幕間 二章直後の話
「志乃の唇は柔らかい」
「あの、咲夜さん…」
横浜駅に戻る車中、咲夜は志乃を背後から抱き抱えるようにして座っていた。道の悪さでガタガタ揺れるのも、こうして守られているとあまり気にならない。
黒曜村を出たあと、絡め取られるようにして木の下で抱きすくめられた志乃は、必死の抵抗を経て今帰路についている。
まだ胸の鼓動は止まらず、肌がほてっている。それもこれも、ずっと離してくれないこの男のせいだ。
——契約の終わりまで、咲夜さんを大事にしようと思ったはいいけど。いきなりこの人は、どうしてしまったの……。
仮初の左腕は志乃の帯をとらえ、やっとの思いで取り戻した右腕は、飽きることなく志乃のかんばせをいじっている。手の甲でふっくらとした頬を撫で、親指でやさしく唇をつぶし、ふにふにと感触を確かめていた。
「咲夜さん、もうそれくらいにして」
「止められない」
「止めてください」
「……俺は他人に興味をもったことがない」
ようやく顔から右手を離してくれたと思えば、ぎゅう、と背後から抱きしめられる。
「だが志乃には興味が尽きない」
「私に?」
仮初の妻、一年で終わる契約結婚の相手。どうしてそんな相手に興味がわくというのか。
「俺を心配するのも、やさしい言葉をかけるのも、お前が初めてだ」
「そんな、みんながみんな、あなたを邪険に扱っていたわけではないでしょう」
「俺は殺戮人形で、人間じゃない」
なんども聞いたその言葉。殺戮人形という言葉が繰り返されるたびに、彼の孤独が深いことを感じる。
彼を人間として扱うものは、誰ひとりとしていなかったということか。
「呪具と同じ、道具だ。俺に血を分けた男はそう言った。お前は使い捨ての道具だと」
温度を宿したはずの双眸から熱が奪われ、急激に冷めていく。血を分けた男、つまり咲夜の父親か。
「道具に愛情をかける人間なんていない。そうだろう?」
——かわいそうなひと。
彼が生きてきた世界に、愛などという言葉は存在しない。あったのは主従関係と命令だけ。
だから志乃と出会って初めて、人からの好意というものを知ったのだろう。
白く染まったまつ毛が上がる。黒と金の瞳は、じっと志乃を見ていた。
「おまえは俺を見て何を思う? なぜ大事にしたい? それはどんな感情からくるものなんだ」
「えっと、それは……なんて言ったらいいのかしら」
「教えてくれ、わからない。……わからないと、不安になる」
そわそわと落ち着きなく目元を動かすそのさまは、とても人間らしくて。初日に目にした彼と、本当に同一人物なのかと思ってしまう。
身内の死によりさまざまなしがらみから解き放たれた今。結婚という区切りを機に、彼は人間を学ぼうとしている。
「志乃に嫌われることが、怖い」
眉をハの字にした顔が、濡れそぼった捨て犬のようで。かわいそうで、愛しい。
——私のこれは同情なのかしらね。
「たくさんお話をしましょう」
「話?」
「そう。私があなたのことを知らないように、咲夜さんも私のことを知らないでしょう」
「ああ」
「だからお話しして、お互いのことを知って行くの。今ここで、あなたを大切に思う理由を説明するより、ずっとそのほうが深く分かり合える。そしてわかりあっていけば、とてもいい関係が築けると思うの」
「そうか、話か」
車が止まる。どうやら駅に着いたらしい。
先に降りた咲夜が、志乃に手を伸ばす。ゴツゴツとした手の甲は、傷だらけだった。
「では今夜はたくさん話をしよう。いや……さすがに疲れたか? 身近に女がいなかったので、どうするのがよいかわからない。……だが俺は、とてもお前と話がしたい」
——私が、彼のこの無垢な心に愛情を注いでもいいのかしら。ただの同情心から、不用意に優しくしても。
与えられることを知って、満たされた心は、親鳥に懐く雛のように、ずっと親のそばを離れたがらないのではないか。
——でも、こんな傷だらけの人を放ってはおけないわ。
志乃は昨夜の手を取り、車を降りる。
「そうね、お話ししましょう」
咲夜はぼうっと志乃の顔を見つめ、そして不器用に口角を上げた。
「ようやく笑ってくれたわ」
まだぎこちなさはあるけれど。彼の中に確かに芽生えた感情が感じられる。
「笑いとは込み上げてくるものなのだな」
「そうね」
「志乃」
「はい」
「まぶしいな」
「陽が出てきましたからね」
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