第3話 孤独のかたち
月島さんと高槻くんが帰った後、リビングには嵐が過ぎ去った後のような、奇妙な静けさが漂っていた。窓の外はすっかり夜の帳が下り、港の灯りが遠くで瞬いている。今日の出来事が、まるで遠い昔の夢だったかのように感じられた。
夕食のテーブルは、海野家の緊急会議の場と化した。議題はもちろん、「本日の来客について」。栞の作った温かいクリームシチューが、緊張で冷え切った私の胃に優しく染み渡る。
「いやー、面白かったね、今日!」
口火を切ったのは、やはり潮だった。彼女は楽しそうに目を細め、スプーンを口に運びながら言った。
「あの蓮くんって子、最高じゃない? リアクションが素直すぎて、いじり甲斐があるっていうか」
「姉さん、おもちゃにするのはやめてあげて」
私の抗議も、どこ吹く風だ。
「それより、陽詩ちゃんだよ。なーちゃん、あんないい子、どこで見つけてきたの?」
「…別に、見つけてきたとかじゃなくて」
「ふぅん? でも、あの子、凪を見る目が特別だったよな、湊さん」
潮に話を振られ、湊はシチューを食べ終えた皿を静かに置いた。そして、じっと私の目を見た。その眼差しは、真剣そのものだった。
「ああ。あの子は、凪の心の壁を、壁だと認識せずに、ただ陽だまりだと思って寄りかかってくるような子だ。厄介だな」
「厄介って…」
「良い意味で、だ。お前のような頑固な要塞を落とすには、それくらいの天然さがなければ無理だろう」
湊の言葉は、いつも遠回しで、けれど的確に私の核心を突いてくる。私は反論できず、ただ黙ってシチューを口に運んだ。
「陽詩さん、とても緊張していたわね」
栞が、穏やかな声で言った。彼女は、洗い物をしながら、私たちの会話に耳を傾けていた。
「でも、凪の部屋から戻ってきた時のあの子の顔、とても安らいで見えたわ。…何か、お話したの?」
その問いに、私は凪の部屋での会話を思い出す。「羨ましいな、って思った」。月島さんがそう言った時の、儚げな横顔。私の家族の形を、彼女は肯定してくれた。その事実が、胸の奥で、じわりと温かい光を放つ。
「…別に、たいしたことじゃない」
私は、素直に話すのが気恥ずかしくて、そう答えるのが精一杯だった。
すると、湊がふっと息を吐き、まるで独り言のように呟いた。
「愛というのは、相手の孤独の形を、自分の孤独の形と重ね合わせることから始まる」
「また湊さんの名言が始まった」と潮が茶化す。
「だが、凪」
湊は、真剣な目で私を射抜いた。
「自分の孤独を相手に見せる覚悟がないのなら、相手の孤独に触れる資格もない。覚えておけ」
その言葉は、重い錨のように、私の心の底にずしりと沈んだ。
自分の孤独を見せる覚悟。
私には、それがあるだろうか。この「普通じゃない」家族のことも、自分自身の、まだ名前のつけられないこの感情も。全てを曝け出して、月島さんの前に立つ覚悟が。
もし、彼女に拒絶されたら? もし、彼女を傷つけてしまったら?
考え始めると、指先が冷たくなっていく。
その夜、私は自室のベッドの上で、今日の出来事を何度も反芻していた。
高槻くんの狼狽した顔。潮の楽しそうな笑い声。湊と栞の、いつもと変わらない佇まい。
そして、私の手を握った、月島さんの指先の温もり。
彼女が「素敵だね」と言ってくれた時、私の心の壁は、音もなく一枚、剥がれ落ちたのだ。
窓を開けると、ひんやりとした夜風が、潮の香りを運んできた。
湊の言葉が、再び脳裏に蘇る。
「自分の孤独を見せる覚悟」。
怖い。けれど、それ以上に、月島さんの孤独に寄り添いたいと思った。彼女が抱える息苦しさを、少しでも軽くしてあげたいと、強く願った。
それは、私が今まで誰に対しても抱いたことのない、初めての感情だった。
私は、ベッドサイドに置いてあったスマホを手に取った。
メッセージアプリを開き、彼女の名前を探す。指が、微かに震えた。
数秒間迷った末に、私は短いメッセージを打ち込んだ。
『今日は、来てくれてありがとう』
送信ボタンを押す。すぐに『既読』の文字がついた。
心臓が、大きく跳ねる。
数秒後、スマホが短く震えた。
『こちらこそ、ありがとう。凪ちゃんの部屋、すごく落ち着いた。また、行ってもいい?』
その文面の向こう側に、彼女の、はにかんだような笑顔が見えた気がした。
私は、返信を打つ。
『いつでも』
