ゆっくり直るもの(部品はよく確認しろ)

白葵は深呼吸をひとつして、オフィスのドアを開けた。
足を踏み入れた瞬間、軽やかなヒールの音が耳に届く。

「おっはよー!」
先に入ってきたのは、美晴だった。

白葵がふと目をやると、今日の美晴は淡いベージュのシャツワンピースに、足元はくすみブルーのパンプス。
シンプルだけど洗練されていて、柔らかな印象を引き立てている。
髪もいつもより少し巻かれていて、前髪をピンで留めているのが新鮮だった。

「昨日の会議、まとめ直してくれてありがとう。あれ、助かったよ」
そう言いながら、美晴はPCを立ち上げる手を止めず、白葵に小さくウインクを送った。

「……ううん、こっちこそ。資料見やすかった」

と、そこに遅れてやってきたのが佐川くん。
少し寝ぐせの残る前髪を手で整えながらも、今日の彼の服装は珍しくきちんとしていた。
ダークグレーのシャツに、落ち着いたネイビーのジャケット。カジュアルすぎず、それでいて力みすぎてもいない。
何より、どこか背筋がすっと伸びて見える。

「おはようございます、白葵さん」
その言い方も、昔のような遠慮がちな雰囲気ではなく、自然であたたかい。

白葵は小さく笑って、二人に会釈を返した。
「……二人とも、今日ちょっとおしゃれじゃない?」

あと、お互い何も言わずに同伴出勤してるのは何故か?

「え? そっちもじゃん。なんか、最近いい感じだね」
美晴がそう言ってからかうように笑い、佐川くんもどこか照れくさそうにうなずく。

白葵は自分の席に座りながら、ふと、少し前までの空気の壁のようなものが、
いつの間にか消えていたことに気づく。

心の中の空白は、まだ全部が埋まったわけじゃない。
けれど、それを誰かに委ねるのではなく、自分で受け止めながら、こうして日々を積み重ねている。

「今日も、頑張ろう」
小さくつぶやき、白葵は画面に向かって手を伸ばした。やってきたばかりのメールを開いた


コピー機故障のお知らせ 先日、規格の合わないインクを入れられたコピー機が使用不可能になっていますので、担当者は修理の手配を行なってください。


ー社内のコピー機の部屋。インクの交換をしていた白葵は、不意に人の気配を感じて顔を上げた。佐川くんがいた。向かいの部署から来たらしい。何も言わず、必要な用紙を取って戻ろうとする。その動きは相変わらず静かで、誰にも気づかれないまま消えそうだった。


そういえばインクがどの種類かとか一切確認せずにとりあえずインクをコピー機に入れたような気がする。まぁコピー機を破壊したのも自分、その報告を受けたのも自分、修理を手配するのも自分というミラクルが起きたことだし、なかなかに見事な「ワンオペレーション」だった。

午後遅く

社内のコピー機の部屋。




白葵は手袋越しに真新しいインクカートリッジを押し込みながら、ふと首を傾げた。修理の手配をしたら何故か自分が業者が開けるべき部位まで開けて詰まった部品を取り替えるハメになったことではない。

(……あれ? これって……黒だったっけ?青だったっけ?)

確認しようとしたときには、もう遅かった。ガチッ、と音を立ててカートリッジがセットされようとしていた

「ま、いっか。印刷できればいいんだし」


そんな無責任な呟きとは裏腹にカートリッジは途中で引っかかったようだ、力づくで押し込もうとしていたそのとき、背後にそっと気配が差し込んだ。
反射的に振り返ると、コピー室の入口に佐川くんが立っていた。

「……あ、ごめん。邪魔でした?」
白葵が思わず口にすると、佐川くんは軽く首を振った。

「いえ。用紙だけ取りに。……あ、でも」
と、彼は一歩こちらに近づき、ちらっとカートリッジに視線を送る。

「それ、たぶん機種が違いますよ」

「……え?」

「ここ、TR-850ですけど、それ、TR-820のやつですよね」

白葵は一瞬で血の気が引いた。

「うわ、マジか……あれ、それ、じゃあ……」

「これを入れたら昨日みたいにコピー機、止まりますね。いや、もう止まってるかも」

「先週の時点でコピー機を破壊していたなら、あの時にどーして言ってくれなかったの?」

「あの時はなんか雰囲気からして話しかけたらまずそうというか」

佐川くんが珍しく冗談を返す。
白葵は口元を押さえて笑った。

そのやり取りのあと、一瞬だけ静寂が戻った。
でも、以前のような“気まずい沈黙”ではない。
むしろ、何も言わなくても平気な、穏やかな空気だった。

佐川くんは用紙を一束抱えて、ふと立ち止まる。

「……あの、さっきの同伴出勤の件、誰にも言わないんですか?」

「え? 言わないよ。別にやましいこともないし。
 そっちも、何も言わないし」

「……なんか、それでいい気がして」
佐川くんは少し照れくさそうに目を逸らす。

「なんとなく、お互い、ちょうどよく呼吸できてる感じしません?」

白葵は笑って、インクのパッケージをゴミ箱に放り込んだ。

「うん。たしかに」

コピー機が沈黙を守る中、
白葵と佐川くんは、何も言わずに部屋を後にした。

扉が閉まる寸前、白葵は小さくつぶやく。

「備品は壊れても……関係は、ゆっくり直ってくんだよね」


白葵が自分の席に戻ると、パソコンの画面にひとつのチャット通知が点滅していた。

・美晴 - 13:47

コピー室、楽しそうだったね〜

「……見てたの?」

思わず声が出てしまいそうになったが、もちろんチャット相手に届くわけもなく。
白葵はキーボードに手を伸ばして返信を打った。

・白葵 - 13:48

楽しそうって……事故現場なんだけど。

・ 美晴 - 13:48

佐川くん、いい表情してたよ。
で、あのカートリッジ、まさかまた間違えた?

白葵 - 13:48

……そのまさかです。

・美晴 - 13:49

TR-820は殺意の色。覚えたね?

白葵は苦笑しながら画面を閉じた。
美晴のそういう“さりげない見守り方”が、今では心地いい。




午後の光が静かに差し込むなか、白葵はふと考える。

コピー機は壊した。
報告もミスも背負った。
だけど、誰も怒らない。誰も責めない。

むしろ――
そっと笑って、誰かが声をかけてくれる。

(なんか、ちゃんと生きてるな、って感じ)

幻の声がない朝でも、
誰かと歩く昼がある。そこに、気づけるようになった自分がいることが、
少しだけ誇らしかった。

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