副作用(三)中

 錆びた鉄の血生臭い匂い。手首にキツく食い込んでいた鎖部分は、特に劣化し砕けていた。

 何度も外そうと足掻き、無理に引っ張ったせいで皮が剥け……血に濡れたまま黒く変色している。


 ストンっと感情が抜け落ちたように手錠を見ていた。黒い瞳が動揺し静かに揺れている。

 ――薄汚れたシーツに、光しか入らない小窓。ガラクタばかりが置かれた狭い物置小屋で……その重い鎖に両手を括られていた。中央に付けられた小さな擦り傷を覚えている。落ちていた石で、何度も叩きつけた跡だ。


「テメェの部下にも聞かせてやりてぇよ。情けねぇ叫び声を!」


 セヴェーロの蒼ざめた表情に、ルッソは満足げな笑みを浮かべる。

 馬の手綱を握ったまま、大袈裟に足掻いて見せた。


「『お願いです!エディ、噛まないでください!噛まないでください!俺は家畜じゃ』」

「貴様ぁ゙ッ‼︎」


 エンツァの鋭い金切り声が響く。

 自身の銃を手に取ると、殺意をルッソへと向けた。


「おお!おお!怖えなぁ、嬢ちゃん!一発でも打ってみろ!娼館のΩを、俺の数千の部下が皆殺しに行くからな!」


 こんな男の下に千人も部下がいるはずない!大した稼ぎもないのにっ!

 それでもロウトの娼婦たちを口に出されれば、引き金へ乗せた指に迷いが生じる。荒く息を吐きながら、悔しさに唸りルッソを睨みつけた。


 ――Ωにとって、無理やり頸を噛まれ番にされることが……どれだけ恐ろしく、辛いことか、βの能無しに理解できるはずがない。本能が壊れるほど追い詰められたボスが、一体どれほど苦しんできたか分かるはずがッ!


「……それだけ言いに来たのか」


 抑揚のない、静かな声にエンツァは下唇を噛み締めた。構えた銃の上をそっとセヴェーロの手に押さえられると、銃先を地面へと下げていく。


「早く消えろ――ロウトに手を出せば、目の前にその千の死体を並べてやる」

「……男娼上がりのΩが、そろそろテメェの立場を分かったほうがいいぜ……大人しくエディの玩具になってりゃ良かったんだ」


 ギョロっとした両目に力が入り、眉間の上に深い皺を作った。恨みのこもった眼差しをひとしきり睨み返すと、ルッソは憎々しく舌を打ち付ける。

 わざと手綱を強く引き、馬に地面を蹴らせ砂埃を巻き上げた。後ろの部下へ「行くぞ!」と怒鳴りつけ馬を蹴ると、再び大通りの真ん中を人を散らすように走っていく。


 地味な嫌がらせに目を細めた。いつの間にか辺りには「何事か」と近くをうろつく商人や噂好きの旅人が、チラチラとこちらの様子を伺っている。

 ……話を聞かれただろうか。知った顔はないのが救いだった。


 視線を下げたセヴェーロの目に、再び鎖手錠が映る。黒く血に染まり、錆びて砕けたその姿は……どこか死んだ生き物のような不気味さがあった。


 ――気持ち悪い。

 ドクドクと嫌に心音が大きく聞こえる。そこから早く離れたい一心で足を動かした。

 すぐに人気のいない裏道へ逃げ込むと、喉奥から這い上がるような不快感が徐々に増していく。


 エンツァとオスカーが隣で何か言っていた気がするが……耳鳴りが酷くてよく聞こえない。暑くもないのに額の上を汗が滲み、視界が霞む。息苦しさに耐えられず壁へ手を付くと、狭い通路の途中で崩れ落ちた。


「ボス!」


 心配する二人の姿に「少し休めば良くなる」と答えたいが、声がうまく出てこない。

 動かない右手とは対照的に、絶えず左手は小さく震えていた。


 ――思い出さないようにしていたのに。

 月明かりに照らされた、埃っぽい物置小屋が脳裏に浮かぶ。


 血と性液が混ざった臭い。カビた床板。無理やり開かれた身体。

 うなじに掛かる生暖かい息と、皮膚に深く食い込んだ裂くような痛み。何度も突き上げられながら、遠のいていく意識の先で、赤い目が――俺の首を絞めながら笑っていた。


 もう、全部終わった事だ。

 それなのに後悔や恐怖は、あの男と一緒には死んでくれない。あんな壊れた鎖ごときで、こんな……。


 本能が、番のαを殺したことを責めるように……頸の噛み傷を見る度に思い出した。番にされてから、エディを殺すまで囚われた三週間の地獄を。


「――何してるんだ?」


 細い裏道の奥から聞こえてきた声に、ビクッと体が反応して顔を上げた。淡い金色の髪に、エメラルドグリーンの瞳をした綺麗な男が、どう見たって場違いな狭い砂利道を歩いている。


 ――どうしてここに。


「何で大尉がっ!」


 エンツァの吠え声に一切反応せず、ベルティは路地の壁に背を預けたまま座っているセヴェーロを見ていた。左手の震えを止めようと、強く拳を握り締める。

 ――こいつに弱みを見せたくない。その目を見返せば、大尉は何か考えるように首を傾げた。


「薬当たりじゃないか?」

「……は」

「本能を無理に抑えつけたりすると出る副作用だ。抑制剤の飲み過ぎとか、体に合わないとなるんだよ」


 近づいてくる高価な革靴に、オスカーが警戒してベルティの前に立つ。

 言葉もなく、大尉の冷たい目がオスカーを見下した。α特有の威圧感にその場の空気がサァッと凍り付く。


 手を出せば、三下のαごとき簡単に地面へせただろう。しかしベルティは面倒そうに息を吐くと、何もしないと言いたげに腕を組んだ。


 ――邪魔だが、セヴェーロの部下だ。傷付ければ嫌われるのは目に見えている。……すでに十分嫌われているから、あまり意味があるかは分からないが。


「Ωの薬当たりは、αに抱かれれば楽になる。オスカー、君もαだろう。抱いてやったら?」

「――なッ!?」

「ボスがこんなに苦しんでるんだ。部下にαがいるならセヴェーロもその方がいいだろ?」

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