『エルベ』にて(二)前

「いらっしゃいませぇー!」


 木造りの店内に、女性の活気のいい声が響く。

 すぐに三角頭巾にエプロンを身につけた、ブラウン髪の少女が空のビールジョッキを両手に顔を出した。セヴェーロを見た途端、驚いて目を丸くした顔に嬉しそうな笑みを浮かべる。


「オーナー!来てくれたんですか」

「買い物のついでに。元気そうだな、ローズ」


 ローズは以前、人狩に攫われ助け出した妹『トリシャ』の姉だ。

 今はこの店でトリシャと共に世話になっている。


 最後に娼館で会った時より、随分と顔色は良くなり目も生き生きと輝いて見えた。


「店長もお客さんも、本当にいい人ばかりで……オーナーが紹介状を書いてくれたおかげで、妹と私はこのお店で働くことができました。本当に、ありがとうございます」

「いや、ここの店長は人を見て雇うかどうか決めてる。俺の紹介一つで決まったわけじゃない」


 深々とローズは頭を下げる。ジョッキを持っていなかったら床にへばり付いてしまいそうだ。

 店側も大切な従業員を失い、働き手を欲していたところだった。でも、だからと言って誰でもいいわけじゃない。意外と気難しい店長のお眼鏡に二人は叶ったのだ。


「おーい!ローズ」と店の奥から大きな声が聞こえ、バタバタと騒がしい足音と共に腕っぷしの強そうな赤毛の男が現れた。『エルベ』の店長。『モリス・ロッシ』だ。


「おぉ!オーナーじゃねぇか!アンタが来るなんて珍しいなぁ!」

「モリス……」


 相変わらず声がデカい。

 テーブルで食事をしていた数人の客が『オーナー』の単語にこちらを見た。あまり注目を浴びるのは好きじゃない。


「たくっ、アンタらロベルタがいなくなったらすっかり来なくなっちまってよ。たまには俺にも会いに来てくれよ」

「彼女には、シレーナを渡しに来ていたからな」


「ロベルタさんって……私の前に働いていた方ですか?」


 聞き覚えのない名前に、ローズはふとその名を口にする。従業員が一人亡くなり、その代わりに雇われたことは何となく聞いていた。

 モリスはあまり深掘りしたくない気持ちから、ふらふらと視線を泳がせる。若い娘に聞かせたいような話ではなかった。


「あぁ……少し前まで、働いてくれてたんだけどな……」


「おーい店員さん!注文いいかい!」


 丸テーブルに数人と座っていた商人らしき男性が声を上げ、こちらに向かい手を振る。

 「はいよ!ただいま!」とモリスは大声で返すと、ローズが持っていた空のジョッキを両手で受け取った。


「そら、ローズ。オーナーの相手は俺が引き受けるから、注文頼んだ!」

「それ、店長がオーナーと話したいだけじゃないですか」


 拗ねた口調でローズは口を尖らせながら、濡れた手をエプロンの袖で拭う。客の元へ行く前に、セヴェーロを見上げ少し照れたように笑った。


「妹も裏にいるんです。よかった一言かけてあげて下さい。トリシャが喜びます。あと……少しずつですけどお金も貯めているんです。いつか必ず、この恩は返します」


 そう言うと駆け足で客席へと向かっていく。

 まだ働き始めて数日しか経っていないはずだが、随分と店に馴染んでいた。


 ――恩だなんて、荷重になってないといいが。

 だが、ローズの真っ直ぐな感謝は素直に心地よかった。


「アンタのおかげで良い子を雇えたよ。よく気が利いて、礼儀もいいし、体力もある。……まだまだロベルタの足元にも及ばないが、姉妹揃って店を盛り上げてくれるだろう」


 上機嫌に話すモリスの声とは裏腹に、そのオレンジ色の瞳はどこか寂し気だった。


 ……ロベルタは、以前この店で働いていたΩの女性だ。


 サファイアのような美しい目をした人気の看板娘だったが……ルッソの部下に襲われ、シレーナを奪われた挙句に殺されてしまった。

 犯行が真夜中だったこともあり、誰も気付く事が出来なかった。

 翌朝――無惨な姿で見つかった彼女の亡骸を思い出し、セヴェーロは視線を下へと逃す。


