攻防戦
素直な人
同じようなオレンジ色の三角屋根が並んだ静かな住宅街――。
家のほとんどの扉は壊され、荒らされた屋内に人が住んでいる形跡はなかった。そんな家々の間に紛れるように、しっかりと固く扉が閉められたレンガ造りの建物が一軒だけひっそりと建っている。
オスカーは細い路地を通ってその家の裏口へ来ると、鍵を開け中へ入った。表よりも、こちらの方が人目に付きにくい。
建物は二階建てで、そう広くはなかった。一階には火元があり、小さい暖炉に台所……元からそこにあった丸テーブルがそのまま置かれている。
階段を上がると、やっと少しアジトっぽい風貌の長ソファに低いテーブル。本棚とボスのデスクが置かれていた。本棚は全て埋まっており、入りきれていない本の束がテーブルとデスクの上にも積まれてる。
その本棚の前で、分厚い本を左手に俯いている人物を見つけるとオスカーは静かに声を掛けた。
「おはようございます」
「あぁ……おはよう」
セヴェーロは顔を上げるとオスカーへ振り返る。
綺麗な切れ目の下にはうっすらとクマができていた。一体いつからここに来ていたのだろう。
「シレーナの、改良についてですか」
「ああ……ガスサレムから数冊仕入れたんだが、さっぱりだな」
本にはガスサレム語で『薬草学』と書かれていた。
デスクの上に広げられた数枚の紙には、様々な種類の植物の名前とメモが書き殴られている。ボスの整った顔に似合わない癖のある字で、すでにいくつかは斜線が引かれ消されていた。
――シレーナは草や花、木の実など様々な植物を調合して作られている。
その内の植物の何かがαを興奮状態にする効果があるのか、それとも複数の植物と合わさって予期しない反応が出てしまっているのか……。
一つ一つを調べるには時間がかかれば、また骨も折れた。
「手伝えることがあれば言ってください。薬の実験台にもなりますよ」
「もし当たりを引いて、お前がラットになったら誰が止めるんだ」
「そ……れも、そうですね」
改良が進まない主な原因はこれだ。
αをラット状態にする植物を探すのに、そんなロシアンルーレットとのような実験は誰もしたくない。
上手いこと調合し直したとしても、その薬がΩの抑制剤としてちゃんと効くのか。発情期をどの程度抑えられるのか。その過程を調べるにもまた時間を要した。
だが……そんなに根気詰めていたら、ボスの方が先に倒れるのは目に見えている。
Ωの体は筋肉が付きにくく、体力も上げにくい。戦いの中でも長期戦はとにかく不得意だった。
「ボス、少し休憩しませんか?大通りの店で美味しそうなパンを買ってきたんです。紅茶も淹れますよ」
「ん……頼む。顔洗ってくる」
本をデスクの上に置くと、小さくあくびをして階段へ向かう。
道を譲ろうとソファの後ろに立った時――ボスが隣を歩いた瞬間、嗅いだことのない甘く優しい香りが頬を撫でた。
一瞬で意識がそちらへ持っていかれる。
気付かないうちに体が動くと、パンが入っている袋が床に落ちるのも目に入らず、オスカーはセヴェーロの左腕を掴んだ。
二の腕を取られたまま、驚いて立ち止まる。
セヴェーロは困惑した表情で、固まっているオスカーを見上げた。
「どうした……?」
「いえ……ボス、どこかでΩと会いましたか?」
「いや、会って――Ωの匂いがするか」
「……少し、ですが」
くらっと足元から揺れるような目眩を覚えた。
Ωとαは、普段から少量のフェロモンが出ている。人によって匂いや濃さは変わるが、互いにバース性や相性の良し悪しを探るヒントでもあった。
それがセヴェーロには、番だったαを殺した時からなかったのだ。
――エディと一緒にΩの本能も死んだと思っていたのに。
「……とりあえず、離してくれ」
「す、すみません!」
慌ててオスカーの手が離れると、セヴェーロはソファの肘掛けに軽く寄りかかった。
「一年間音沙汰なしだったΩの本能が、また動き出したってことか?どうして今更……」
「仮説、ですが……ベルティ大尉が本当に、ボスの運命の番だとしたら……大尉に出会ったことで、眠っていた本能が刺激されたのかもしれません」
「……運命か」
確かに今思えば、大尉に会う度に体が変に熱を持ったり体調を崩していた。あれはΩの性が再び目を覚ます前兆だったのかもしれない。
「その運命の番って言うのは、どうにもできないのか?俺が運命でなければ、大尉も興味がなくなるだろう」
「いえ……運命の番に対しての資料が少なすぎて、どうとも言えません。有名な話では、王国の初代国王陛下のご両親は運命の番だったとか……」
おとぎ話程度の内容しかないということだ。
なら……もしかしたら運命を変える手立てだって、見つかっていないだけで存在するのかもしれない。自身にそう言い聞かせると、セヴェーロは肘掛けから身を離した。
「フェロモンはシレーナを飲めば抑えられる。次から俺の分も用意しよう。……何かあったらまた教えてくれ、仕事に支障は出したくない」
「はい……」
発情期は昔から軽い方だった。シレーナがあれば日常と変わらず行動することが出来る。
階段を下りながら、何も問題はないと……腹の中で渦巻いている不安にキツく蓋を締めた。
※
「なぁ……さっきのさぁ、本物だったのかな」
「まさか、こんな場所にわざわざ来るわけないだろ。人違いだって」
昨日の対談の結果を、相当心配していたエマに報告するためロウトを訪れると、筋肉質な二人の青年がラウンジで会話をしていた。
見た目からしてアルフェラッツ王国の出身だろう。体格もいいから、まだ稼ぎの少ない軍人の卵なのかもしれない。
「あっ!オーナー!」
シルビオはセヴェーロに気が付くと、何やら凄い剣幕で受付を飛び出しこちらへ走ってきた。
いつもなら側に寄るまで寝こけているのに、何事かと隣にいるオスカーと視線を合わせる。
短い距離に息を吐きながら、シルビオは迫真の演技でセヴェーロのスーツを握り締めた。
「た、大変なんだ!この間の金髪のαが突然やって来て、パティとセナとスエラを連れて、203号室に……!」
「ベルティ大尉が!?」
サァッ――と肝が冷えるのを感じる。
まさか、昨日の対談で俺が番になるのを断ったから、その腹いせに娼館のΩを手にかけるつもりじゃ――。
「は、早く!こっちに来て!」
シルビオに引っ張られ、階段を駆け上がった。
左腰のホルスターを軽く押さえる。銃の手入れは抜かりない、あまり娼館の中で撃ちたくはないが必要ならすぐに戦えた。
「エマは?」
「今客の相手していて、部屋から出てこれない。エンツァも買い出しに行っちゃって、俺しかいなくてさ」
203のプレートが掛けられた部屋の前にたどり着くと、ベレッタを手に構える。オスカーも自身の銃をジャケットの中から取り出した。
「下がってろ」
シルビオに言ったつもりだった。
だが唐突に走り出した薄いベージュ髪が扉に突進すると、鍵が開いていることを知っていたかのように、グレーの扉を押し開けて同時に叫んだ。
「ベルティ大尉!オーナーお連れしましたぁ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます