第4話【直美の提案】——“締めつけられるのが好き”って、おかしいですか?
3月初旬。
年度末の数字と締め切りに追われる日々は、まるで背中に鉛を詰められたようだった。
肩の力が抜けないまま、息をするのも億劫になっていく。
新入社員だった頃——風邪で高熱と咳が続いたときも、葵は休まなかった。
解熱剤と咳止めでごまかしながら、出勤し、「大丈夫」と笑ってみせた。
「洪野さん、ちょっといいかな?御舩さん…いつも残業してるけど大丈夫?」
洪野直美は2年前、葵の教育係としてそばに置かれた。
時折上司から叱責を受けていた。
「すいません、私の段取りが悪く手伝わせてしまっているようです。気を付けます」
入社当初から「今日は切り上げて帰れ」と言っても聞かない。
自分が納得するまでやり切ってしまう。
(この子、頑張りすぎる節がある)
直美は早い段階で葵の性格に気づいていた。
体調不良すら“気のせい”と片付けるような性格——というより、誰かに心配されたり、迷惑をかけたりすることのほうが、ずっと怖いのだろう。
直美は葵の姉かあるいは保護者のように、時に過剰に気に掛けるようになっていた。
——葵は中学と高校時代はバスケットボール部だった。
6年間耐え忍び最後にレギュラーを勝ち取った、その精神力だけが彼女を支えていた。
会社の制服は白いブラウスとリボン、そして紺のベストと膝丈のタイトスカート。
更衣室でこのタイトめのベストとスカートに身を包む。
鏡の前で、きゅっとスカートのウエストを引き上げる。
「……やっぱ、ちょっときついっちゃ……」
ファスナーを引き上げると、下腹がぐにっと押し返してきた。
着るたびに、自分の変化が数値ではなく“感触”で分かってしまう。
それが嫌だった。だからこそ、毎日やってしまう。何度目だろう、この動作。
無意識のうちに肩が落ちて、自信なさげに見える。
「ダメ……ちんちくりん…背中、丸まっとろうもん」
福岡出身の葵にとって、感情が高ぶったときに出る博多弁は、ある種の“本音”だった。
東京ではできるだけ標準語で過ごしてきたが、家族や同郷の友人、そして直美と話す時と自分のことを叱るときだけは、つい昔の言葉に戻る。
制服姿の直美が隣のロッカーを開けるのが見えた。
「ん、葵、顔色戻ったじゃん。良かったね」
「うん、直美さんのおかげやけん……。早退して、結構考えて……。でも、やっぱりまた戻ってくると、気合いで何とかなるって思っちゃう……」
「それがアカンっちゅー話なのよ。まったく」
「ぐぅ……」
「あっ、ぐぅの音が出た」
直美の苦笑は優しい。それが逆に、胸に刺さった。
別の日、葵は直美と居酒屋へ。
直美はビール中ジョッキ2杯目、まだ涼しい顔。
対して、葵は1杯で頬がほんのり赤い。
「で、相変わらず体型に悩んでるって?」
「……うん……! うん!! ……ほんとマジで聞いて…あたし、もうムリかもしれんっちゃけど…!」
急に葵のスイッチが入った。
直美は(やば…きたな)と内心で苦笑する
「1年前くらいからよ!? もうなんか、お腹まわりとか、太ももとか、ぜーんぶ気になって仕方なかと!」
身を乗り出して一気にまくしたてる葵。
「服が入らんくなって、ボタン飛びそうなるし、鏡見たら“誰この人…”って思って。ふわっとした服ばっか着るようになって、それがまたダサく見えて…ヒール履いてもなんかバランス悪くて…!なんなん!? もうあたし、一体なんなん!?」
「いや、別に—」
(かぶせて)
「でさ!もう自分のラインが見える服とか無理やけん、ふわっとしたチュニックとかロングカーディガンとかばっかり買いよるとよ!?それがまた余計ダサく見えてさ!?しかもヒールとか履いてもなんかバランス悪く見えるし!?なんなんもう!?直美さんは身長めっちゃ高いし細いし顔ちっちゃいし、うらやましか!……あたしは……なんか恥ずかしか!」
「恥ずかしいのか—」
「しかもさ、甘い物やめられんっちゃけど!? ケーキとかアイスとか見ただけで幸せなるし、コンビニのスイーツとか、あれって合法の麻薬よ!? あたしほんとアホうやけん、 わかっとるのに、夜になるとポテチとチョコとカップ麺いってまうっちゃもん!」
「……ちょっと落ち着こ?」
「だってさ、生きてる意味って何!? 仕事して帰って寝て、また朝起きて、仕事して……唯一の楽しみが美味しいもん食べることっちゃん!? それまで我慢したら、もう何のために生きとると!?」
——一気に吹き出した感情は、止まる気配もなかった。
