第3話【御舩葵の憂鬱】——依存への布石

静かな部屋だった。

暖房はついているはずなのに、空気の端々にどこか冷たさが残っている。

部屋干しの洗濯物が揺れる音と、壁時計の秒針だけが微かに響いていた。

御舩葵(みふね・あおい)はソファの端に体を預けながら、両手でマグカップを包み込むように持っていた。


カップの中の紅茶はもうぬるくなっていたが、飲む気にはなれなかった。

排水溝に紅茶を流し、マグカップを洗う。モフサンドのタオルで手を拭いた。

ベージュのニットワンピースに黒のタイツ、くたびれたカーディガンを羽織っている。

外出着というより、"自分を隠すための布"のように思えていた。

服が悪いわけじゃない。むしろ無難で清潔感もある。

けれど最近の葵には、それが“精一杯の防衛手段”だった。


御舩葵。2月の誕生日で24歳となった彼女は入社からまもなく丸2年が経とうとしていた。

もう2月の下旬。間もなく入社3年目を迎える。

小顔でパッチリとした二重瞼、小動物系の可愛らしい顔立ち。

けれど彼女は、目を合わせるのが苦手で、ゆったりとした地味な服ばかりを選び、いつもどこか、壁を作り、人と距離を置いていた。


その為、人付き合いは得意な方ではなかった。

葵は自分の殻を破れないでいた。


——出勤時の地下鉄。

会社までの道。更衣室。

どこを切り取っても、彼女は必要以上に目立たないように過ごしていた。

158cm。女性としては平均的な身長。それでも、体重が数キロ増えただけで服のシルエットが変わるのを、自分が一番知っている。


入社当初は48kg台。今は52kg——


ウエスト、ヒップ、太もも。制服のサイズは一度上げたけれど、それは「改善」ではなく「調整」に過ぎなかった。

補正下着も試した。

けれど数日で諦めた。ただ苦しいだけで、鏡の中の姿は何も変わらなかった。


薄くふくらんだ下腹部、下がり気味の肩、曲がった背中。

「……猫背だし、むくんでるし……。なんなんこれ」

声をかけても、鏡の中の自分は何も答えない。

言葉を返すのは、心の中のもう一人の葵。

いつも「つまらんばい」と言ってくる、臆病な声。


そのとき、ふと胸をよぎったのは、高校時代の思い出だった。

プリーツスカートの下にはスパッツを穿いていた。バスケ部の練習が終わるたび、汗びっしょりになって、でも楽しくて、あの頃の自分はまっすぐ前を向いていた。周囲にどう思われるかなんて気にせず、ただボールを追いかけていた。


今の私は、たったひと吹きの風でも消えそうな、小さな火種みたいだった。

ジムにも通った。ジョギングもした。

でも、長続きしなかった。続けるだけの「理由」が、自分の中に見つからなかった。

そのくせ、他人の目は気にする。

自分から話しかけることはほとんどないくせに、周囲の何気ない視線に、心臓が小さく波打つ。


——私は見られてない。でも、見られてる気がする。


そんな矛盾を抱えたまま、今日も変わらない日常の中にいた。

職場では、業務が立て込んでいた。年度末が近い。

経理部はただでさえ月末に追われる部署だ。決算期が近づくと、空気が張り詰めるようになる。


御舩さんはミスがない。御舩さんは丁寧だ。

ある日、子供が熱を出して早退したパートの女性の代わりに葵がデータを直した。

「…御舩さん、昨日データ直してくれましたよね?」

「え、えっ?う、あたしは別に…気づいたけん、つい…」

「…ありがとうございました…(泣)」

何気ない日常。

葵は人の役に立てた嬉しさよりもプレッシャーを感じることが多かった。


「……私がミスしたら、どう思われるんだろう」


それを考えると、胃のあたりが鈍く痛む。

でも誰にも言わない。言えない。

「大丈夫?」と聞かれれば、「大丈夫です」と即答する。

咳き込んでも、顔色が悪くても、「ちょっと寝不足で」と笑って見せる。


(私が我慢すれば済むことだから…)