たった四文字。けれど、その四文字には、今までの私なら絶対に込められなかったであろう、確かな想いが詰まっていた。
自分の心の扉に、小さなノブを取り付けたような、そんな夜だった。
『いつでも』と返信した翌日、学校の空気は昨日までと何も変わらないように見えた。昇降口の喧騒も、廊下を駆け抜けていく生徒たちの笑い声も、いつも通りの日常。けれど、私の中から見える世界は、明らかに彩度を増していた。
教室に入ると、月島さんがすでに席に着いていた。目が合うと、彼女はふわりと微笑む。それはもう、クラスの誰にでも向けられる陽だまりの笑顔ではなく、昨日の夕焼けの色を宿した、私と彼女だけの秘密の合図のような笑顔だった。私も、以前のように目を逸らすことなく、小さく頷きを返す。たったそれだけのことが、胸を温かいもので満たした。
授業中、私は時折、彼女の横顔を盗み見た。真剣に黒板を見つめる瞳。きゅっと結ばれた唇。その一つ一つの仕草が、私の心を掴んで離さない。昨日までの彼女は、ただの「眩しいクラスメイト」だった。だが今は違う。彼女は、私の孤独の形を知り、そして、彼女自身の孤独の形を、私にだけ見せてくれた人だ。
昼休み。私はいつものように購買のパンを手に、自分の席で文庫本を開いた。しかし、そのページを捲る指は、どこか上の空だった。期待、しているのだ。彼女が、今日も私のところへ来てくれることを。その事実に気づき、私は一人、顔が熱くなるのを感じた。
「凪ちゃん、お弁当、一緒に食べてもいい?」
期待通りに、けれど心臓に悪いほど突然、その声はやってきた。顔を上げると、月島さんが、桜色の風呂敷包みを手に、少しだけ照れたように立っていた。クラス中の視線が、一瞬だけ私たちに集まるのが分かった。特に、女子のグループがひそひそと何か囁き合っている。いつも輪の中心にいる月島さんが、教室の隅で孤立している私に話しかけているのだ。格好の噂の的だろう。
「…うん」
私が頷くと、彼女は嬉しそうに微笑み、自分の机を私の机に、こつん、と軽くぶつけてくっつけた。その小さな音が、まるで新しい関係の始まりを告げるゴングのように響いた。私たちは、共犯者になったのだ。教室という名の閉鎖された社会の中で、「普通」の人間関係から少しだけはみ出した、秘密の共犯者。
月島さんが広げたお弁当は、彩り豊かで、愛情がたっぷり詰まっているのが一目で分かった。ふんわりとした卵焼き、タコの形をしたウインナー、星形に抜かれたニンジン。
「すごいね、これ。自分で作ってるの?」
思わず、そう尋ねていた。
「ううん、母が。…『良いお嫁さんになれるように』だって」
月島さんは、少しだけ寂しそうに笑って、卵焼きを一つ、私のパンの袋の横に置いてくれた。
「これ、あげる。美味しいよ」
その言葉の裏にある、彼女が背負わされている「良い子」のプレッシャーが、ちくりと私の胸を刺した。
「じゃあ、これは交換」
私は、自分のクリームパンを半分にちぎり、彼女のお弁当箱の蓋の上に置いた。
「え?」
「交換。じゃないと、フェアじゃない」
私のぶっきらぼうな言葉に、月島さんはきょとんとした後、耐えきれないというように、くすくすと笑い出した。
「ふふっ、凪ちゃんって、面白いね」
「別に、面白くない」
「ううん、面白いよ。すごく、真面目で、まっすぐで、優しい」
彼女が、私のちぎったパンを、美味しそうに頬張る。その姿を見ているだけで、私が買ったただのクリームパンが、何倍も美味しくなったような気がした。
私たちは、他愛もない話をした。好きな音楽のこと、次のテスト範囲のこと、週末に公開される映画のこと。そのどれもが、私にとっては新鮮で、輝いて見えた。誰かと、昼食の時間に言葉を交わす。たったそれだけのことが、こんなにも満たされた気持ちになるなんて、知らなかった。
ふと、教室の反対側から、視線を感じた。目を向けると、高槻くんが、まるでこの世の終わりのような顔で、私たち二人を見ていた。その手には、彼自身の購買のパンが、哀れなほど握りつぶされている。彼の存在を、すっかり忘れていた。
高槻くんと目が合うと、彼は慌てて視線を逸らし、猛烈な勢いでパンを口にかき込み始めた。その姿は滑稽で、少しだけ、可哀想だった。
隣で、月島さんもその視線に気づいたらしい。
「高槻くん、昨日、大丈夫だったかな…。凪ちゃんのお母さんたちのこと、すごくびっくりしてたから」
