第1章:境界線を越えて
ゾーンに入った瞬間、それは始まった。
足元には山の斜面にありがちな乾いた土と苔、踏みならされた獣道。遠くで風に揺れる木々の音が――あったはずだった。
だが、次の瞬間、音はどこかへ吸い込まれてしまった。
自分たちの足音すら、地面に届く前に失われる。靴のソールが苔を踏みしめる感触はあるのに、音だけが抜けていく。
梓は思わず耳を澄ました。耳鳴りひとつない。風も虫の羽音もない。静寂ではなく、“音の無”だった。
視界は晴れていた。薄曇りのはずの空は、山にしては不自然なほど明るく、むしろ色温度が一定しない。
同じ方向を見つめているはずなのに、左目と右目で微妙に光のニュアンスが違って感じられる。
「空が……重なってる?」
そう呟いた凛の言葉に、誰も反応しなかった。反応できなかった。
まるで、空が重なっている様に二重に見える部分が確かにある。梓は、本当にゾーン内部に入ったんだ、と強く実感する。ここが地上に出現した特異点。シンギュラ・ゾーン…通常の物理法則は全く当てにならない場所…
頭の奥に圧がかかるような、認識のズレが静かに迫ってくる。
足元の地面は、見た目通りのはずだった。だが進むごとに、靴の裏に伝わる傾斜の感覚と、目で捉える斜面の角度が一致しない。
まっすぐのはずの道が、右足と左足で異なる高低差を与えてくる。
丘を登っている感覚なのに、周囲の風景は下り坂を示している。
梓は、小型の重力測定器を確認する。
「0.98G」……から、「1.05G」へ。測定値がリズムもなくぶれ続けている。
「自然界で、こんな変動はあり得ない……」
彼女の呟きは空に溶けていった。発声したはずの言葉に、空気がまったく反応を返さない。
まるで、世界が“音という情報”を拒んでいるかのようだった。
木々の影が、二重に揺れていた。
浅間はふと足を止め、銃を握る指を緩めた。
「おい、これ……」
枝の影が、風の流れに逆らって揺れている。ひとつは地面に映っていたが、もうひとつは……空間に浮かんでいた。
「これは影か? それとも……」
言いかけて、やめた。言葉にすれば、世界がそれを肯定してしまいそうで。
森は深くなっていく。だが、あり得ない光景が散見される。
背の高い杉の幹に、苔が反重力のように上へと広がっていた。
通常なら湿気の多い地表に留まるはずの胞子たちが、幹を逆流し、枝へと侵食している。
「こっち、見て」
結菜が呼んだ先に、苔の広がりが幾何学模様のような螺旋を描いているのが見えた。
「自然には見えない……けど、人工物でもない。これは……構造か?」
榊原はそう言うと、手帳を取り出し、興味深げにその模様をスケッチした。その姿は、まゆでなにかに取り憑かれているように集中していた。
「ほら、これ見て。撮った写真……おかしいでしょ」
結菜が差し出したのは、彼女のアナログ・ポラロイドで撮った一枚のフィルムだった。
画面の上部、空の部分に、一直線に並ぶ黒点の列。
「肉眼では見えなかったのに……カメラには写ってる」
凛が不安げに言う。
「なんだか誰かに見られてるような気がする。ずっと前から」
その声は、確かに小さな風に乗って流れたように感じられたが、それを聞いた者はいなかった。
前方に倒木がある……はずだった。
さっきまで確かに視界にあったその樹が、歩いても歩いても距離を詰められない。
振り返ると、それは後方にあった。いや、最初からそうだったかもしれない。
梓は、立ち止まる。
「これは、空間の再構成……?」
頭の中で組み上げたはずの座標系が、何度も書き換えられていく。
霧が白く地面を撫で、木々の枝は内側にねじれるように湾曲していた。
普通なら枯れているはずのシダが、赤黒い胞子を撒いていた。早乙女凛はその中に静かにしゃがみ込み、そっとポーチから観察ノートを取り出した。
「この胞子、乾燥してるのにまだ“生きてる”……?」
フィルター越しに採取器を当てる。反応がある。だが既知のどの分類群にも一致しない。真菌でも藻類でもない。“生物”と断言するには、あまりにも、仕組みが違いすぎる。
その時だった。
