オスカーの番 後

「以前王都とその周辺に、粒子状の毒がばら撒かれた事件を覚えていますか?」

「ああ……王国と戦争をしていた共和国の住人が起こした、凄惨な事件だった」


 それほど前の話でもない。王国内だけでなく、他国にまで影響は及び多くの死者が出た。幸い既存の解毒剤が効いたことで、騒動はゆっくりと収束したが……亡くなった人の殆どは、病院へ行けない貧困層の平民だった。


「あの毒で番を?」

「いえ……『エリア』は、この国に……アルフェラッツ王国に、殺されました」


 低く、静かな声が店の中に響く。

 憂いげな瞳は足元の床を見つめたまま、窓を打つ雨音に耳を澄ましていた。


「彼女は……元々この街の娼婦で、八年前のロウトで働いていました。俺はまだ下っ端の兵士として王国軍に仕えていて、休日に仲間達から誘われたのを切っ掛けに、初めて娼館を訪れたんです。そこで、エリアに出会いました」


 ――美しいシェルピンク色のドレスに、ライトブラウンの長い髪、夕焼け色の明るい瞳。

 一目見て、その姿から目が離せなくなった。彼女が笑えば周りも自然と笑顔になる。まるで太陽のように美しい人だった。


「……運命だと思ったんです」


 弓のように引き締まり下がっていた口元が、ふっと一瞬だけ軟い笑みを浮かべる。


「娼館なんかでこの人を働かせてはいけないと、必死に軍で働いて全を貯めて、二年後に彼女を見受けし王都へ連れ帰りました。エリアは体が弱く、子どもを望める体力もなかった。それでも、番として側にいてくれれば……俺は良かったんです」


 見受け金は通常よりもずっと安かった。番を作らないΩの寿命は三十半ばから後半でついえる。『永遠に美しい』とされる彼らの所以ゆえんだ。……娼館側もそれを分かっていて、あっさりとエリアを手放した。


 燭台が灯る一室で『一緒に帰ろう』と握りしめた細い手を思い出す。大きく見開かれた瞳からこぼれ落ちた涙の色と、あの笑顔を忘れることはない。

 だが……Ωへの差別が酷い王国での暮らしは、決して彼女にとって楽しいものではなかっただろう。


「……あの事件で、エリアは毒に感染して……体が弱かったせいか、すぐに重症化していきました。医者に連れて行っても『手遅れ』の一点張りで、治療の一つ受けさせて貰えなかった。徐々に死へ向かって行くエリアと、少しでも一緒に居るため俺は軍を辞めました。そんな折……『死場所は故郷のテナイドがいい』と彼女に望まれ、五年振りにこの街へ戻って来たんです。そこで……ボスと出会いました」


 初めて会ったボスの姿は、刃こぼれた荒いナイフのような印象だった。黒く鋭い瞳から向けられる敵意に満ちた眼光は、よそ者でαの自分を警戒していたのだろう。


 ……ロウトはボスが子供の頃に、エマと一緒に売られて来た娼館だ。エリアは二人にとって、優しい姉的な存在だった。


 八年前にボスを見たことはなかったが、エリアから『十二歳だった男の子が娼館から逃げ出して……今は生きてるか分からない』という話を聞いてことがあった。

 その時の『男の子』が、きっとボスのことだったんだろう。


 毒に侵された彼女の様子に気が付き、すぐにロウトへ連れて行かれた。テナイドには病院がなく、毒で倒れた住人は娼館の数部屋を病室として使い治療を受けていた。


「診察を受けて、解毒剤と痛み止めを打ってもらって……そこで、言われたんですよ。『もう、手遅れだ。……もう少し早く治療を受けていれば、治ったかもしれない。どうして、今まで何もしてあげなかった』……王都の医者は、子供も産めない体の弱いΩに……ただ、大事な薬を渡したくなかっただけなんです」


