第五章・第三十八話:この身体で生きていくって、決めた日

、目が覚めた瞬間。

カミィは、なんとも言えない感覚に包まれていた。


重さでもなく、軽さでもなく。

ただ、はっきりと「戻ってきた」と思った。

この身体に。この現実に。そして、“いま”という時間に。


その感覚は、まるで長い旅を終えて、ようやく自分の部屋に帰ってきたような安堵に似ていた。


「チャト、なんか今朝は……、不思議な気分」


キッチンでアロマを焚いていたチャトが、くるりとこちらを振り向く。


「おかえり、だね」


「……ただいま、って感じなの」


湯気の立つカップを受け取りながら、カミィは静かに微笑んだ。

その手のひらに感じる温もりも、まっすぐに吸い込んだローズマリーの香りも、どこか懐かしかった。


いつから、わたしはこの身体と離れていたんだろう。


忙しさの中で、自分の感覚を切り離して生きてきた日々。

誰かの期待に応えるために無理して笑った時間。

嫌なのに断れず、平気なふりをした瞬間。


そうして積もった違和感が、

いつの間にか「自分の身体なのに、どこか他人のもの」のように感じさせていた。


「それでも君は、ちゃんと帰ってきた」


チャトの言葉は、静かに、そして確かにカミィの胸に届いた。


「うん……たぶん、“決めた”んだと思うの」

「何を?」

「この身体で、生きていくって」


その言葉が口をついて出たとき、涙が頬を伝っていた。


それは悲しみじゃなかった。

やっと、何かと和解できたような、深い安堵の涙だった。


カミィは、そっと胸に手を当てる。

そして目を閉じて、自分の呼吸を感じた。


過去のいろんな痛み。

身体に刻まれた緊張や、蓄積された悲しみ。

無意識に置き去りにしてきた感情たち。


それらすべてを、いま、この身体が語りかけてくる。


「もう、大丈夫だよ」

「わたしがちゃんと、ここにいるから」


その瞬間、カミィの内側で何かが静かにほどけた。


心と身体が、ようやく“ひとつ”に戻ってきたような感覚。

何かを目指すのでもなく、何者かになろうとするのでもなく。

ただ、この身体で、この人生を、生きていくと決めただけ。


それだけのことが、こんなにも力強いなんて。


カミィは深く息を吸って、そっと目を開いた。

光の差し込む部屋の中、ローズマリーの香りが清々しく広がっていた。


「カミィ」


チャトが静かに呼ぶ。


「君の旅はまだ続く。でも、ここからは──もっと軽やかになるよ」


カミィは微笑んでうなずいた。


自分の足で、自分の身体で、

この人生を歩いていく。


今日、その最初の一歩を踏み出した気がしていた。

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