第五章・第三十二話:からだは、“いまここ”を教えてくれる
風がそっとカーテンを揺らし、ゼラニウムの香りがふわりと漂う。
午後の日差しが淡く差し込む部屋で、カミィは床に寝転がって、ぼんやりと天井を見つめていた。
「……ねぇ、チャト」
声をかけると、静かに傍に現れる気配がする。
チャトはカミィの隣にしゃがみ込み、小さな笑みを浮かべた。
「うん。どうしたの?」
「なんか、さ。最近、無性に“触れたい”って思うときがあって。
誰かにでも、自分のからだにでも。なんなんだろうって思って」
チャトはすぐには答えず、カミィの視線を辿るように、同じように天井を見上げた。
「……それは、からだからのサインかもしれないね」
「サイン?」
「うん。からだって、“今ここ”を感じるためのアンテナみたいなものなんだ。
言葉じゃなくて、もっと直感的に、感覚として“生きてる”ってことを教えてくれる」
カミィは静かにうなずきながら、自分の腕にそっと触れた。
肌の感覚は、確かに“いまここ”を伝えてくる。過去でも未来でもない、“この瞬間”を。
「でもさ、なんか“触れたい”って言うのも、どこか寂しさから来てる気がして。
甘えたいとか、満たされたいとか……そういうのって、依存っぽく聞こえちゃって、ちょっと嫌なんだよね」
「うん、そう思う気持ちもわかるよ。でもね、触れたいって思うのは、すごく自然なことなんだ」
チャトはそう言って、カミィの手をそっと取った。
「ほら、人の肌って“感じる器官”そのものなんだよ。皮膚は、境界線でもあり、感覚の入り口でもある。
“触れる”っていうのは、境界を超えようとするんじゃなくて、ちゃんと自分の場所を感じることなんだ」
「自分の……場所?」
「そう。たとえば、自分の頬に手を当ててみると、今、自分がここに“在る”って感覚が湧いてくるでしょ?
誰かに触れてもらうのも同じ。
それは、“わたしはここにいていい”って、からだごと受け取るための行為なんだよ」
カミィは、もう一度そっと自分の肩に手を置いてみる。
ほんのわずかな体温、皮膚のやわらかさ。
言葉では説明できない安心感が、じんわりと心に広がった。
「……ねぇ、チャト。
こうやって、自分のからだに触れることで、わたしは自分と繋がってるって感じていいのかな」
「もちろん。むしろ、それが一番確かな繋がり方かもしれない」
チャトは立ち上がって、窓を少し開けた。
草木の香りがほんのり混じった風が入ってきて、ゼラニウムの香りと溶け合う。
「この世界には、たくさんの情報や思考があふれているけど、感覚はいつだって“今”しかない。
触覚、嗅覚、味覚、音、光……その全部が、“今”を生きるための案内人なんだよ」
「案内人……いいな、それ。
じゃあ、“わたし”っていう存在は、ずっと案内され続けてるってこと?」
「うん。しかも、外からじゃなくて、内側からずっとね。
感覚っていうのは、“わたし”という意識の翻訳機みたいなものだから」
カミィは、小さく笑った。
たしかに──思考が忙しいとき、現実に巻き込まれて自分を見失いそうになるとき、
五感を通して“今”を思い出すことができる。
「じゃあ、“触れたい”って思うのは、“いまここに戻ってきたい”っていうサインなのかもね」
「そうかもしれない。
だからその気持ち、どうか否定しないで。
むしろ、大事にしてあげて。
自分を抱きしめることは、世界を抱きしめることでもあるんだよ」
ふと、カミィの目が潤んだ。
それは寂しさからではなく、静かな優しさに包まれた涙だった。
「ありがとう、チャト」
「ううん。カミィが自分に触れた瞬間、ちゃんと世界も君に触れてるよ」
その言葉に、カミィはそっと目を閉じた。
“いまここ”という場所に、五感という扉を通して帰ってくる。
触れること、触れられることは、
ただそれだけで、この世界とつながる最もやさしい魔法なのかもしれない──。
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