『エルベ』にて
隣国との領土戦争によって王国から見捨てられた街『テナイド』
廃れ果て荒れた街を、現在は二組のマフィアが支配していた。南全体と西部下は『フェクダ』。東側と北東はルッソが率いる『ファイ・ヘルクリス』が縄張りにしている。
フェクダが作り出した安価で買えるΩ用の抑制剤『シレーナ』を求めて、南部には王国内や他国からも数少ないΩが集まっていた。しかし、貴重な金が鉱山の一角で大量に見つかれば、当然それを目的に訪れる狩人も増える。
フェクダの縄張りから外れたテナイドの周囲は、Ωを捕まえる絶好の狩場だった。
「そっちに行った!捕まえろッ!」
「Ωの女だ!」
東の閑散とした街中を、長い黒髪の女が走っていた。その後ろを、二人の男がナイフを片手に追いかけている。
女は息も絶え絶えにフラつきながら、全身に鳴り響く自身の心臓を強く握りしめた。
――このままじゃ、捕まる。
大通りから目に留まった小道を見つけると、咄嗟にそこへ走り込んだ。細い体を滑り込ませるように、砂利だらけの道を躓きながら進んでいく。
「チッ……!あのアマ」
「おいッ!早く追いかけろよ!逃げられるぞ!」
女が逃げ込んだ道の前で立ち止まってしまった男に、追いついたもう一人が怒鳴り声を上げた。流石にこいつの腹が出ているとは言え、通れないほどの道じゃない。
「南はフェクダの縄張りだ。深追いはやめとけ」
「は?縄張りっつっても目があるわけじゃねぇだろ。バレなきゃ問題ねぇよ」
「おい!っ……知らねぇからな」
仲間の制止も聞かず、長身の男は狭い小道へと入った。長い手足が狭い道壁にぶつからないよう、早足で女を追いかける。
舌を垂らした野犬のように、その距離を徐々に詰めて行った。
「へっへへ、Ωの細足で逃げ切れると思ってんのかよ!」
腕を伸ばし、小道が終わる直前に女の肩を鷲掴んだ。
痛みと恐怖に足が絡み、そのまま前へ押し倒される。道が開けた先は、誰も住んでいない廃墟に囲まれた
――人の姿はどこにもない。やっと、やっとここまで来たのに。
ここはまだフェクダの縄張りじゃないの……?
「やっと捕まえたぜ。売女が」
口を覆うように顔を掴まれる。男の太い指が薄い頬に窪みを作った。
整った顔立ちに、恐怖に震えるブラウンの瞳。乱れた服の下から覗く淫乱な白い肌に、男は満足そうに舌なめずりをする。
「こいつは高値で売れるなぁ……ルッソに渡す前に、ちっと味見」
「ぐぅっう!ん゙んっ!」
腰回りのベルトを外されると、長丈のワンピースをたくし上げるように男の手が足を撫でた。
抵抗して腕を振り回すと、錆びついたナイフの刃先が顎下に押し付けられる。
「くそッ、暴れんな。綺麗な顔に傷つけたくないだろ?」
赤黒い錆びがこびり付いたナイフは血のように見えた。ザラザラとした冷たい感触にサッと血の気が引いていく。
――ただ、抑制剤が欲しかっただけなのに。どうして……。
絶望で濡れた瞳に、雲一つない青空が映った。
建物よりも高い位置を一匹の鷹が旋回している。まるで狩の様子を楽しむように、近くの廃墟へ降り立つとこちらをじっと見下ろしていた。
……いいなぁ。鷹は、自由で。
私も飛べたらいいのに。と壊れた家を見上げた。
その崩れ掛けた部屋の一室で、黒い影がチラッと揺れるのが見える。鳥かと思ったそれは逆光に照らされ飛び立つと、上に乗っている男に目掛け美しく舞い降りた。
ゴッと鈍い音と共に、男の顔がおかしな方向へ曲がり勢いよく蹴り飛ばされる。
声もなく家の壁にぶつかり静止すると、片手で首を押さえながらヨロヨロと身を上げた。
「でっめぇ!誰がっ!……なっ、なんで、ここに」
威嚇するように叫んだが、その姿を見た途端、男の声は萎れた花のように小さくなる。
――あれは、誰?
