第18話 夜明け前の庭

 まだ夜は明けきっていなかった。まどろみと酔いが一気に醒めて、私はそっと彼の部屋をあとにする。起こさないよう静かに扉を閉めると、逃げるように隊舎を出て庭へ向かった。


 いつもの長椅子に座り、空を見上げた。ほんのり空の端が白くなりかけているのが見える。そのせいで星はほとんど見えなくなっていた。空気は冷たくて、夜露が降りそうなほど。でもそれが熱さの残る身体には丁度良い。そして頭も次第に冴えてくる。


(……やっちゃった……)


 思わず手で顔を覆った。望んだこととはいえ、お酒が結構入っていたという言い訳がつくとはいえ、昨夜のことを今更反省する。


(でも……あんなにヴィオが……求め……)


 と、夜の記憶を辿って、身体がまた熱くなる。触れられた場所からじわりと熱が浮き上がってきた。あの敗北の時に感じたものとは、また違う。


(私が迫ったはずなのに、いつのまにか立ち位置が逆になっていたし)


 悔しいような、でもそれで良かったような。いつものとらえ所のない雰囲気じゃなくて、野性味のある熱さを持っていたなんて、意外だった。まだまだ見えていない彼の正体がますます気になってしまう。


(溺れきって……溺れきれただろうか)


 そのために潜り込んだはずなのに、飛び込んだ奈落はもっともっと深くて底にたどり着きそうにない。あの勝負で投げ込まれた感覚に、少ししか触れられなかったような気がする。ただ、全てを委ねてしまうって、彼が相手なら悪くないなって。


 不思議と、胸の内が満たされているような感覚。今までこんな気持ちになることってほとんど無かったように思う。


 思わず甘い痺れの残る耳元を手で押さえた。そこで気付く。


(あ……紐……置いてきたかも)


 ヴィオに解かれてそのままだ。取りに帰るのも気まずいし、代わりなら自分の部屋にもあるから、もういい。


 ため息を一つ、深く吐き出してみる。心も、身体も、いつもの私が知っている感覚じゃなくて戸惑う。きっと今日も思考がまとまらなくて、任務に集中できないのだろう。また新しい火種を抱えてしまったのかもしれない。今度は……そんなに嫌な感じはしないけど。







 しばらく頭を空にして座っていると、風もないのに、草が小さく揺れる音がした。そしてゆっくりとした足音。なんとなく私は気配を察した。葉ずれの囁きのような声がする。


「……やっぱりここにいた」


「起きたの……」


 ヴィオリーノが姿を見せる。薄暗くて、はっきりとは顔は見えない。私には好都合だった。だって、一気に体中の血が熱くなるのが分かったから。


「急に隣が涼しくなったら、さすがに気付くよ」


 そう言って彼は私の隣にそっと座った。夜の静けさを破らないように、ゆったりとした囁き声で話す。それが返って記憶を蘇らせてきて、落ち着かない。


「寒くない?」


「ちょ、丁度良いぐらいよ。頭を落ち着かせるにはね」


 そうかも、とヴィオは笑う。それから私の方へ掌を広げて見せた。私より大きな手には、部屋に忘れていたはずの革紐が載っている。


「これ、忘れ物」


「あ……ありがとう。わざわざこの為に?」


「まぁ、それもあるけど。何も言わずに朝を迎えるのもな、って」


 私はおそるおそるその革紐を彼の手からつまみ上げる。かすかに触れるだけで、ぴりっとした痺れが身体に走るのを止められない。夜風ごときじゃ全然自分を落ち着かせることが出来ていないようだった。


「酔いは……醒めたの?」


「……まだ少し残っている感じはするけどね」


 どうして? とヴィオが意地悪な顔を向ける。


「だって結構呑んだって……記憶……」


「忘れられない夜にしてあげる、って言ったのは、誰だっけ?」


「……っ!」


 ダメだ、もう恥ずかしすぎる。改めて思い知ってしまった。しかもヴィオは全て分かっている顔で笑っているし。


「ヴィオが実は意地悪だってこと、この夜でよくわかったわ」


「君がそうさせたんだからさ。だって、あんな『声』を聞いちゃったら……」


 と、そこまで言って彼の方も視線を逸らして、それきりことばを繋がない。って、どんな『声』だったっていうのよ!? そして遠慮がちに言い訳をした。


「……少しの意地悪ぐらい、したくなる……よ?」


「もう……っ! あれのどこが少しだったっていうの……」


 つい大きくなりそうな声を、ヴィオが私の口に指を当てて制止する。大人しく私は黙らざるを得なくなった。


 それから、お互いしばらく沈黙して、庭に夜明け前の完全な静寂が訪れる。





 私はふと、返してもらった革紐を改めて手に取った。


「ヴィオ、手を貸して」


「……何?」


 素直に差し出された左手に、私は自分の革紐をくるりと二重に巻いて、結ぶ。それは細身の腕輪のように馴染んだ。まるで、元々ヴィオのものであったかのように。彼はそれを何も言わず見つめていた。結び終えてから私の方を見る。


「持っていてよ」


「君のは?」


「部屋に予備ならいくつかあるから困らないわ。だからそれは、ヴィオが持っていて。また……取りに行くから」


 ヴィオリーノは不思議そうにその革紐を撫でる。


「また?」


「そうよ。それは私が貴方の部屋に忘れたの」


「……そっか」


 少しの戸惑いを含んだ目で私を見つめる。だめ、あんまり見ちゃうとまた……そう思って視線を外す。それに、そろそろ本当に行かなくちゃ。行きたくない気持ちはあるけれど。


「そろそろ戻らなきゃ」


「うん」


 私は立ち上がって、数歩歩く。それから振り返った。彼は優しい眼差しで手を振っていた。


「じゃあ、またね」


 ヴィオは深く静かに頷く。


 朝陽がもうすぐ庭を照らす前に、私は彼に背を向けて自分の部屋へ戻ったのだった。

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