第13話【小さな違和感】——隷属への踏み入れ

4月中旬の日曜日。

春も深まり、4月下旬にさしかかったこの日の陽気。

朝から暖かい。

休日の余裕。たっぷりの時間。

葵は早朝からストレッチを行い入念に準備する。

加圧インナーを着用した後に感じていた筋肉痛はいつの間にかほとんど感じられなくなっていた。


朝食を済ました後、体に刻まれた“刻印”のような、インナーの締め付けの痕跡を見るのも楽しみになっていた。

目を細めながら優しく撫でる。


丸一日経っても跡が消えないことに最初は違和感を感じていたが、「あんなに強い締め付けてるんやけん」と自分を納得させていた。


インナーを丁寧に着用し、滑らかな生地が肌に吸い付く感触を楽しむ。音を鳴らしながら、身体が変わっていくような錯覚に身を委ねる。

その上から、お気に入りのベージュのサテン生地のワンピースを選ぶ。

インナーの影響で、ボディラインがさらに引き立って見える。仕上げに、白いカーディガンを羽織った。


鏡の前でそっと回ってみる。裾がふわりと広がるたび、インナーがワンピースの隙間からちらりと覗いた。

そのたびに、葵はインナーの裾を指先でつまみ、布の感触にそっと指を這わせる。

光沢を帯びた黒の生地が、淡いベージュのサテンにふと顔を覗かせる。その瞬間、まるで舞台裏の秘密がカーテンの隙間から覗いたような——そんな背徳的な美しさがあった。


スカートの奥、誰にも見せないはずの場所で、自分だけが知っているもうひとつの“本当の姿”。その存在を、葵は確かめるように何度も布に触れた。

キュッ、シュッ——微細な音と感触に、また疼くような心地よさが走る。


「……ほんと、愛おしいっちゃね……」


知らず吐息が漏れる。


* * *

昼13時。

街へと出た葵は、行きつけのカフェで、やや遅めのランチをとる。

注文したのはペンネ・アラビアータとアイスカフェオレ。

春の陽気はすでに初夏を思わせる暖かさで、葵の身体はじんわりと汗ばんでいた。

インナーはその汗を吸い上げ、より密着する感覚が強まっていた。

食後、軽い満腹感と共に席を立つ。着用開始から2時間が経過した頃だった。


「……うっ……!」


腹の奥から、内臓を握りつぶされるような感覚——いや、違う。“何か”が這いまわっている。

思わずその場で膝を折りそうになるのを、必死に堪える。


「くっ…うぇっ……う、うう……!」


下腹部にじわじわと、熱を帯びた鋭い痛みが広がる。息がうまく吸えない。

──それは「締めつけ」ではなく、もっと内側からの侵入のようだった。


お腹あたりを抑え、苦しそうな表情になる。

道行く人の視線を感じる。

一歩、歩くたびに太ももの内側で、インナーが“張りつくように動いて”いる感覚があった。


まるで、内側からも外側からも——そんな錯覚。

しばらくすると、締め付けはやや弱まった。

ただ、心臓の鼓動はいつもより激しい。


(……なんこれ?汗で濡れたから?)


