第1章 回転性世界

第1話 回転性世界

 キーンと、意識の深いところから、金属質な耳鳴りが湧き上がってくる。じっとりと脳にまとわりつく、不快な異音。それは、世界がまもなく、その水平を失う前触れだ。


 ぼくは自室のベッドの上で、固く目を閉じていた。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、やけに眩しい。リビングの方からは、大学へ向かう両親の慌ただしい足音と、食器の触れ合う音が聞こえてくる。世界の、正常な音。ぼくだけを置いてきぼりにして回っていく、日常の音だ。


 枕元のスマホが、短く震えた。画面に浮かび上がったのは、母からのメッセージ。


『仕事行ってきます。無理しないでね』


 短くも温かい、優しい言葉。その温かさや優しさが、今は見えないガラスの壁のように、ぼくと世界を隔てていく。だれも、この耳鳴りの正体を知らない。だれも、この回転する世界の中心で、ぼくがどれだけ必死に立っているかなんて、知りもしないんだ。


 *


 重たい身体を引きずってたどり着いた教室は、すでに朝の喧騒の渦の中だった。


 昨日見たテレビドラマの話。週末の部活の話。弾むような笑い声が、教室の四方の壁に反響して、ぼくの頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。その音が、平衡感覚をさらに狂わせていく。


「湊、おはよ。……って、おい、顔色悪いぞ」


 親友の蓮が、屈託のない笑顔で近づいてくる。そして、心配そうにぼくの肩へ手を伸ばした。その温かい手が触れる、ほんの数センチ手前で、ぼくは無意識に身を引いていた。


「――平気だよ」


 振り払うようにして口にした言葉は、自分でも驚くほど冷たく響いた。蓮の優しさが、今はどうしようもなく憐れみに感じてしまう。病気のぼくに向けられる、健常者からの、一方的な同情に。


「……そっか。なら、いいけど」


 世界がまた回り始めている。

 予兆は、黒板の白いチョークの文字が、ほんのわずかに滲んだことから始まった。まるで、水に落としたインクみたいに。じわり、と輪郭が曖昧になって、やがてゆっくりと流れ出す。世界がその水平を保てなくなる、不快な合図。


 ぼくは、シャーペンを握る手にぐっと力を込めた。机に突いた肘に全体重を預けて、どうにか意識を繋ぎとめる。大丈夫だ。これはいつものこと。慌てるな、神崎かみさきミナト。お前は、この程度のめまいで我を失うほど、弱くはないはずだ。


「……湊、おい、大丈夫か?」


 隣の席のれんが、ひそめた声でたずねてくる。ぼくは顔を上げずに、短く息を吐いた。


「なんでもない」

「なんでもないって顔色じゃねーぞ。保健室、行くか?」

「うるさい。集中させろ」


 突き放すような言葉は、ほとんど無意識に口から滑り出た。蓮の気遣いが鬱陶しい。同情も、心配も、今のぼくには毒にしかならない。それは、ぼくがまだマトモな存在でいようとする、ちっぽけなプライドのせいだった。


 元々、ぼくはそこそこマトモだった。成績は常に上位で、生徒会の副会長も務めていた。だれもが認める「神崎湊」でいることは、息をするのと同じくらい当たり前のことだったのに。


 高校二年の秋。世界はなんの前触れもなく回転をはじめた。


 突発性の回転性のめまい。

 医師が告げた病名は『メニエール病』という、どこか他人事のような響きを持っていた。それ以来、ぼくの世界は、この忌々しい回転に支配されている。


 蓮に大見得を切った手前、そうそうその症状に敗北するわけにはいかない。けれど、この日もまた限界が訪れてしまう。黒板や文字や先生やすべての世界がゆっくり左巻きに回転してはもとに戻って――を繰り返している。


「……先生」


 かろうじて、そう声を絞り出す。ぼくの声に気づいた初老の教師が、静かに頷いた。クラスメイトたちの視線が、一斉に背中に突き刺さるのを感じる。憐れみ、好奇心、無関心。そのどれもが、今のぼくには耐えがたい。


