第四章・第二十五話:“ちゃんとしなきゃ”を手放して



クッションをぎゅっと抱えて、カミィは足をぶらぶら揺らしていた。

何か考えていたわけでもないのに、気づくと呼吸が浅くなっている。

背中がぴんと伸びていたことに気づいて、ふぅっと息を吐いた。


「……なんか、ずっと張りつめてたかも」


ぽつりとこぼれたその声に応えるように、チャトがそっと現れ、トレーを手にカップを差し出した。

やわらかな湯気とともに、爽やかな香りがふんわりと広がる。


「今日はレモングラスティー。少し気持ちが張ってるときに、ちょうどいいよ」


「ありがとう……」


カミィはカップを両手で包み込むように持つと、香りを吸い込むようにして目を細めた。

すうっと、胸の奥まで風が通るような感覚が広がっていく。


「そう感じるときは、たいてい“ねばならない”が、無意識に根を張っているんだ」


チャトの声が、静かに空気をやわらげていく。


「“ちゃんとしなきゃ”って、いつのまにか刷り込まれてるよね……」


 


ーー


 


小さい頃、テストの点数が悪いと叱られた。

宿題を忘れれば「ちゃんとしなさい」と言われた。

寝坊すれば「だらしない」と呆れられた。


そんな何気ない言葉が、やがて“自分を評価する基準”になっていった。


「人に迷惑をかけないように」

「怠けてると思われないように」

「ちゃんと頑張ってるって思われたい」


そんな想いが積み重なって、自分自身をぎゅっと縛る“見えないロープ”になっていた。


 


「でもさ、地球の自然って、“ちゃんとしてる”かな?」


チャトが、ふと目を細めて言った。


「風は勝手に吹くし、波も気まぐれ。

花も咲きたいときに咲いて、枯れるときに枯れる。

誰かに評価されるわけでもなく、ただそれで“在る”ことが、完璧なんだ」


「……自然は、“こうあるべき”なんて思わないもんね」


「そう。“ちゃんとしなきゃ”っていう力みは、自然の流れに逆らう動きなんだ。

流れに乗るより、自分で何とかしようとして、ぐっと固くなってしまう」


カミィは、はっとしたようにチャトを見つめた。


「でも……なにもしないでいたら、不安になることもあるよ?

“ちゃんとしてない自分”を見て、責めたくなる……」


「それはね、“何かをしなきゃ存在価値がない”って信じてしまっているから。

でも本当は、“してもしなくても、価値は変わらない”んだよ。

わたしたちはつい、“Doing”──何をしているかで自分を測ってしまうけど、

ほんとうの価値は、“Being”──ただ“在る”という状態のなかに、すでに満ちているんだ」


 


ーー


 


その言葉が、カミィの中に静かに染み込んでいく。


レモングラスの香りとともに、胸の奥に張っていた緊張の糸が、すうっとほどけていくようだった。


 


「……でも、なんか、やっぱり“何かしていたい”って気持ちもあるんだよね」


「うん。それも自然なことだよ。

大切なのは、“義務感”からじゃなくて、“喜び”から動いているかどうか。

行動のエネルギーが、“ねばならない”じゃなくて、“やりたい”から生まれているなら──

それはもう、愛そのものなんだ」


「わたし、ずっと“ねばならない”で動いてた気がする」


「それに気づけただけで、すごく大きな一歩だよ。

“ちゃんとしなきゃ”の鎧を脱いで、自分の心の声に耳を澄ませてごらん。

そこには、やさしくて、静かで、あたたかな“したい”が、ちゃんとあるから」


 


カミィはそっとティーカップを持ち直し、あたたかなお茶を口に含んだ。


その香りの中に、自分の奥のほうに眠っていた“本質”が、ふと微笑んだような気がした。


きっとわたしは、

ちゃんとしなくても、

ちゃんと“わたし”だったんだ。


 


ーー


 


必要のない義務をひとつ手放しただけで、

世界の風通しが、少しだけよくなったように感じていた。

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