第3話
…………朧げな記憶を辿ろう。
あれはあの人と最後に会った日。
最後になるかもしれないと幾度も思い最後にはならなかった、
私とあの人が本当に最後になった日のことだった。
私でさえ記憶が傷んでいるのだからあの人はもしや、完全に記憶を失っているのかもしれない。
サンゴール城で騒動があった。
あの方が命を狙われたのである。
かねてより隣国ザイウォンへの視察を決められていた女王陛下は、出発直前に起きたこの騒動に心を痛められていた。
しかし第二王子自身の進言もあったという。
外遊には初めて王女ミルグレンを伴いサンゴールを発った。
一画を魔法によって大きく破壊されたサンゴール王宮には、まだ恐怖と緊張感が漂っていた。
私の元には前々から第二王子に警戒を向ける軍部大臣オズワルト卿や女王アミアカルバ擁立派の大神殿の一派から、女王の留守の王宮に留まり、そこを守るようにとの要請が届けられた。
軍部と大神殿勢力は内政では対立関係にあるのに、この期に及んで奇しくも二つの勢力は全く同じ要求を私に送って来た。
不思議なことだ。
何故この国の人間は恐怖を感じた時にだけ、一つにまとまるのだろう?
荒れる空を見上げる。
第二王子が魔法を使い自分の命を守る為に人を殺めた、一週間前の出来事から、偶然にもサンゴール王国は凄まじい雷雨に襲われていた。
実際には雪が本格的に積もるようになる前、空気が完全に冬のものへと変わる前に、サンゴールはこういう雷鳴が連日続く日が毎年ある。
かつて私がいたサンゴール郊外のラキアでは、この雨で近くの湖が増水し氾濫するのを予期して、あらかじめ普段平地で飼っている家畜を高台へ一時移動させる仕事があった。
つまり、この雷雨はそれほど承知された例年通りの当たり前のことなのだが、第二王子の強大な魔力を目の当たりにした人々は、これは災厄を予見する天の怒りなのではなどと思っていたに違いない。
私はこの時期このサンゴール国民の、城の人々のそういう迷信じみた不可解な言動には辟易し、いちいち目くじらを立てることすら、もう無くなっていた。
すでに心はとっくに離れて、取り戻せないほどまでに遠ざかっていたのである。
それでも私は城に留まった。
どちらの勢力の願いを聞き届けるつもりも無かった。
ただ私は個人的に、また【
サンゴール王宮はあの太陽のような女王アミアカルバが不在であり、光のような王女ミルグレンの姿も無く、連日荒れる天候の中、崩れた王宮の一画の修復作業と王宮に雨が流れ込むのを掻き出す作業に人々は追われ、淡々と日々が過ぎていた。
何がきっかけだったのか。
いや、その第二王子暗殺未遂がきっかけではあった。
一人また奥館に籠り、外界と接触を断ったあの人の心を慮ってはいた。
そこにその頃サンゴールの政において、私の名が王女の婚約者候補に挙がり始めた事情をいち早く察して、気がかりだったということもあるかもしれない。
救いたかったのか。救い出されたかったのか。
続く長い雨空に、何か女王が視察より戻った時全ての雲が晴れていて、もう何の心配も無いのだと、彼女の肩の荷が下りればいいのにと夢のようなことを考えたのもある。
第二王子が自分を厭わず、
女王が輝き続け、
王女が笑っていけるなら、
何でもするつもりだとそういう気持ちが、強くこの時の私の胸にはあった。
それは私の中に残る、サンゴール王家に関わる者としての最後の良心のようなものだったのかもしれない。
……私はふと、あの人に全てを話してみようかと思い立った。
無論のこと、秘めた想いのことではない。
私がその存在を、血を疎まれていることも全て知っている上で、
この先貴方に仇なすつもりは永遠に無いのだと、
サンゴール王家の平穏を望んでいるのだと、
隠す必要も無いその事実を伝えてみようと。
――――話を。
一人の人間として、初めて、一対一であの人と話をしてみようと思ったのだ。
考えてみれば要するに今ある王家の問題は、私と第二王子の見解が一致し互いの立場を理解さえし合っていれば、周りが何を邪推しようと気にすることも無いのだ。
何年間も悩み続けてきたことが何であったのか、私は初めて素直にそんな風に考えていた。
いや……考えが至らなかったわけではない。
ただその勇気がなかった。
つまらない挟持があった。
考える必要も無い未来への希望があった。
それが今なら、何も無い。
初めての恋を捨て、
人を殺めて手を汚して、
ミルグレンは、可愛い。
大切にも思う。
だがそれだけだ。
それを未来に繋げて先を思うつもりはない。
友を失い、
後見人を失い、
文字通り身一つになって、ようやく自分が第二王子の前に立ってどう罵られようが傷つくことも無いと、初めて思えたからか。
奥館。
幼い頃毎日通ったそこは変わっていなかった。
宮廷魔術師になってからは一度も訪れなくなっていた。
お話がありますと、土砂降りの午後に訪ねて行くと、見知った老執事が出迎えてくれた。
彼は私の姿を見ると、僅かに眩しいように眼を細めて、お待ちください取り次いで参りますと去って行った。
彼は老いていた。
時が確かに流れていると感じた。
客間で待っているとしばらくして第二王子がやって来た。
深く術衣を被っていることに、私は違和感を感じた。
今更この人が私の前で何を覆い隠すのかと思ったのだ。
眼を凝視するなという教えを不意に忘れることなどもう無い。
厳しく躾けられたことだ。
貴方の眼が私を蔑み、永遠に笑いかけないことだってもう理解している。