 ゆっくりと椅子を引いて立ち上がる。


「やっぱダメか」


 蓮が心配そうに言うが、ぼくは素直になれなかった。


「……お前には関係ないだろ」

「関係あるから」


 当たり前のようにそう言ってのける幼馴染の蓮に、ぼくは苛立ちを覚えた。その悪気のない真っ直ぐさが、今はひどく眩しくて、痛いのだ。


「いつものことだから。放っておいてくれ」

「は? 心配してんだよ、普通に」


 蓮の眉がわずかに寄せられる。わかっている。ぼくとこいつは保育園の頃からの付き合いで、ぼくの病気のことを知る唯一の友人であることも。心を閉ざしていくぼくを、だれよりも心配してくれていることも。でも、その優しさを受け入れることは、ぼく自身の弱さを認めることと同じだった。


「大したことないから」


 それだけを言い捨てて、ぼくは再び歩き出した。背中にかけられる声を聞かないふりをして。


 そうして強がって教室を出たはいいものの、ぐるぐるぐるぐる目が回り、足元がおぼつかない。床がぐにゃりと歪んで見える。このままでは崩れ落ちてしまいそうだ。


 ぼくは奥歯を強く噛みしめ、壁に手をつきながら、教室の扉へと向かった。壁を伝う指先が、自分のものじゃないみたいに冷たい。一歩、また一歩。回転性めまいの遠心力に引き剥がされそうになる身体を、必死で中心に引き戻しながら。


 ひんやりとした廊下の空気が、火照った頬に少しだけ心地良い。保健室まであと少し。そこまで行けば、横になって休むことができる。あの静かな空間だけが、今のぼくの唯一の避難場所だった。


 保健室の扉を引くと、消毒液の匂いが混じった、独特の空気がぼくを迎えた。いつものように、そこは静かだった。


「あら、神崎くん。相変わらずつらそうね」


 白衣姿の藤堂とうどう先生が、穏やかな声で言った。この保健室の主である彼女は、ぼくがここに頻繁に訪れる理由を、なにも聞かずに受け入れてくれる。


「はい。少しめまいがして」

「そう。いつものベッド、空いてるから。ゆっくりしていきなさい」


 ありがとうございますと小さく頭を下げて、ぼくは一番奥にある、カーテンで仕切られたベッドへと向かった。もはや、ぼくの専用のような場所だ。靴を脱ぎ、腰を下ろすと、藤堂先生が水を持ってきてくれたので、めまい止めと吐き気止めの頓服薬を飲んで、重い身体を横たえる。冷たいシーツの感触が燃えるように熱い身体をゆっくりと冷やしていく。


 景色は今なお緩やかな左回転だ。カーテンや天井が回っている。目を閉じても、暗闇の中でなお世界はぐるぐると回り続けていた。


 親も、医者も、もう諦めているのだろう。


「まためまいが出たら、無理せず安静にして休むように」


 まるで、雨が降ったら傘をさすのと同じくらい、当たり前のことのように医者は言う。じゃあ、それはいつまで? この終わりの見えない雨が、止むことなんてあるのだろうか。


 忌まわしい回転を止められる人間なんて、どこにもいない。

 ぼくの身体も、心も、この星の自転に囚われたまま、なすすべもなく振り回されるだけだ。


 こんな時、ぼくは決まって考えることがある。頭の中に、壮大な計画図を描き出して。


 コードネームは『地球自転ジャック計画』。この星の地軸に巨大なブレーキをかけて、不快な回転を自分の手で支配するんだ。回っているのは僕の視界じゃなくて、実は世界そのものだった。そうだとすれば、もうだれかの優しさに苛立つことも、崩れそうなプライドに必死でしがみつく必要もなくなるのだ。


 ぼくの視界の回転と夜空の尾を引く星々の軌跡写真のような世界の回転が同期して、その中心にぼくがいる。


 そんな、子供じみた馬鹿げたことを考えながら、ぼくはただひたすらに、症状が過ぎ去るのを待っていた。誰にも届かない悲鳴を、孤独な心の中で繰り返し叫びながら。


 静まり返った保健室で、この学校で、この地域で、この日本で、この地球上で。ぼくは、たった一人だった。

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