独り言を呟きながら、胸に手を当てる。


……いや、今日の汗は、心なしか——少し、ぬるつく感じがあった。

汗というより、ぬめるような体液。

それがインナーの生地を通じて、ゆっくりと肌に染み込んでいる気がした。


確かに、インナーは湿気を帯び、肌への密着度が異常に高まっていたのかもしれない。

その後、本屋に立ち寄る。涼しい空調の中、汗が引いていく。締め付けは徐々に落ち着きを見せた。


「……まあ、汗かきやけん、汗で濡れるとこういう日もあるっちゃ」


再び自分に言い聞かせるように呟き、気を取り直して棚の間を歩く。

ホラーやサスペンスの新刊を手に取り、ページをめくる。

目当ての本は見つからなかったが、不思議と心は晴れやかだった。


* * *

夕方近く。帰宅。

締め付けが強くなったときの違和感は確かにあった。

けれど、それ以上に「街中を、自信を持って歩いた」実感の方が強く残った。


脱ぐ前、葵は入念にストレッチをする。

名残惜しさを覚えながら、少しずつ慎重にインナーを脱いでいく。


汗のせいか、いつもより数分余計に時間がかかった。

それでも、焦る気持ちはなかった。

着用時間は、きっちり4時間。


鏡の前に立ち、下着姿の自分を確認する。

薄明かりの中で、肌に刻まれた跡が淡く浮かんでいる。

まるで何かに「印」を付けられたように──否応なく、自分の一部になってしまったかのように。


あいかわらず残る“刻印”。

けれど、今はその痕跡よりも──

肌から布が剥がれていく、あの瞬間の“寂しさ”のほうが、ずっと重く胸にのしかかっていた。


背中にひんやりとした空気が触れるたび、体の芯が空洞になっていくような錯覚。

何かが“引き剝がされた”のは、果たして布のほうだったのか。

それとも、自分のほうだったのか。

ときどき、自分が本当に“裸”なのか、それすら曖昧になる。


肩の位置、背筋、ウエストのライン。

以前よりも整って見える。

インナーを脱いでも野暮ったくない。

それは、確かに自信の表れなのかもしれない。


──けれど。

それは“内側から削られて得たもの”ではなかったか。


わずかな油断で、もう一度あの布を纏いたい衝動がよぎる。

けれど、手を伸ばすには、何かが足りない。何かが欠けている。


脱いだ後の喪失感だけが、日を追うごとに、じっとりと染みついていく。

まるで……戻れないことを、誰かに告げられているように。




* * *


次の日。

——さすがに会社にインナーは着ていくことはできない。


意識的に背筋を伸ばす癖がついていたものの、完全に無意識とはいかない。

特に長時間の場合は。

維持するのは思いのほか疲れるので代替案として浮上したのがスポーツブラと補正下着。

以前試したものの効果がなかったが、無いよりマシだろう、の応急処置だった。


更衣室で、新入社員の女性が笑顔で近づいてくる。


「御舩さんってめっちゃ姿勢いいですよね。羨ましいです!」


その一言に葵は思わず頬を赤らめた。


「はは、あたしの先輩の洪野さん知ってるでしょ?あたしなんかまだまだ…」


「はい、昨日挨拶しました!立ち振る舞いがモデルさんみたいですもんね」


直美のことを褒められると、自分のことのように嬉しかった。


「おはよ~」

ちょうど直美が更衣室に入ってきた。


「あら、昨日の新入社員の子だね!今日も頑張ってね」

直美の快活なオーラに押され、挨拶もそこそこに口を半開きで応答する新入社員。


「はい、葵!お土産。みんなにも分けてね」

湘南ゴールドのスイーツだった。


「きゃー!これ、大好きっちゃ!湘南行っとったと?」


「うん、昨日大学時代の子らとね。ドライブがてら江の島行ったけどスゴイ人(笑)」


「いいなぁ…ありがとね!」


ふと、葵の頭をよぎったのは実家の家族や地元の友人たちだった。

東京ではほとんど友人がいない葵にとって、直美が眩しかった。


「ゴールデンウィークは地元に帰るから、お土産買ってくるけんね!」


その日、葵はOJTで部署の案内や業務説明を担当する。

新入社員の前では特に意識して姿勢を正した。

その結果、いつも以上に疲労困憊ひろうこんぱいしてしまった。


(やっぱり…インナーの支えが欲しい…)


それでも、あの黒い生地の「支え」は──身体だけでなく、自分の内側にまで染み込んでいたのだと気づく。


スポーツブラでは、どこか“浅い”。

補正下着では、ただの“代用品”。


──本当に欲しいのは、やはり、あの得体の知れない「緊張感」だった。






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