——ぱさ、と音がした。
頭上の枝に、鳥がいた。
……いや、鳥“のような何か”。
外骨格のように硬質化した羽根。二対の脚。片目の位置がずれている。分類不能。少なくとも、地球の進化樹に属していない。
「……来てくれたのね」
早乙女凛は、息を詰めるでもなく、静かに語りかけた。
「君、どこから来たの? “ここ”で生まれたの?」
鳥のような何かは、ゆっくりと首を傾けた。
まるで質問の意味を理解しているかのように。
凛は、恐怖を感じなかった。むしろそこに――言葉では説明できない一種の感動があった。
かつて、ゾーン周辺で発見された“奇形の鳥”。政府の公開記録では「既知の環境要因によるもの」とされたが、彼女は知っていた。あれは“突然変異”などというものではなかった。
生物学の外側から、何かが触れてきた痕跡だった。
その記録が、いつの間にか消えていた。
——削除、否定、封印。
だから彼女は、自分の目で“あの痕跡”を辿りに来た。
鳥のような何かは、木の幹を這い下りるように移動し、凛の足元に近づいた。普通の鳥なら警戒して逃げる距離。でもそれは、逃げなかった。
「君……自分が何なのか、わかってる?」
つい、そんなことを聞いてしまった。もちろん答えは返ってこない。
でも、凛の中には奇妙な確信があった。
——この生物は、“進化してきた”わけではない。むしろ、進化の原理から切り離された存在だ。
自然淘汰。遺伝的変異。時間の積層。そのどれでもない場所から、突然“出現”した個体。
「ここでは……自然淘汰すら意味を失うのね」
彼女はつぶやいた。それは恐怖ではなく、畏れと、美しさの入り混じった告白だった。
ふと、鳥が鳴いた。ただの声ではない。
凛の脳内に直接響くような、言語を持たない“信号”のような音。
——その瞬間、彼女は気づいてしまった。
この生物たちは、人間よりも“別の現実”に適応している。
それはここ、ゾーンの現実。
重力も、空間も、時間も、異なる法則で動く場所。
「……私たちが、遅れてるのかもしれないね」
凛は、微笑んだ。やがて、鳥のような何かは木々の奥へと姿を消した。
観察ノートの最後に、彼女はこう書いた。
個体番号001-AZ:分類不能。言語外知覚反応あり。
この世界に生きているのではなく、この世界を作る側に近い存在。
そのページには、赤い胞子がいくつかこびりついていた。
それすらも、もしかすると、“観察している私自身”が変異している兆候なのかもしれないと、早乙女凛はまだ気づいていなかった。
三枝は、隊の最後尾でメモを取っていた。
誰よりも冷静だった彼女が、ふと首をかしげる。
「これ、私たちの移動ログ……何度見ても“座標が戻ってる”のよ」
彼女の地図では、調査隊はすでに同じ場所を3度通過していることになっていた。だが周囲の風景は毎回、確かに“初めて見る”ものばかりだった。
三枝は、現在52歳。
疲れが顔に出ることを諦めて久しい。スーツの内ポケットには常に鎮痛剤。目の下のクマは、もはや彼女の制服の一部だ。
ふと思い出す。
——2048年、初期のゾーン接触任務。
あのとき彼女は“優秀な広報担当”として参加していた。
任務中に観測された“空間の歪みと人影”を、彼女は報告書から削除した。
なぜなら、その映像を公表すれば、“何が起こったのか”などよりも先に、世の中が混乱すると確信していたから。
「事実を記録すること」と「正しいかたちで報告すること」は、別の技能だ。
そして彼女は、後者のエキスパートである。
「……今、声が聞こえた気がする」
結菜がぽつりと呟いた。
全員が静止した。
風が吹いていた。木の葉は揺れていた。だが、誰も、何も話していない。
音が、先に通り過ぎていたのだ。それは言葉ではなかった。意味もなかった。だが、何かが確かに“存在”した痕跡だけが残っていた。
梓は、全身を締めつけるような感覚の中で、ようやく理解した。
ここは――
観測することが、世界を壊す場所なのだ。
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