第2章:観測できないもの

 神代梓は、兄の記憶を思い出していた。


 夏の夜、家の裏山にある小さな空き地に、兄妹は並んで寝転んでいた。

 草の匂い。虫の声。木の葉が風に揺れる音。

そして、星。


「なあ、梓。あれ、見えるか?」


梓の兄である神代拓真は夜空を指さした。


「夏の大三角形……ベガとアルタイルと、あとデネブ」


「知ってる。学校で習ったもん」


小学三年生の梓は、どこか得意げに言った。


だが拓真は笑って首を振った。


「うん、それもあるけど。ほら、よく見てみろよ。星の光、全部違う色してるだろ?」


 梓は瞬いた。確かに、星は白だけじゃなかった。青白いもの、黄色っぽいもの、ほんのり赤いもの……。


「それ、全部“温度”なんだ」


拓真の声は楽しそうだった。


「色が違うのは、星の表面温度が違うから。温度が違うってことは、出してる光の波長も違う。そういうのを全部まとめて、星の種類がわかるんだよ。望遠鏡で見なくても、色でだいたい判断できるんだ。すごくない?」


 梓は目を見開いた。


「それ、兄さんが考えたの?」


「違うよ。ガリレオとかニュートンとか、すごい人たちが何百年も前に考えたことだ。でもね、今でもそういう“考える”ってことは終わってない。宇宙には、まだ答えがないことが山ほどあるんだ」


 風が草を撫でた。虫の声が遠ざかり、夜が一瞬、静かになったように感じた。

 その沈黙の中で、拓真はぽつりと呟いた。


「面白いだろ? この宇宙は、僕たちの想像力を試してる」


 その言葉は、まるで夜空の中に吸い込まれていくようだった。


 梓は、黙って兄を見た。


 ほんの少し横顔が見える。星の光に照らされて、目がきらきらしていた。


「兄さんは、そういうの、全部わかるようになりたいの?」


「うん。知りたい。全部は無理でも、せめてその入り口まではたどり着きたい。そしたら、その先は誰かが続けてくれるかもしれないし」


 梓は、それきり何も言わなかった。でもその夜、心に決めたのだった。


 自分も、この人みたいになりたい。


 星を見て、世界の仕組みを考えて、誰かに伝えられるようになりたい。

 それがどんなに難しくても、そばで、同じ方向を向いていたい。


——数年後、梓は物理学の道に進む。

誰にも言わなかったが、その理由はただひとつ。兄のようになりたかったからだ。


 神代梓の兄、神代拓真 は5年前、突如として消息を絶った。最初の調査隊に志願してゾーンへ向かったきり、戻ってこなかった。誰よりも理知的で、誰よりも好奇心が強かった兄。残されたのは記録装置の断片と、音のない映像だけだった。


 科学者である前に、彼女は妹だった。だが、科学者としての冷静さが、兄の死を感情で処理することを許さなかった。


『兄は、まだここにいるかもしれない』。彼女はそう思っていた。




 森の切れ目に、それはあった。


 都市だった。いや、かつて都市だったものの成れの果てかもしれない。


 木造の長屋が連なったかと思えば、その背後にガラスと鋼鉄の摩天楼が不自然な角度で突き刺さっている。歩道の中央には苔むした石柱が林立し、まるで古代の神殿跡のような趣を醸していた。建物の外壁は一部が裏返ったように反転し、内部の階段が空に向かってのびていた。


「これ……夢じゃないよね?」


 結菜のつぶやきに、誰も応えなかった。全員が、目の前の光景に言葉を失っていた。


 神代の観測装置が警告音を発した。


──“時間単位の連続性消失”。


 デジタルログには、一定の空白があった。装置は間違いなく稼働していた。にもかかわらず、10秒分の記録がまるごと存在しない。


「観測できていない……時間が、観測される以前の状態に戻ったのか?」


 梓は手帳を開き、理論の可能性を急いで走り書く。だが筆が進まない。


『時間は常に一定の速度で進む』──自明のはずの命題が、足元から崩れた感覚。


 そのとき、浅間が立ち止まり、周囲を見渡した。


「ここ、一度通った気がする」


「え?」


「いや……間違いかもしれない。でも……倒木の位置、崩れた瓦礫……すべて同じに見える」


 軍人としての直感が告げていた。敵地でのサバイバル訓練、空間把握には自信がある。


「これは感覚の錯覚じゃない。俺の身体が覚えてる」


 その声は低く、だがわずかに震えていた。


 結菜がポラロイドカメラで撮影した写真を覗き込んで絶句した。


「……三枝さんが……二人写ってる」


 写真には、別々の位置に立つ三枝が写っていた。


「なんで? 撮ったときは一人だったのに……」


 だが他のメンバーは何度見ても、一人にしか見えなかった。


「わたし、どうかしてるの?……でも、でも、見えてるのに」


 結菜の視界は現実を歪めた。彼女の目が狂ったのか、現実が壊れたのか。


 彼女はフィルムを抱きしめるようにして震えていた。記録こそが彼女の武器だった。信じられるのは、それしかなかった。


 凛は都市の裏路地で、何かが浮いているのを見た。


 それは、内臓のようだった。骨も皮膚もなく、肺のような器官と神経組織が、むき出しのまま宙に漂っていた。


「……臓器だけ……そんなふうに見えた」


 息を殺しながらも、彼女はそれを観察した。


「呼吸をしている……交換器官はある。中枢らしき核も……けど……骨格がない……」


 生物学者としての理性と、視覚的な恐怖が衝突する。


「進化の結果? それとも……これは、構造が概念と入れ替わってる……?」


 声が震えていた。だが彼女はそれをメモした。「観察すること」が彼女の自我の境界だった。


 榊原は記録帳を開き、背筋を凍らせた。


 そこには、彼が記憶していない言語で文字が記されていた。


「……書いた覚えはない。……でも、俺の字だ」


 文字は象形にも、合字にも似ていた。


「記録が……記録として、機能してない……俺が書いたものが、俺の思考を越えていく」


 記録という人類最後の砦が、何かに侵されていた。


 彼はペンを置けなかった。ただし記録だけは止めてはいけない気がしていた。


 そのときだった。


 梓の耳に、確かにそれは届いた。


「梓……来るな」


 兄の声だった。懐かしく、そして異様に明瞭だった。まるで、この異常な風景の中で、そこだけが“正常”に思えるほどに。


 神代は振り向いたが、誰もいなかった。


「今の、誰か聞こえた?」


 誰も答えなかった。彼女の内にだけ、それは響いていた。


「……この先は、記録が成立しない」


 三枝が静かに言った。


「ここから先は、調査として認定されない。報告もできない。……それでも、進む?」


 その目は冷静だったが、ほんのわずかに揺れていた。これまで数多の現場を経験してきた彼女でさえ、ゾーンの“不定性”には言葉を失っていた。


 隊の全員が、無言でうなずいた。


 誰もが、それでも進まなければならない理由を、心のどこかに抱えていた。

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