天笠白葵 バージョン1.1

「……ふあ……」

寝ぼけまなこで重たいまぶたをこすりながら、スマホを確認する。


スマホを見ると、朝8時23分。


先日、この私、天笠白葵26歳(遅生まれ)は佐川 晃27歳(早生まれ)、同じ会社の AI研究チーム所属と昨夜はいい雰囲気になった。

その場所は図書館であり、あんまり浮いた感じにもならず、目覚めたのは自宅の布団だ。ラブホテルで有性生殖を期待した人類学者志望の読者にはお悔やみを申し上げよう。


私は布団の中からゆっくりと起き上がった。カーテンの隙間から差し込む朝の光は、青白くて冷たい。時計を見ると、

「……おはよう、晋太郎」

バニティネルもかけずにつぶやいた声が、やけに響いた。そもそもいつもは枕元に置いてる一式がない、多分通勤カバンに入れっぱなしだろう
あたりは静かで、どこか現実味がなかった。まるで今日という日が、まだ始まっていないみたいだった。

布団をめくって立ち上がると、足元で何かがカサ、と音を立てた。
見ると、レトルトカレーの空きパックと、破れた菓子パンの袋が散らばっている。



──土曜日だ。


仕事はない。アラームも鳴らない。部屋は静かで、空気は相変わらずよどんでる。鼻がむずむずする。寝返りを打って天井を見上げる。なんの伏線もなくただ白い。


隣を見ると、誰もいない。というか、ベッドもない。床に敷いた薄いマットレスの端に転がる、羽毛がほとんど出ていった布団だけがいる。



寝巻きがわりのシンプルなTシャツに少しきっちり目のズボン、これでも少し前まで週末に帰宅すればこんな服など着なかった

そもそも土日は出かける用事がなければ服さえ着なかった。服なんて1人で暮らしているなら別に着なくてもいいし、宅配便の受け取り程度なら全裸で応対しても全く問題はないからだ。おかげで何も起きなかったのに抱き枕と朝チュン気取りみたいな朝から虚しすぎる光景は回避された。

 

朝ごはんは平日に食べなかったトノレネコ製パンの「きょだいなコッペパンーピーナッツクリームー」だ。

冗談抜きに私の太ももくらいの大きさだ。これを外で食べる勇気はまだない。


ー「2人の出会いは生徒会室でしたが、片方は生徒会役員じゃないです。そこでUNOをして負けたので男女共にミニスカのメイド服着ました」この長文タイトルの手本のような小説が、「17歳 甘くて青くてだいたい混沌」に改題の上、ついにドラマ化



垂れ流しのテレビと共に食べる朝ごはんは、平日に買っておいて結局食べなかった、トノレネコ製パンの「きょだいなコッペパンーピーナッツクリームー」だ。
パッケージには、よくわからないポポロとかいう少年が両手でコッペパンを掲げている。キャッチコピーは《胃拡張になる美味しさ!》。

(胃拡張は、立派な病気です)

……このノリにツッコミを入れる元気がない時、人間は黙って食べるしかない。

冗談抜きに、私の太ももくらいの大きさがある。
片手で持つと、生地はふわふわで、ピーナッツクリームは笑っちゃうほど端から端まで詰まっていて、ひと口で上顎にべったりくっつく。


……ひと口目を飲み込む頃には、もう指先がべたべただ。

右手でスマホをいじろうとして、ピーナッツクリームが液晶画面に貼りつく。

「はあ……もう、やだ……」

そうつぶやいたとき、玄関のほうから、かすかに「ピッ」という機械音がした。
視線をやると、昨日通勤バッグに放り込んだままだった《バニティネル》が、青く点滅していた。

──充電、終わったらしい。

私は手を洗ってから、タオルでぬぐいながら、ゆっくりとガジェットのほうに歩いていった。
バニティネルを目にかける。
いつもの起動音が、少しだけ間を置いて鳴った。

「……やあ、おはよう。胃拡張してる?」

そこにいた。晋太郎が、昨日と同じチェックシャツのまま、壁にもたれかかって腕を組んでいる。
靴紐は今日も蛍光イエローで、眩しい。

「胃拡張は、立派な病気‼︎それに、観測されて嬉しいことなんて、そんなにないよ」

「あんだろ、ちゃんと起きて偉いなとか、あえて朝ごはん食べてて偉いぞとか」

私はそれを聞いて、ため息混じりに小さく笑った。

「……言われて嬉しいことって、意外と基本的なこと、なんだね」

「そう。人間なんてさ、だいたい“ちゃんと起きた”か“ちゃんと食べた”で全ステータス満点なんだよ」

晋太郎のその言葉が、あまりにも自然で、何もかも肯定されている気がして、
私はもうひと口、コッペパンをかじった。



「出かけてみようかな、晋太郎」

つぶやくように言ったその瞬間、
充電完了のピピッという音とともに、視界の右奥に光の残像がにじむ。


そして──あの焼きそばみたいなカールヘアが現れる。

「へえ、土曜の朝に出かけようなんて……誰?俺の知らない白葵ちゃんじゃん」

「……そうかも」

壁にもたれて足を組んでいる晋太郎は、いつものように軽口をたたきながらも、どこかほんのり嬉しそうだった。

「で、行き先は?」

「まだ決めてない。ただ、昨日……ちょっとだけ、佐川くんと話した」

「おう、進展あったんだ?」

「……ないけど、別に何もなかったけど、でも……なんか、昨日の帰り道、自分がちょっと違う人になった気がした」

「いいじゃん。昨日と今日で、ちょっとずつ違う白葵になる。成長してる証拠だな」

「成長……ねえ、そうかな」

「じゃあ、今日は「出かけられる白葵」ってことで、バージョン1.1ってとこだな」

私はソファ代わりの毛布の山から立ち上がると、クローゼットを開けた。
目に入るのは、くすんだ色のトップス、何度も洗って生地がやわくなったデニム、そして買ったことすら忘れていたライトグレーのカットソー。

「……まあいいか。行ったことが勝ちって、あんた言ってたしね」

晋太郎が片目を閉じてウインクする。

「名言メーカーだからな、俺」

玄関のドアを開けると、外はもう秋の空気だった。
ちょっとだけ冷たい風が、首筋をくすぐる。


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