「……すみません」

「いやっ待て、違う!……何度も言うが、アンタのせいじゃない。……ロベルタも、どうしてあんな遅くに出歩いてたんだろうなぁ」


 短いため息を吐くと、モリスは気分を変えようと大きく首を振った。


「ところで、何か買いに来たんだろ。娼館の買い出しか?」

「いえ、自分用に」

「煙草か?生憎ルーティドは切らしてるんだが」

「いや……ウイスキーが欲しい。三種類ほど見繕ってくれるか」


「ウイスキー?三種類も?アンタ、酒飲めたのか」


 モリスは純粋な疑問を口にした。オーナーとは一年程の付き合いだが、飲みに誘っても断られた記憶しかなく、食事をしていても酒を飲んでいる姿なんて見た事がない。


 訝しむような視線に、セヴェーロは軽く口籠った。


「飲め……ないわけじゃない。慣れてないだけで。ダガーや銃もずっと使っていれば手に馴染みます。酒も何度か口にすれば慣れるでしょう」


 酒は特に好きでもなく、飲みたいとも思わず、今まで飲んでこなかった。だが、またいつ大尉に同じ手口で捕まるか分からないし……ああ言う事があるなら、やっぱり飲めた方がいい。

 オスカーに相談したら「大尉のためにボスが変わることありません!」と猛反されたが、別に大尉のためじゃないだろう。同じ失態を繰り返すわけにはいかない。


「どぉ……だろうな?」

「違うんですか?」

「うーん、酒は武器とは違うだろうが……まぁ、色々飲んだら好みの物が見つかるかもしれないしな」


 ジョッキをカウンターに置くと、店の戸棚にずらっと並ぶ酒瓶の中からおすすめのウイスキーを選び麻袋へと入れた。瓶はそれほど大きくないが、三本ともなるとそれなりの重さがある。


「そしたら……今度こそ店へ飲みに来てくれよ。アンタともっと話してみテェんだ」


 袋の口を紐で縛り、それをセヴェーロへ手渡した。男とは思えない繊細な指先が受け取ると、よく整った綺麗な顔がこちらを見上げる。

 普段は近寄りがたい雰囲気のある吊り目が細まると、ふっと小さな口に嬉しそうな笑みが浮かんだ。


「ええ、もちろん。今度一緒に飲みましょう」

「あ、あぁー……そうだな、二人だけってのもあれだ!アンタの部下も連れてきてくれよ。人は多い方が楽しいからな」


 時折忘れそうになるが、その人目を奪う艶やかな表情を見るとオーナーもΩだと言うことを思い出す。自分はβだが、流石に酒の席でΩと二人きりと言うのはよく無い気がした。

 男に興味はないが……たまに見せるその柔らかな笑みを向けられると、どうにも落ち着かない気分になる。


 ――無自覚な美人ってのは、本当……タチが悪いな。

 その生真面目で上品そうな顔とは裏腹に、意外と粗雑で話してみると時折すっぽ抜けたところがあった。娼館一美しい館長『エマヌエラ』が、気にかけている理由も分からなくない。


「――店長。そのジョッキ、下げるなら早く下げて」


 キッチンの扉から声が聞こえると、一人の少女が顔を出した。

 ブカブカのエプロンを引き摺らないよう持ち上げながら、姉と同じ色の瞳でモスカを見上げる。


「空のお皿ってまだある?裏のは洗い終わったよ」

「お、おう!速いなトリシャ!すぐ皿下げてくっから」


「店長ー!ご注文です!『海老とトマトのバジルパスタ』五皿と『チキンチーズサラダ』二皿お願いします!」

「はいよぉ!」


 店内に勢いの良い声が響いく。モリスは煩悩を追い払うように、自慢の二の腕を掴んで肩を回した。


「んじゃ、オーナーまた来てくれよ。娼館の嬢ちゃん達にもよろしく伝えといてくれ」

「あっモスカ、金は」

「おぉ、138サターンだ!トリシャに渡しといてくれ!」


 そう言うとバタバタとキッチンへ向かって行く。結局カウンターに置かれたジョッキはそのまま取り残されたので、トリシャはムゥっと口をへの字に曲げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る