聖女に捧ぐ、ディストピア

藤原ライカ

第1話 聖女は微笑む


『創星の書~終末』より


 いにしえの魔神が地上に現れしとき、西海に暗黒島ディストピアが生まれる。


 陽光は黒霧の彼方に消え、水は枯れ、大地は朽ちる。


 地上の命は尽きるだろう。終末の空に星はない。


 海と大地に絶望が降りそそぐとき、黒霧の彼方より現れし、七耀の星。


 希望が生まれし日。




  ◇  ◇  ◇  



 ラターニア大陸の南に位置する大国レブロン。


 大陸の南を制する王国の昼下がりは、じつに穏やかだった。


 青と黄と緑。


 色鮮やかな3色の羽を広げた2匹の蝶が、花蜜を探して舞っている。


 公爵令嬢グレイス・ベルナ・ローゼンハイムは、広大な公爵邸の一室から、澄み切った青空を眺めていた。


「そろそろ、かしら」


 グレイスは空気の揺らぎを感じていた。


 驚異的な第六感を有していた【七耀の星】勇者ライアンほどではないが、


「わたしの予感も、けっこう当たるのよね。虫の知らせ的に……」


 2匹の蝶を目で追いながら、そうつぶやいて数分後のことだった。


 遮音性に優れている重厚な扉越しにも聞こえてくるのは、穏やかな昼下がりにはふさわしくない喧騒。


「おまちください! 殿下!」


「時間はとらせない。部屋にいるのだろう」


「せめて入室の許可を取っていただかなければ、いくら殿下といえども……」


 ほら、きた。


 廊下から複数の足音が近づいてくる。


「お、お嬢様……もしや」


 震える侍女に「大丈夫よ」と、グレイスは微笑んだ。


「招かれざるお客様にお茶の用意を。どうやら、おふたりでお越しのようだから……そうね、どうせなら香りのいい『花の紅茶』をだして差し上げるといいわ」


 ほどなくして、重厚な扉が不躾にひらかれた。


「グレイス嬢、失礼する」


「ハリス様? どうされましたか?」


 わざと驚いた顔をして見せたグレイスは、婚約者であるレブロン王国第一王子と、そのうしろにつづく貴族令嬢に視線をそそぐ。


 王国の中堅貴族であるシファー伯爵家の令嬢ダイアナ・シファー。


『花冠の聖女』の称号を持つダイアナは、淡いピンク色のシフォンドレスを着ていた。


 ふんわりとしたオレンジ色の髪をゆるやかに巻き、これでもかと花飾りを頭に盛っている。どうみても、重そうだ。


 ユノーグがいっていたとおり、本当に頭が花畑な令嬢だわ。


 同じく【七耀しちようの星】であり、神聖皇国で修練をともにした聖者ユノーグの言葉を、いまさらながらグレイスは思い出した。


 ハリスの婚約者であるグレイスを前にしたダイアナは、不安そうにしているものの、その口元には、隠し切れない笑みが浮かんでいる。


 内心辟易となるグレイスだが、恋に盲目な王子は当然気づいていない。


 意を決したように、ハリスは声高に告げた。


「単刀直入にいう。グレイス嬢、キミとの婚約を破棄したい」


 グレイスの手にあった分厚いいにしえの『冒険の書』が、勢いよく閉じられた。


 広い居室に渇いた音が走り、一瞬、身体をビクリとさせたハリスだが、なんとか言葉をつづける。


「もう、自分の気持ちに嘘はつけない。わたしは、彼女を――ダイアナを愛している!」


「さようでございますか。お尋ねいたしますが、この件、国王陛下はすでに了承済みでしょうか?」


「いや、父上にはまだ……」


 阿呆か。


 曲りなりにも一国の王子という立場で『婚約破棄』しようというのに、何の段取りも根回しもないまま、ここに至っている時点で、グレイスは13歳のときに婚約した1歳年上の婚約者を見限った。


「承知いたしました。殿下のお望みのままに」


「……いいのか、それで」


 あまりにあっさりとしたグレイスの態度に、ハリスの方が狼狽える。


「ええ、もちろん。愛し合うふたりの邪魔をする気はございません」


 お花畑聖女と恋に盲目王子。お似合いです。どうぞお幸せに。


「そうか。それでは父である陛下には、わたしから説明しよう」


「お願いいたします」


 あったりまえだ。


「それで、今後についてだが、婚約破棄後も、キミがこの国で何不自由なく暮らせるように、わたしから慰謝料を……」


「殿下、何のご冗談を?」


 その瞬間――


 一陣の風が吹き、それまで澄み切っていた空に影が差した。


「そんな端金はしたかねなどいりませんわ」


「――なッ!」


 自分が支払おうとしている慰謝料を端金はしたかねだと切り捨てたグレイスに、嫌悪感を露わにしたハリスだったが、その表情はすぐさま恐怖に歪んだ。


 グレイス・ベルナ・ローゼンハイムは、レブロン王国で王室に次ぐ権力を持つ公爵家の令嬢である。しかし、それ以上に彼女を呼ぶにふさわしい呼称があった。


 7つの国と3つの特別法権区で構成されるラターニア大陸で、知らぬ者などいない。


 魔神アバドーサから世界を救った【七耀の星】のひとり。


 特別法権区のひとつ〖神聖皇国〗から最高位の聖称号を与えられし者。


 光と陰の神聖力を司る『光陰の聖女』


 彼女の神聖力から生まれた〈光〉は、邪悪なモノを遥か彼方へと消し去り、その身から生み出す〈陰〉は、生きとし生けるモノを闇に葬り去るという。


 そのグレイスの指先には、小さな陰の渦ができている。黒い渦はゆらりとうごめき、ハリスとダイアナを威嚇する黒蛇のように鎌首をもたげた。


 いとも簡単に、実体無きモノを神聖力で具現化してしまうグレイス。


 真の聖女であるグレイスの神聖力を、はじめて目にした最下級の『花冠の聖女』ダイアナの口元から、さきほどまでの薄ら笑いが消え去っていた。


 敵わない。


『聖女』という称号は同じであれども、清貧と奉仕、修練と祈祷の厳しい神殿生活を経て、正統なる聖称号を授かったグレイスと、神聖皇国に多額の寄付金をして聖女の称号を得た自分とでは、神聖力の気高さ、熟練度、技量にいたるまで、すべてが雲泥の差だった。


 魔神討伐作戦において、アバドーサに止めを刺したのは、『光陰の聖女』によって生み出された【聖なるいかずち】だという。


 大陸で唯一無二の超攻撃型聖女の指先から生まれた一筋の陰が、ハリスとダイアナに伸びてきた。


 恐怖で凍り付いたふたりの足元を這うようにして、グレイスの意思のままに動いた陰は、重厚な扉を開け放つ。


「さようなら、殿下。今日の日の決断を、ゆめゆめ後悔なさいませんように」






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