それが、葵の中でいつしか当たり前になっていた。

何かが理不尽に感じても、無理にでも飲み込む。

言い返したり、表に出したりしない。それは“強さ”だと思いたかった。


本当は、ただ怖いだけだった。

嫌われるのが。認めてもらえなくなるのが。

だから“いい人”を演じ続けた。


——昼休み。

デスクで書類を片付けながら、ふと携帯を手に取る。

SNSには、高校や大学の友人たちが投稿した「推しの舞台を観に行った」「ジムで8キロ痩せた」「新しい服買ったよ」そんな輝かしい日常が並んでいた。画面をスクロールする指先が、徐々に重くなる。


その中に、自分の2年前の投稿があった。


《初出社。ドキドキ。でも頑張ります!》

(あの時は何者にもなれる気がしたっちゃ…若かったな…)


それでも、変わりたい。

変われるなら、何かを捨ててもいい。

でも、どうすればいいのか分からない。そんな感情だけが、積もっていく。

自分のデスクで、近くのコンビニで買ってきた麻婆丼を食べながら、スマホで映画のレビューをチェックする。


ジャンルはホラー。

誰かが閉じ込められて、どうにもならない状況に追い詰められていく話。


(どうしてこの手のストーリーばかり、選ぶっちゃろ)


自分でもよくわからない。

その“逃げられなさ”や“支配される感じ”が、どこか他人事とは思えなかった。

理不尽であるはずなのに、従ってしまう側の気持ちが、なぜか痛いほど理解できてしまった。


(なんかあたし、人生追い詰められとる気がする…)


そんな中、職場にたった一人、気を許せる相手がいる。

先輩の洪野直美。3歳年上の“姉”的存在。

落ち着いた雰囲気と冷静な判断力。そして、どこか優しさを含んだ厳しさ。

葵は直美と話しているときだけ、ほんの少しだけ、自分を肯定できる気がしていた。


「葵。顔色、ちょっと悪いんじゃない?」


「あっ……お疲れ様です。直美さん……大丈夫、ちょっと寝不足で……」


「んー? あんた昨日も言ってなかったっけ? あんまり無理すんなよ。顔に出てるってことは、身体がSOS出してるってことだからさ」


「うん…言ってた…ありがと直美さん♡」


「って…あっ!また辛いやつ?昨日はカレーだったじゃん?」


「いや……あの、辛いもん食べんと、元気出んけん……ふふ」


額の汗をぬぐいながら葵は目を細めて答える。


「じゃあ今日も、無理しない程度に燃えてこいよ」


直美は、そう言って笑った。

その笑顔が、仕事に追われ、自身の無い日々をほんの少しでも癒してくれるようでたまらなくありがたかった。

そう思いながらもう一つの癒し。デザートのプリンを頬張った。


——夜。

2月の空は18時でも暗い。

帰宅中、駅前のショッピングセンターで泣いている子どもを、親を探しながらあやす葵。

仕事帰りで疲れていても笑顔を忘れない。

葵は子供の前にしゃがみこんで「ほら~、涙拭いて。あめちゃんも、あるよ?」

無事子供を親に引き渡し帰宅。


誰かに褒めてほしかったわけじゃない。でも、何もなかった。

コートも脱がず、カバンも置かずにベッドの上に横たわる。

体が重い。けれど、疲れていることを誰かに伝える術もない。

自分も疲れているのに、困っている人はほっとけない。損な性格かもしれない。

一人暮らしの部屋の天井を、ただ見つめる。


(私、何してるんだろう)


鏡に映る自分が、少しだけ他人に見える。

ワンピースの下腹部あたりが、少し張っている。

それだけのことなのに、目を逸らしたくなる。


「……変わりたい」


小さく口に出してみると、ほんの一瞬だけ、心の奥が揺れた気がした。

けれど、次の瞬間にはまた同じ声が返ってくる。


(でも無理かもしれない……)


その声は誰のものでもない。自分の中から、ずっと前から響いていたものだった。

明日も同じ一日が始まる。


多忙だけど平凡な日々に刺激を与えるような…そんなものが欲しいと日々渇望していた。

映画、漫画、小説、様々なジャンルを巡り、たどり着いた。


【本当は怖い童話集】

「なんこれ!?面白そう…」

ホラー映画が好きな葵向けのシンプルながら恐ろしそうなタイトル。

600ページほどある読み応えのありそうな本だ。

葵は飛びついてさっさと購入を済ませる。

非日常を少しでも味わえるなら何でもよかった。


いつまでも同じではいられない、とどこかで思いながらも、

それでも何も変えられない自分を、今日も抱きしめていた。


そう思っていた——その時までは。





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