日々溜まっていた小さな自己否定が、今ようやく言葉になったのだ。
直美は、グラスを傾けながら葵を見つめる。
いつものことだ。
けれど今日は少しだけ、葵の目がうるんでいた。
「ウエストんとこ、ほんと浮き輪やけんね!? くびれが脂肪に埋まって消えとるとよ!? も〜どうしたらよかと!?」
「……まぁ、葵はちょっと汗かきすぎってのもあるけどね」
「それそれそれ!! すぐ汗びちょびちょなるし、地図描くし、色選ばんといかんし、化粧も落ちるし、猫背で姿勢悪いし、自信なんかあるわけないっちゃ!」
「……で、聞こうか。本音は?」
そのひとことで、葵はふと小声になった。
——勢いで上塗りしていた本音が、ぽろりと口からこぼれ落ちた。
「……彼氏ほしい」
直美は吹き出した。
「はい出た!」
「誰でもいいから抱きしめてほしい…ギュッって」
「誰でもよくはないだろ」
「でも…、ほんと真剣なんよ!? 自信ついたら、可愛い服着て、恋とかできる気がするっちゃもん……でも甘いもんやめられんし、腹すくし、我慢できんし……どうしたらいいと……直美さん、助けて……」
「社内の人は?」
「う~んよくわからん…」
「営業の
「あの軽いノリがなんか苦手やけん…」
「企画部の
「新しくできた激辛インドカレーのお店行こうって、そんなん、行くやん…」
「ちょろ…」
直美は思わず飲んでいたビールを吹き出しそうになった。
「う~ん、じゃあ出会い系アプリでもやってみるか!」
「知らん人と話せる自信が…無い~」
ガクッと首を垂れる葵。それを見て直美が呟く。
「自信…、か…」
そしてふっと肩をすくめた。
「更衣室で腰まわり気にして、ため息ついてるの、見てたよ(笑)」
「見られとったんか……」
「そんなに体型変えたいの?」
「
「だよね」
「……直美さん、なんかいいの知らん? 魔法でもかけてくれん?」
「葵って、時々ほんとメルヘンだよね」
「直美さんはリアリストやけんね」
「アタシ、あんたに
「買うっちゃん♡」
「……そういうとこ、嫌いじゃないけど気をつけなよ!…ったくお人よしなんだから」
「うふっ……らじゃ~」
直美は少し黙って、氷の溶ける音を聞いていた。
そしてふと、視線を落とした。
「……魔法じゃないけどさ、筋トレとか、ジョギングとか、補正下着とか、月並みなやつ」
「全部試したっちゃ! 嘘やないけん……どうしても続かん……あたし、ダメやけん……」
「そんな簡単に痩せられたら、苦労せんって(笑)」
「補正下着も全然効かんかったし、苦しいだけやけん……」
「……補正下着、か……」
直美の声が、一瞬だけ低くなった。
——そこだけ、居酒屋のざわめきが遠のいたように感じられた。
葵が顔を上げる。
「ん? なに?」
「うちの親がさ、会社やってて……肌着とかスポーツインナーとか、ブランドいくつか出してるんよ」
「えっ、そうなの!? 初耳!」
「“
「んー……なんか前に聞いたような……えへへ」
「聞いてなかったな(笑)」
「ばれた……」
「検索してみ」
酔いの回った手で、スマホを操作する葵。
「……社長の名前、“洪野 凌一”!? え、直美さんと一緒やん!? ……でも、顔ぜんっぜん似ってな〜い!(笑)」
「こらこら、声がでかいって……ほんと酒入ると人変わるよね、葵は」
「へへ……でしょ?」
「褒めてないからね!」
「……へ? なにこれ? モニター募集?」
「それそれ」
葵のスマホの画面に映し出されたのは、ある広告だった。
——『加圧インナー
画像の中には、黒く
スポーツウェアというより、競泳水着を思わせるデザインだった。
その質感も普通ではなかった。ポリエステルともスパンデックスとも違う、どこか異様な光沢。その艶の深さが、不気味なくらいで“生き物”のように見えた。
——まるで、何か意志を持っているかのような衣服だった。
「んんん…!?こりゃすごいっちゃん、SMの女王様みたい…ぶはっ!」
「アタシも最初に見た時ドン引きしたさ。葵の反応は正常だね、良かった」
「…えっ、あたしはドン引きしてなんか…いやちょっとだけね…」
「まあ…効果は抜群にあるらしいよ。めちゃくちゃ締め付けてくるって。この会社のスタッフの人とインターンで会ったことあるんだけど、その人からメールが来てた。父にメールを送るように頼まれたって。で、アタシに着てみないかって(笑)」
「な、直美さんはもうこれ着たっちゃ?」
「いや、さくっと断った(笑)」
「直美さん、元々細いもけんね!あたしは…どうしたらいい?」
「自分で決めなよ」