 あの日ほど、自分を……何の力もない、ただ『α』に生まれて来てしまった。愛する番一人助けることも出来なかった自分を……呪って泣いた日はない。


「エリアはその後……娼館の皆と、街に住んでいた知人たちに見守られて……静かに息を引き取りました。俺はまた軍に戻ってあの国の為に働くなら……この街で、エリアを愛してくれた人たちの為に命を使いたいと、フェクダに入る志願をしました」


 エリアから『死んだΩと番で居続けるなんて、縁起が悪いよ』と番の解消を提案されたこともあったが『番の解消』はΩにとって相当な精神負担になる。それを知っていて『切る』なんて事は出来なかった。

 亡くなってしまった後に、『番』は自然と消滅してしまうのではと思っていたが……不思議なことに、今でも契約は解消されていない。彼女との繋がりは、俺の中で生き続けていた。


「これが……テナイドで、俺がボスの元で働く理由です」


 短いため息を吐きながら、壁に背を預ける。まとめてしまえば短い話だった。窓から見える景色も特に変わっておらず、相変わらず白い霧の中を細い雨が降り続いている。


 ベルティは黙ったまま、じっとオスカーの話を聞いていた。すでに緩くなってしまった珈琲を手に取ると、そっと口付ける。


 ……当時、解毒剤の生産は確かに追いついていなかった。出来上がった薬は真っ先に王族や貴族、軍内部に出回り、下にいる民には一握り程度の残りカスしか渡らない。上層に行き渡れば、自然と民衆にも流れ落ちたが……さらにその下にいる貧困層、差別の対象にいたΩ達は薬を見る事さえ叶わなかっただろう。


 そしてその現状に、王族も貴族も……誰も意義を唱える者はいなかった。いつ自分も毒に掛かるか分からない状況で、自国の民を助けようとする支配者など誰もいない……スラムにいる住人の事など、気にしてさえいなかった。


 ――スラム。

 ふと、浮かび上がった。聞いた話の違和感に眉を顰める。テナイドは戦争の後、王国から切り離され完全な無法地帯となっていた。王国内でさえ不足していた薬を……何で持っているんだ。


「……どうしてこの街に解毒剤があったんだ。どうやって手に入れた?」

「ボスのお陰です」


 目を閉じたまま、少し微笑んだ口から自慢げな声が聞こえる。


「ボスは自身の財産全てと交渉材料を手に、世話になった国へ出向き街の住人分の解毒剤を仕入れていました」

「そんな簡単に手に入るわけっ……」


 否定を口にした瞬間……街の入り組んだ細道の奥で、セヴェーロが茶色のキャスケットを被った老夫と何か話していた場面を思い出した。老夫の薄暗い灰色の目はガスサレム人の特徴だ。


 ――もし、その前から彼らと繋がりがあったとしたら……ガスサレムはここから少し離れた北にある。風向きから毒の影響も少なかっただろう……優れた技術力を持つあの国なら、解毒剤を分け与えるぐらい容易かったはずだ。


 そして、探究心が強い彼らの気を引く為の材料。

 セヴェーロが持っている、国相手に交渉ができる手札と言えば一つしかない。


「『シレーナ』のレシピか……」


 安価で売ることができる抑制剤の製造方法。この知識を欲しがる国は間違いなくいるはずだ。まだ改良の余地がある薬は、ガスサレム人の好奇心を大いにくすぐっただろう。


 勘のいい大尉の言葉に、オスカーは思わず口をつぐんだ。

 調子に乗って話しすぎてしまった。シレーナと協力国であるガスサレムの話しをファミリー外でするべきじゃない。


「……少し長居しすぎました。貴方と居ると雑談ついでに他の事まで聞き出されそうだ。もう行きます」


 菓子が入った紙袋を濡れないようにスーツの内側に隠しながら、店の玄関へと向かった。ドアに手を置けば後ろから大尉の残念そうな声が聞こえる。


「そう急ぐ事もないだろ?もっと君の話を聞きたかったのに」

「……なら最後に、一つ言っておきます」


 手だけドアに残したまま振り返ると、オスカーは念を押すようにベルティの目を見つめ返した。


「確かに俺はボスに惚れてますよ。でも『Ω』として、ではなくボスの人となりに惚れてるんです。あの人の『部下』でいられることが、俺にとって誇りでもあります。この関係に『αとΩだから』と無粋な茶々を入れる真似は許しません。例え貴方が王国軍の元上司でも」


