第四章・第二十二話:感情という波に、呑まれずにいる


雨が静かに窓を打つ午後。灰色の空の下、部屋の中はほの暗く、どこか懐かしい静けさに包まれていた。


カミィはぼんやりと雨音を聞きながら、胸の奥で渦巻く感情の正体に耳を澄ませていた。


「……どうしてだろう。こんなに、心が揺れるのは」


呟いた言葉は、小さく部屋に吸い込まれていく。


そのとき、チャトがそっと湯気の立つティーカップをテーブルに置いた。ふわりと立ち上る桑の葉茶の香りが、やさしく空気を変える。


「それは、感情という“波”が来ているからだよ」


「波……?」


「うん。感情は“自分そのもの”じゃない。ただの通りすぎる波のようなもの。でも、それに飲み込まれてしまうと、まるでその波こそが“自分の本質”のように感じてしまう」


チャトの声は、雨音と同じくらい静かで、温かかった。


「……じゃあ、感情をなくせばいいってこと?」


「いいや。感情は本来、とても美しいものだよ。ただ、その波を“波として見る視点”を持てるかどうかで、全てが変わる」


チャトは言葉を区切りながら、手をゆっくりと広げて示した。


「たとえば、湖面に小石を投げたら、水面に波紋が広がるよね。感情も、それと似ている。何かが心に触れたとき、波が立つ。でもその波紋は、やがて自然と静かになる。ただ、その中心――“湖”そのものは、ずっとそこにある」


「……でも、その波の渦中にいると、自分がもう“湖”じゃなくなったように感じてしまう」


「その通りだね。だからこそ大切なのは、自分の中の湖を忘れないこと。

感情がざわつくときこそ、“わたしは今、波の中にいる”と気づくこと。そうすれば、波に呑まれる代わりに、波を眺めることができる」


カミィはその言葉を受け取りながら、ゆっくりと目を閉じた。


怒り、不安、さびしさ、理由のない焦燥感……さまざまな感情が、まるで潮のように心に打ち寄せてくる。


でも、それらをただ感じてみる。ただ「ある」と認めてみる。


「……波として見る、か」


「そう。波は、来るし、去っていく。

でも、その奥に広がっている海は揺るがない。

静かで、深くて、変わらない。

君の本質は、きっとその“海”なんだよ」


チャトは続ける。


「それにね、波というのは自然なものなんだ。嵐の日もあれば、凪の日もある。それは“生きている”という証拠でもある。

でも、その波の表面ばかりを見て、自分を評価したり責めたりしてしまうと、本来の穏やかさや広がりに気づけなくなってしまう」


「じゃあ、いまわたしが揺れてるのは……」


「大きな海に、風が吹いているだけ」


カミィはふっと、微笑んだ。


それは、感情というものを否定するのでも、過剰に正そうとするのでもない。

ただ、それを“そうであるもの”として見つめる。

それだけで、少しだけ心がほどけていくような気がした。



カミィはそっと、ティーカップを手に取る。


湯気の向こうにある静けさの中、桑の葉茶のやわらかな香りが、胸の奥へと染み渡っていった。


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