それでもいいと私は今ここにいるのに、今、何故この人が私から瞳を隠すのかと、妙に心が苛立ったことをよく覚えている。
「何の用だ」
「お話があって参りました、殿下」
深く頭を下げた私を、第二王子は椅子に腰を下ろし深く腕を組んだ姿で見下ろす。
数日前に自らの魔力で負傷した腕の様子は、落ち着いているようだ。
「話?」
「ご無礼を承知で申し上げます」
「……」
「殿下、私は女王陛下の御心を慮っております」
下を向いたまま私は続けた。
「今度のザイウォンの視察も、旅立つ瞬間まで陛下は国の状勢不安を鑑みて、視察を踏みとどまるかを悩んでおられました。しかしながら殿下、その不安の一端を和らげることが出来ると、お考えになったことはございませんか」
喋りながら、ここで何度も第二王子とあった日々のことを思い出していた。
懐かしいと感じるほど昔に思った。
幼い頃のこと。
会った瞬間から頑なだったこの人が……それでも徐々に深く心を閉じていったこと。
それを感じながら何も出来ず、そして心を増々奪われて行ったことも。
この人の声が美しい魔言を教え聞かせてくれた日々は、悩ましいことがほとんどだったけれど、その声を無心に聞いている時だけは苦悩から解放された。
「貴方は私如きと思われるでしょう。
ですが私は、恐れながら分不相応にも陛下に命を救われた身なのです。
そのことが周りに余計な邪推を与えることももう理解しています。
私の望みは、何も無いとこの場で固く申し上げたい。
そして万が一にもあるのだとしたら、それはただひたすら女王陛下のご心労を減らして差し上げたいというただそれだけです」
「……」
「私と殿下がその思いを同じくすれば、それが出来るのでは?」
ぴり、と震える空気。
第二王子が怒っている。
だが怒る理由は分かるから恐れは無かった。
「どうか、お怒りになりませんように……私は平伏して申し上げています、殿下。
私は貴方に歯向かうつもりは無いのです。
城に存在するだけで私が争いの種になるのなら、どんな遠くの辺境へ向かうことも命じられても構わない。
邪心をお疑いなら、この心臓を取り出して見ていただいても構わないのです。
全ては貴方の御心一つ。
わざわざ貴方が沈黙し周囲の悪しき誤解を招く必要も無い。
私は貴方に……いいえ、女王陛下に膝を折り従います。
殿下にもそう思っていただくことは出来ないのでしょうか?」
沈黙。
遠くで雷が鳴いている。
外は相変わらずの激しい雨。
「サダルメリク」
ドキリとした。
顔を上げかけ、堪える。
「サンゴールの宮廷魔術師になり、見る世界が変わったか?」
突然言われ、戸惑う。だがすぐに答えた。
「……、変わっては……、いないと思っています。私はずっと魔術の世界を見つめて参りました。感覚としては、……世界が広がった、とは思いますが……」
「そうか」
その時聞いた第二王子の声は、決して怒った声ではなかった。
だが感情の見えない声だった。
「ではお前は、人の心をねじ曲げられるか?」
これには顔を上げていた。
フードに隠れた第二王子の顔を見た時、
ああ、やはり師の勘というものは恐ろしいものだと思った。
彼は自分が何を話しに来たのか予期していたのだ。
こういう話になることを。
その心が波立つ話になることを分かっていたから、
始めから【魔眼】を隠して現われたのだ。
……そうでなければ、それほど強い忌々しさで、今度こそ本当に私を殺すことになりかねないと、この人にはそういう自覚があったからだろう。
「サンゴールに争いを蒔かぬ為と言うなら、お前は消えた方がいい。」
匂わすことも無くはっきりと第二王子が言った。
「……だが物事はそんな単純ではない。
女王アミアカルバを私は真の王の器とは認めていない。
だがこの十数年あれがサンゴールを統治して来たという事実はある。
そしてあれは、お前を拾ったことを、神の意志のようだと口にした」
「……」
「私がお前を消せば、あれは私を許しはしまい」
私は翡翠の瞳を見開いた。
第二王子はそれを見ない。
自分の瞳を見せない代わりに、他人の瞳を見ることも無い。
サンゴールのことを考えれば私が消えるのが一番いいが、
女王の心を考えればそれは最善の策にはならないと、そう言っているのだった。
「私を憎み続け呪い抜くだろう」
「……。」
「王女も同じことだ。お前を消せばサンゴール王家に遺恨を刻む」
だから思い悩み続けている。
何よりも単純なことを、
人の心というどうにもならない物が、幾重にも複雑にしていることを。
自分にとっては重い瞬き一つで解決出来ることを、何年も何年も思い悩み続けている。
「分かるか。この世で厄介なものは能無しでも愚鈍でもないのだ」
第二王子が組んでいた腕を解く。
私は震えそうになる手を握って顔を伏せていた。
自分は確かに直接、第二王子を苦悩させる理由の一つになっているのだと改めて実感した。
「己すら彷徨う身でありながら、敢えて人の心に関わる者」
「……分不相応な運命を手繰り寄せる……」
闇の術師。
「……もう一つ教えてやろう。貴様、己の心に邪心が無いと言ったな」
それは防衛本能のようなものだったかもしれない。
聞いてはいけないと思った。
逃げ出したかった。
その先を聞いたら、ここでは生きていけなくなると、
私は分かっていた。
「邪心とは、ある時人の内に突然生まれるものなのだ。」
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