木曜午後の輪郭
白葵は、給湯室へ向かう途中でふと足を止めた。 フロアの一角から、美晴の明るい笑い声が聞こえてきたからだ。
「だから~、その状態で送ったらそりゃ怒られるよ!ちゃんとファイル名見てってば!」 「……そうですね。でも、“最終_修正”って名前を信じた僕が悪かったんだと思います」
返していたのは佐川くんの声だった。 白葵の席のすぐ後ろにいる、普段は無表情で口数も少ない彼。 けれどその声には、わずかに笑いがにじんでいた。
白葵は立ち止まったまま、一歩身を引いた。 賑やかな輪に混ざる勇気は、まだ自分の中に育っていない気がした。
──でも。
「……あれ? 白葵さんも、こっち来る?」
不意に、美晴が自然な声でこちらを呼んだ。 まるで、もとからそこにいるのが当然だと言うように。
「はい……コーヒー、取りに……」
しどろもどろの返事。けれど、それだけで白葵は引き返すのをやめた。
「佐川くんね、午前中ずっと凹んでたんだよ〜」 「……それ、最初に笑ったの、美晴さんじゃなかったですか?」
柔らかい会話のやり取り。 そのやさしい空気に、白葵はいつの間にか、自然と笑みを浮かべていた。
言葉を探す必要はなかった。 ただ。そこにいてもいいのかもしれないと思えた。
──こんな感覚だった。 誰かの話にふと混ざって笑っていた、学生時代の昼休み。 特に意味もなくそこにいられる、あの頃の自分のように。
「白葵さん、ブラックなんですね」
ふと、佐川が白葵のマグカップを見て言った。
「はい。昔から、けっこう好きで」
「そうなんですか。ちょっと意外でした」 「僕は、あまり得意じゃないんです。苦くて……」
「じゃあ……さっきの送信ミスのほうがマシですか?」
思わず、軽口のような言葉が口からこぼれた。 こんなふうに冗談を返すなんて、自分でも驚く。
佐川は一瞬驚いたような表情を見せ、それから口元をほぐして言った。
「うーん……どちらも苦いですけど、ブラックの方が後味は良い気がします」
白葵もつられて笑った。 ほんの少し。けれど確かに。 誰かとの距離が、ゆっくりと縮まっている気がした。
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