第34話 いっしょのところ

 大量の血に塗れた市川の脚を見て、旗野は青ざめた。


「……どうかしたの? 旗野さん」

「夜島さん、非常事態だ。電気をつけてくれ」


 異変を察知して目覚めた夜島が、スイッチを押して電灯をつけた。


「ヤバいぞこれは」

「はぁ……痛い……ッス」


 左腿に巻かれた包帯など、気休めにもなっていない。

 包帯どころか服や布団にもたっぷり浸潤するほど、血液が流れだしていた。

 天井の蛍光灯に照らされた市川の唇は白く、目も虚ろで焦点が合っていない。


「と、とりあえず、そうだな……えーと──」


(どうしたらいいんだ……?)


 旗野はもう何も考えられなかった。

 振り返れば、家庭科室を出て探索しようと言った辺りから、ほとんど希望的観測だけで動いていた気がする。


 常に押し寄せる緊張。

 最年長という責任。

 生まれて初めて見る大量出血の衝撃で、乱される思考回路。


「旗野さん。しっかりして」


 一方、リストカットで流血を見慣れている夜島は冷静さを保っていた。

 素早くキッチン用のゴム手袋をつける。

 包帯の上から傷口にタオルを当て、両手の平でグッと押し込むように傷口を押さえた。


「はぁ、痛い……ッス」

「我慢して」


 体重をかけるようにして全力で押さえる。

 保健体育の授業で習った圧迫止血。

 見様見真似だが、包帯だけよりはマシだと思った。


「……夜島さん」


 旗野は狼狽えた顔で夜島を見ている。


「しっかりしてってば、旗野さん。三年生なんでしょ?」

「あ、ああ。すまん」


(俺があの時、包帯を巻く前に止血を……いや、どうすれば良かったんだ……クソッ)


 市川の真っ白な顔を見ながら、旗野はただならぬ責任を感じていた。

 夜島がしばらく圧迫止血を続けたが、血が止まる気配は無い。


(やり方が違うのかしら……分からないわ)


 夜島もかなり疲れていたが、とにかく全力で傷を抑え、血を止めようと試みた。

 その時、市川の唇が微かに動いた。


「お、にい……ちゃ……」


 旗野ははっとした。


『旗野部長って、私のお兄ちゃんみたいッスね!」』


 そう言ってニッと笑う市川の顔が、いくつも脳内に浮かんだ。

 旗野はその言葉を聞く度に、おてんばな市川の相手を毎日しているであろう兄はさぞ大変なのだろう、と微笑ましく思ってきた。


「そうよ、生きてお兄ちゃんに会うんでしょ」


 夜島はそう言いながら体重をかけ、圧迫する力をさらに強めた。


***


 市川は夢を見ていた。


「お兄ちゃんどこにいるの? お兄ちゃ~ん?」


(またこの夢……嫌な夢ッス)


 赤いランドセルを玄関に置くと、家の中を歩き回る。

 どの部屋を開けても、兄の姿は見つからない。


「……わかった! ここにいるんでしょー」


(あ、開けちゃダメっス。開けたくないッス!)


 市川の気持ちとは裏腹に、少女は期待に瞳を揺らしながら、ふすまを開いてしまう。

 少女、もとい市川は目を見開き、やや上を向いたまま硬直した。


「お兄……ちゃん……?」


(見ちゃダメ!!)


 天井からぶら下がるソレは、兄の服を着たマネキン、あるいはサンドバッグのようにも見えた。


(お兄ちゃん……なんで……)


「……!」


 気付くと、そこには小学生時代の市川ではなく、制服を着た高校一年生の市川が立っていた。

 彼女はゆっくりと兄に近寄る。


「なんで? どうして私を置いてこんなこと……ねえ、お兄ちゃん」


 その時。

 息絶えているはずの兄の首がゆらゆらと持ち上がり、顔をぐりんと回して市川の顔を見た。


「え……!?」


 動きこそ奇怪だが、その顔は優しかった兄そのものである。

 その口が動いた。


れい。大きくなったな」

「お、お兄ちゃん……?」

「頑張ったんだなあれい。お兄ちゃんはちゃんと見てたぞ」

「お兄ちゃん! 会いたかった!」


 兄に近付こうと走り出した市川は、ガクンと膝をついた。


「え?」


 見ると足元の畳は真っ赤に染まっている。

 いや、そこは畳どころか壁も天井も窓の外も、何もかもが鮮血のように赤い部屋だった。


(そっか、私……)


 市川は、左腿に走る激痛を思い出した。


(やっといっしょのところに行けるね。お兄ちゃん)


 赤に覆い尽くされた部屋の中で、懐かしい兄の笑顔だけがポツンと浮かんで見えた。


***


「はぁ……市川さんしっかり」


 夜島は圧迫止血を続けていた。

 少し血が止まってきたような気がする。


「痛いよね。我慢してね」

「……」

「市川さん。市川さんしっかりして。意識を失っちゃダメ」

「……」


 夜島の額から汗が流れ、顎を伝って落ちた。


「頑張って市川さん。血さえ止まれば助かるんだから」

「……」

「豚肉もまだあるし、これからちゃんと栄養をつけて──」


「もうダメだ」


 そう言い放ったのは旗野だった。

 ヒビ割れた眼鏡の奥から、ツーと一筋の涙が落ちる。


「市川……さん?」


 夜島は体重をかけていた手を緩め、視線を市川の傷から顔へ移した。

 さっきよりも数段白くなった、その肌に触れる。


「冷たい」


 午前一時の家庭科室。

 市川は静かに息を引き取った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る