「う~そんなこと急に言われても…」
「SNSとかネット広告もガンガンやってるから、100名のモニター募集もすぐ埋まるんじゃないかな?まあ、抽選だし、ダメ元で応募してみたら?」
直美は(どうせ当たらないだろう)と思い、葵に提案していた。
「直美さんがそう言うなら…うん!」
葵はアルコールで
——まさか、この軽い会話が、彼女の運命を、あれほど大きく変えるとは
直美も、葵も、そのときまだ知る由もなかった。
次の日。
昨日のお酒の席での直美との会話の記憶は、断片的だった。
でも、あの広告の画像だけは、なぜか鮮明に焼き付いていた。
夕食を軽く済ませたあと、葵はソファに横たわり、先日購入した分厚い本を手にする。
——本当は怖い童話集
『白雪姫』『ヘンゼルとグレーテル』『マッチ売りの少女』。
見慣れた童話が、どこか陰鬱で、冷たい文体で綴られていた。
その中に、聞き慣れないタイトルも混ざっていた。
『赤い靴』『ラ・ベリーナ』『フィッチャーの鳥』『かえるの王様』——。
「赤い靴……なんか気になる…。」
ふと気になって、該当ページを開く。
——ある貧しい少女が、赤い靴を手に入れた。
履いた瞬間から、足が勝手に踊り出し、止まらなくなってしまう。
どんなに疲れても、痛くても、靴は勝手にステップを踏み続け、
最後は足を切り落とさないと止まらなかった——そんな話。
「……え? 靴が脱げんなって、足まで落とすん? 気の毒すぎやろ……」
どこか
少なくとも、自分とは
ページを閉じた手のひらが、なぜか少しじんと痺れていた。
駅前の洋菓子店で買ったシュークリームを冷蔵庫から取り出し、ペロリと平らげる。
食べ終わり、ふと、胸の奥に、ごく小さな“空洞”が生まれていくのを感じていた。
そして、そこに灯るように、何かが静かに燃えはじめていた。
クリームが少しついた手を洗った後、何気なくスマホを手に取った。
指が勝手に、画面をスクロールする。
——『加圧インナー
(これ……昨日、直美さんが言ってたやつや)
“最新の体幹補正技術と独自の形状記憶素材による加圧制御。
日常着として着用可能なインナー型ボディメイクウェア。
現時点では非売品。体験モニターとして抽選で100名に配布。”
一通り読んだ後、葵はスマホを少し遠ざけた。
(いやいや……やっぱ、見た目やりすぎやろ……)
ページを閉じかける。
……が、手が止まる。
まるで画面の中から、なにかに腕を掴まれたように。
禁断の何かに触れるような気持ちで、再び画面に見入る。
(なんでこげん気になるっちゃろう…)
あの画像。あの光沢。まるで布じゃないみたいやった。
一瞬、背筋に冷たいものが走る。
でもそれは、恐怖じゃなかった。
(これ…着てみたい…かも)
むしろ、期待に似た“ざわつき”だった。
迷った末に、直美にLINEを送る。
『直美さん、昨日言ってたモニター募集の…加圧インナー?モニター申し込んでみるね』
数分後、「既読」がつき、すぐに返事が届いた。
『うん、いいんじゃない?モノは良いって聞いてるし』
そのひとことで、葵の肩の力が少し抜けた。
気づけば、スマホの「申込ボタン」をタップしていた。
必要事項を入力して抽選に申し込んだ。 名前、住所、連絡先、年齢、サイズなど、淡々と入力を済ませていく。 申し込みを終えたあと、スマホをテーブルに伏せた。
それだけのことだった。
……そのときは。
——1週間が過ぎた。
モニター募集に応募したことすら忘れるほど多忙を極める年度末。
業務に追われながら毎日栄養ドリンクを飲み干し、残業で疲れ果てて帰路につく日々が続いていた。
——土曜日。
葵は寝癖を直そうともせず、昼を過ぎてもダラダラと布団から出られなかった。
カァカァとカラスが鳴く声が聞こえてくる。
いつの間にか日も暮れていた。
テレビをつけたまま、部屋の片隅にうずくまる。
ふと流れてきたのは、ある中堅芸人のダイエット企画。
3ヶ月間の苦労の末、彼は見違えるような体型に変わっていた。
(……体型を変えるのは、半端な覚悟じゃダメなんや……)
——
声には出さなかった。
けれど、心の中でははっきりと、祈るように言葉が浮かんでいた。
(……そろそろ、抽選結果出らんちゃろうか)
軽い気持ちのはずだった。
けれど、どこかで“選ばれたくてたまらない自分”がいる。
——その願いは、まるで見えない何かを“呼び込む”呪文のように響いていた。
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