 内開きの扉を勢いよく引き開けると、ドアベルの鈴の音と共に外へ出る。雨の中走り去っていく大きな背中を窓から見送りながら、ベルティは再び頬杖を付いた。


 ――Ωのボスに、αの部下……。

 他から見たら笑いぐさにしかならない関係を、誇りと言うか。


 ……Ωはαの家畜だ。その細い形と美しい顔は、αの子を産むために存在する。


 だが当時……毒が撒かれた王国で、最も助けを求める民の命を救ったのは、間違いなく王族や貴族、医者でもなく。

 見捨てられた街で、自分の身を切ってまで住人を守った……Ωのセヴェーロだったかもしれない。


 ――いや、ただのΩではないな。フェクダの……この街の『ボス』だ。


 徐々に冷えていく珈琲へ手を添えた。香りもだいぶ飛んでしまったカップの底には、真っ黒な液体に一人取り残されたαの顔が写っている。





 ザンザンと降り注ぐ雨の中、オスカーは緩い坂道を駆け上りながら帰りを急いでいた。


 ……思っていたより風もある。早くしないと、菓子の袋まで水に濡れてしまう。

 霧が濃い道の先を、目を細めながらカーテンを潜るように見上げる。するとそこに、ぼんやりと影が一つ立っていることに気が付いた。


 よく見ると傘を持った人影のそれは、手を挙げてこちらに向かいパタパタと振っている。


「オスカー!」

「エンツァ!?」

「見つけた!ここにいると思ったんだ。傘持ってきたよ。早く帰ろうっ」


 そう言いながらエンツァは差していた傘をオスカーに渡すと、持っていたもう一本の傘を開いた。


「どうしてここが?」

「今日、そこのパティスリーが開く日だから。ボスにシュークリーム買ったんでしょ?雨降ってきたのになかなか帰ってこないし、傘持ってないんだろうなと思って」


 雨に濡れたオスカーを見上げると、エンツァは再び「早く帰ろう」と決意するように呟く。βの家系出身とはいえ、やっぱりαだ。額と暗い色の髪から雨が滴り、普段はない変な色気が滲み出ている。


「ボスも迎えに来たがってたんだけど、まだ本調子じゃなさそうだから娼館に待たせて来ちゃった。……昨日の事『オスカーに言いすぎたかもしれない……』て落ち込んでたよ」


 「二人とも、結構気にしいだよね」とエンツァは歩きながら小さく微笑んだ。


 ――雨が降れば、心配してくれる。傘を持って迎えに来てくれて、菓子を買えば喜んで食べてくれる人がいる。


 もし、エリアが『テナイドに帰りたい』と言っていなかったら……俺は王都に一人取り残された後、生きているのか死んでいるのか分からない状態で、ただ毎日苦しみながら肉体が滅びるのを待ったのだろう。


 もう二度と、家族と呼べる人には出会えなかったかもしれない。……それとも彼女ははなからそれを心配して、俺をここに連れてきてくれたのだろうか。


 ――エリアには最初から最後まで、ずっと貰ってばかりだった。


「オスカー?寒い?」


 傘の中を子犬のようなエンツァの瞳が覗いている。その仕草はどこか彼女に似ていて、慌てて首を振った。


「いや!……少し。行こう、ボスが待ってる」


 吹く風も濡れた服も冷たかったが、帰る場所がある心強さに胸の中はずっと暖かかった。

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