるキャンパスは、既に異様な喧騒と死のような静寂が混在する混沌の絵図と化していた。僕は息を切らし、荒い呼吸を繰り返しながら屋上の縁へと歩み寄る。フェンスには赤錆の浮いた「立入禁止」の札。そこには、待ち望んでいた、という表現が正しいかはさておき、少なくともそこにいると想定していた「観測者」の姿も、覚悟していたその気配すらも、どこにもなかった。


「誰もいない……?」


 僕のつぶやきは、乾いた風にかき消された。その刹那、空間がぐにゃりと歪む。悪寒が背筋を駆け上がると同時に、屋上に設置された給水タンクの巨大な影や、無骨な空調設備の陰から、それらは音もなく姿を現した。


 昆虫と爬虫類を強引に融合させたような外見で、時に揺らめく黒点の集合体にも見える、名状しがたい形状の小型アノマリーが複数体。奴らは明確な敵意を剥き出しに、こちらを包囲せんと蠢動している。

 間髪を容れず、増幅された「観測者」の声が、頭の中に直接響き渡る。それは嘲弄の色を隠そうともしない、不快なテノールであった。


『神代那縁君、わざわざ屋上までご足労、感謝するよ。だが、私が君に会うのはまだ早い。まずは用意した遊具で楽しんでくれたまえ。ああ、そうだ、君の愛すべき友人たちは、今頃どうしているだろうね? キャンパスは阿鼻叫喚の舞台となりつつあるようだが』


「クソがっ! 引野さんと相葉を狙ってんのか!」


 奴の言葉が、心の最も柔らかな部分を的確に抉り出す。怒りと焦燥が、僕の思考を焼き尽くさんばかりに燃え盛った。

 アノマリー群が、甲高い奇声を発しながら一斉に襲いかかってくる。僕は咄嗟に念動力で眼前に不可視の障壁を構築し、奴らの突進を辛うじて受け止めた。さらに、屋上に転がっていた錆びた鉄パイプやコンクリート片を意思の力で浮遊させ、弾丸の如く射出する。一体一体の戦闘能力はそれほど高くない。しかし、その数は多く、動きは予測し難いほどに素早い。


「くっ……! こんなもんに構っている時間は……!」


 歯噛みし、力の制御に意識を集中させる。破壊ではなく、無力化を。これ以上、この力が無用な破壊と恐怖を撒き散らすわけにはいかない。過去の忌まわしい記憶が、網膜の裏側で焼けるように明滅する。

 金属が歪む音、コンクリートが砕ける音、アノマリーの断末魔の叫びが交錯する。激しい攻防の末、最後の一体を屋上のフェンスに念動力で叩きつけ、どうにか全てのアノマリーを沈黙させた。僕は肩で息をしながら、滲む汗を手の甲で拭った。



 その頃、引野知子は、隣を走る相葉陽太の強張った顔を見ながら、必死に平静を装っていた。先ほどの神代那縁の鬼気迫る様子、そしてキャンパスに響き渡った不気味な声――全てが現実の出来事とは到底思えなかったが、肌を刺すような緊迫感が、それを冷酷に肯定している。


「大丈夫? 相葉君。きっと安全な場所があるはずだよ」


 彼女はそう言ったものの、自分の声が微かに震えているのを感じていた。文学部棟近くの、比較的学生の往来が少ないはずの通路を選んで進んでいたが、そこかしこから聞こえてくる悲鳴や怒号が、そのささやかな期待を裏切り続けている。

 建物の角を曲がった瞬間、彼らは数人の学生たちと鉢合わせになった。その学生たちの目は虚ろで焦点が合っておらず、獣が威嚇する低い呻き声をあげている。明らかに、普通ではない。あれが、精神汚染の影響なのだろうか。


「うわっ!」


 相葉が怯えた声を上げ、引野の後ろに反射的に隠れる。学生たちが、よろめきながらもじりじりと距離を詰めてくる。そのうちの一人は、手にしたほうき凶器のように振り回していた。


 引野は意を決した。彼女の異能――限定的ヒーリング。触れた対象の軽度な傷や疲労を回復させる力。しかし、それは他者からは視認できない、微細なエネルギーの流れを伴うものだ。能力を行使する際、彼女自身は相手の苦痛や負の感情を、薄紙を隔てたようにではあるが、微かに感じ取ってしまう。そして、力を使うたびに、自身の生命エネルギーが、細い蠟燭の炎が揺らめきながら溶けていく、そんな独特の消耗感を伴うのだ。能力を持たない者には、彼女が何をしたのか、具体的に理解することは難しい。


「皆さん、落ち着いてください!」


 彼女の必死の呼びかけは、狂気に染まった彼らには届かない。一人の男子学生が、近くに落ちていた割れたモップの柄を拾い上げ、それを槍の如く突き出す勢いで襲いかかってきた。

 咄嗟に相葉を庇い、引野はその学生の腕に触れた。その接触と同時に、ごく微量のヒーリングエネルギーが学生の体内に流れ込む。瞬間、その学生の荒れ狂う憎悪と、底なしの混乱が、奔流となって彼女の意識に流れ込んでくる。


「あ……っ!」


 激しい頭痛と、胃の腑を掴まれる吐き気が同時に襲う。それでも彼女は、自分の生命エネルギーをほんのわずかに注ぎ込み、相手の攻撃的な衝動を和らげようと試みた。学生の動きが、ほんの一瞬、不自然にぎこちなくなり、突き出そうとしたモップの柄がわずかに逸れる。相葉には、引野が身を挺して守ってくれたようにしか見えなかっただろう。

 しかし、多勢に無勢だった。次々と襲いかかってくる学生たち。引野は相葉を守りながら、じりじりと後ずさる。(神代君……どこにいるの……?)心の中で、彼女は那縁の名を叫んでいた。自分の無力さと、それでも諦めきれない想いの間で、彼女の心は激しく揺れ動いていた。いつだったか、誰かを助けようとして、この力を使った結果、かえってその人を危険な目に遭わせてしまったのではないか――そんな、輪郭のぼやけた過去の記憶が、不意に脳裏を掠め、彼女の決意を鈍らせようとする。


「引野さん、危ない!」


 相葉が彼女を強く突き飛ばした。バランスを崩し、引野は床に倒れ込む。霞む視界の中で、相葉が学生の一人に組み伏せられそうになっていた。


「相葉君!」


 彼女は最後の力を振り絞り、震える脚で立ち上がろうとする。その時だった。

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