助けてくれた男の後ろ姿をじっと見つめた。
ダークブラウンの短い髪に、小柄な体格。左腰のホルスターと腰裏に下げた数本のダガーが歩く度に小さく揺れている。
「来るんじゃねぇ!」
男は地面を這いながら落としたナイフを拾い上げた。
しかし錆びだらけのナイフを構える前に、セヴェーロの革靴がその骨ばった手ごと蹴り払う。
「あ゙っッ」
飛ばされたナイフが砂利の上で軽い金属音を立てた。強打した手の痛みに潰されたような悲鳴が漏れる。
――恐る恐る目の前に立つ『フェクダの現ボス』を見上げた。いつの間にか左手には、鋭く研ぎ澄まされたダガーが握られている。
こいつの事は常々仲間からよく聞いていた。
一年ほど前、ファミリーのボスであり自身の番だったαの男を殺したΩ。その黒手袋に隠された右手は、Ωの分際で番を殺した罪深さに神が激怒し、醜く変形するよう呪われているのだとか。
「お、お願いだ!俺には妻と子供がいるんだ!頼む殺さないでくれ!」
咄嗟に命乞いを口にすると、ダガーを持つ手が動きを止めた。
もしかしたら逃げられるかもしれないと、男はなんとも情けない声を出しセヴェーロの足に縋り付く。
「子供が病気なんだ。Ωを売れば、簡単に金が入ると思って……馬鹿な真似をしちまった。頼む、二度とこんな事はしない。ゆ、許してくれっ」
「……昔、同じことを言われて男を一人逃したことがある」
そっと刃先が皮の薄い首先に当てられた。切れた皮膚から血の球が滲み、刃先に広がっていく。
震えながら黒い瞳を見上げると、獣のような鋭い目が冷たく見下ろしていた。
「そいつは翌日、俺の島で子供の上に乗っていた」
一瞬だった。
パッと赤い血飛沫が幕のように降って、すぐに男がその場に倒れる。
セヴェーロは血溜まりから離れると、ダガーについた血を宙に払った。
――死体は夜に片そう。顔にも飛んだな……一度帰って水で流すか。
『あ、あの』
後ろから聞こえた、か細い声に振り返る。
乱れた服を軽く押さえながら、綺麗な黒い髪の女が白いレースのハンカチを差し出していた。
『た、助かりました……ありがとう、ございます。こ、これ』
――グリビレイユ共和国の言葉だ。
セヴェーロは驚いて目を丸くした。共和国は王国の北に位置し、停戦協定を結んでいる。領土戦争の相手国だ。
その特徴的なアクセントのおかげでどこの国の言語かは分かるが、言葉の意味は分からなかった。だが目の前に出されたハンカチは『使え』という事だろうと、血が付いてしまった手で受け取る。
「ありが――」
しかし礼を言う前に女は走り出すと、廃墟が並ぶ道の間を去っていった。
後ろを見れば、血を流し倒れている男が目に入る。
――嫌なものを見せたな。てっきりすぐ逃げたかと。
共和国からもΩがシレーナを求めて来てるのか……テナイドに知り合いがいればいいが。
もらったハンカチで顔の血をぬぐい、刃先を綺麗に拭くと腰裏にしまった。真っ赤に染まった白い布をその場に捨てると、元々目的だった南商店街へ向かった。
※
大通りを進むにつれ、徐々に店が増えていき人通りも多くなる。
久しぶりに来た商店街は、以前よりも活気があり戦前の賑わいが少しだけ戻っている気がした。
人に紛れ向かった先は、通りの中でも大きな飲食店だった。看板には『
店名横に描かれているウイスキーの絵が目に入ると、セヴェーロは小さくため息をこぼした。
……昨日は散々だった。
大尉が娼館から出て行った後。シルビオはエマとエンツァに縛り上げられ叱られ、何故か俺まで「飲めもしない物を飲むんじゃない」と小一時間怒られた。
気持ち悪いし、頭痛はするし、耳も痛い。
ロウトの娼婦たちを守るためにやったとはいえ、それでボスが倒れてしまったら後がない。
分かってはいるが……仲間や周りを犠牲にしてしまっては、それこそ俺がボスを続ける意味がないじゃないか。
その後『どうすれば大尉は俺を諦めるのか』の話し合いになったが、討論の上答えは出ず……書斎の灰皿が吸い殻で埋まっただけだった。取り敢えず「大尉には会わないようにしなさい」と何度か釘を刺されたが、あの男から逃げるのは多分軍人を五人相手するより難しいし……あれは俺より強いだろう。
両手があれば、また違ったかもしれないが――。
店に繋がる短い階段を登ると、洒落た両開きの扉に手を置いた。少し重い取手を体重を掛け押し開ける。
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