置いてきたもの 静けさの隙間から
仕事帰りだった。電車に揺られていると、スマホが震える。美晴からのメッセージだった。
「ねえ、この前行ったお店から連絡があってね」 「白葵が忘れてたっぽいポーチ、預かってるって」
一瞬、何のことか分からなかった。 けれど「ポーチ」という言葉に、心臓がひとつ跳ねた。
――まさか。
急いで返信すると、美晴が店の名前と場所を送ってくれた。
帰宅せず、電車を乗り継いで、あのビルへ向かった。エレベーターの扉が開くと、あの日と同じ香りと光が迎えてくる。 美晴と並んで服を選んだ、淡く柔らかな照明のなか。 レジの前に立つ店員が、白葵を見るなり、ふっと表情を和らげた。
「先日ご来店された方……ですよね? こちら、お預かりしておりました」
差し出されたのは、布の手触りに覚えのある――バニティネルだった。
白葵は、思わず指先でその表面をなぞった。間違いなく、自分のものだった。
「……ありがとうございます。すみません、ご迷惑おかけして」
「いえ。とても丁寧に置かれていて……たぶん、気づかずに置いて行かれたのかなと」
丁寧に置かれていた。
その言葉が、胸の深いところに、すとんと落ちる。 ──忘れたんじゃない。 ──置いてきたんだ、私が。
誰にも渡さないように、大事に大事に持ち歩いていたはずのものを。けれど、確かに。あの日の私は、それをそっと手放した。
手の中のポーチは、あたたかくも、少し冷たかった。まるで、一度手放されたことを、知っているかのように。
帰り道 白葵は、ふと遠回りして駅裏の小さな公園を抜けたくなった。人通りもまばらで、空にはまだ夕暮れの名残があった。
ブランコがひとつ、風に揺れている。 ベンチの端に、誰かが座っていた。
──佐川くんだった。
彼は缶コーヒーを片手に、ぼんやりと空を見上げていた。気づかれたくないのか、それとも話しかけられたくないのか、表情はまったく読めない。
でも白葵は、立ち止まった。
「……久しぶり、だね」
彼は少しだけ驚いたように目を上げて、それからうなずいた。
「……うん。久しぶり」
静かな間が流れる。 風の音と、遠くの車の走行音。 それでも、白葵は帰ろうとは思わなかった。
「ここのベンチ、前もいたよね。お昼のとき」
「……そうだったかも」
彼はそう言いながら、隣を少しだけ空けるように腰をずらした。 白葵も、そこにそっと腰を下ろす。会話は、まだぎこちない。 でも、それがどこか心地よかった。
「……なんだか最近、少し寂しいんだ」
ぽつりと、白葵は言った。 理由は言わない。説明もいらない。 けれど、その一言だけで、今の自分のほとんどを語れる気がした。
佐川は、しばらく黙っていた。それでも去ろうとはせず、手の中の缶コーヒーをじっと見つめていた。
「……寂しいのって、いつ気づくんだろうね」
彼の声は低く、でもまっすぐだった。
白葵は少しだけ笑った。
「私は……音がしないって、気づいたとき。 頭の中が、静かになっちゃって。 それがずっと、こわくて、さびしくて」
言ってから、自分でも驚いた。 誰かに、こんなふうに話したのは初めてだった。
佐川は少しだけ、表情をゆるめる。
「……失くしたって、忘れたわけじゃないでしょう」
不意に、そう言った。
その一言が、胸の奥に触れた。 予想もしていなかったのに、喉の奥がふるえた。 涙がこみ上げてくるのを、白葵は慌てて隠す。
「……うん」 「そう、かもね」
返事の声が、少しだけ震えた。
佐川は、何も言わなかった。 ただ、白葵の横顔を見て、それから小さく目を伏せた。
しばらくの沈黙。
でもそれは、重苦しいものではなかった。 二人のあいだに、ようやく言葉が生まれはじめた気がした。
白葵は、ゆっくりと呼吸を整えて立ち上がる。
「……じゃあ、また」
佐川はうなずくだけだったけど、少しだけ目元がやわらかくなっていた。
そして、白葵は歩き出した。
静けさの中でも、自分の足音が確かに聞こえている。 それだけで、少しずつ現実が、自分のものになっていく気がした。
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