「…大丈夫でしょ。たぶん、彼の常識が少しだけアップデートされただけ」
私の言葉に、月島さんはまた、楽しそうに笑った。
その笑い声を聞きながら、私は確信していた。
私の世界は、もう、モノクロームじゃない。彼女という光が差し込んだことで、あらゆるものが、鮮やかな色彩を放ち始めている。
たとえ、それが教室中の好奇の視線に晒されることになったとしても。
この、共犯者との昼休みを、手放したくはない、と。
***
共犯者との昼休みは、私の日常になった。月島さんは毎日、当たり前のように私の隣で弁当を広げ、私は彼女とパンを分け合う。教室の好奇の視線は、数日もすれば「そういうもの」として受け入れられ、やがて潮が引くように消えていった。凪いだ海に戻った教室で、私たちは誰に邪魔されることもなく、二人だけの穏やかな時間を過ごした。
週末、私たちは一緒に映画を観に行った。他愛もないラブストーリーだったけれど、隣に彼女がいるというだけで、スクリーンの中で繰り広げられる恋物語が、まるで自分たちのことのように感じられた。暗闇の中、すぐ隣にある彼女の気配。ふとした瞬間に触れ合う腕。そのたびに、私の心臓は、甘い痛みを伴って大きく跳ねた。
映画館からの帰り道、夕暮れの光が、街全体をノスタルジックなセピア色に染めていた。海沿いの公園のベンチに座り、私たちは自動販売機で買った、ぬるい缶ジュースを飲んでいた。
「楽しかったね、今日」
月島さんが、心からの笑顔で言う。
「…うん」
私も、素直に頷く。楽しい、という言葉だけでは足りないくらい、満たされた一日だった。この時間が、永遠に続けばいいのに、と柄にもなく願ってしまう。
「凪ちゃんの家って、いつもあんな感じなの?」
不意に、彼女が尋ねた。
「あんな感じって?」
「なんていうか…みんな、それぞれ自由で、でも、ちゃんと繋がってる感じ。湊さんと栞さんも、すごく仲良しだし」
「…まあ、いつもあんな感じかな。やかましい時もあるけど」
「いいなあ」
月島さんは、そう呟くと、膝の上で自分の指を組んだ。その表情に、ふと影が差したのを、私は見逃さなかった。
「私、家にいると、時々、息ができなくなるんだ」
その告白は、あまりにも静かで、だからこそ重く響いた。
「お母さん、いつも言うの。『陽詩は良い子だから』『陽詩なら大丈夫よね』って。期待に応えなきゃって思うんだけど、それがどんどん苦しくなって…。本当の私は、全然良い子なんかじゃないのに」
彼女の声が、微かに震えている。夕陽が、その白い頬を滑り落ちる涙の粒を、きらりと照らし出した。
「…良い子じゃなくても、いいんじゃないの」
私が言うと、彼女は驚いたように顔を上げた。
「月島さんは、月島さんだよ。誰かの期待に応えるための存在じゃない」
それは、いつか湊が私に言ってくれた言葉の受け売りだった。けれど、今、この瞬間、それは紛れもなく、私の本心からの言葉だった。
私の言葉に、彼女の瞳から、堪えていた涙がぽろぽろと零れ落ちた。
どうすればいいのか分からず、私はただ、彼女の隣に座っていることしかできない。ハンカチも持っていない自分の不甲斐なさに、腹が立った。
すると、彼女は涙を乱暴に手の甲で拭うと、無理に笑顔を作った。
「ごめん、変な話しちゃった。せっかくの楽しい日だったのに」
「…別に。変じゃない」
私は、ポケットから、くしゃくしゃになったハンカチを取り出した。朝、栞が無理やり持たせてくれたものだ。アイロンのかかっていない、ただの布切れ。
「…これでよければ」
差し出すと、彼女は一瞬ためらった後、それを受け取った。そして、まるで宝物のように、そっと涙を拭った。
「ありがとう、凪ちゃん」
彼女は、泣きながら笑っていた。その顔は、今まで見たどんな彼女の顔よりも、痛々しくて、そして、どうしようもなく愛おしかった。
その時、彼女のスマホが、けたたましい着信音を鳴らした。画面を一瞥した彼女の顔から、さっと血の気が引くのが分かった。
「…お母さんからだ」
彼女は、慌てて電話に出る。
「もしもし? うん…ごめん、今、帰るところだから。うん、分かってる。はい…はい…」
電話口の向こうの見えない相手に、彼女は何度も謝り、頷いていた。その姿は、まるで透明な鎖に縛られているかのようだった。
電話を切った彼女は、力なく微笑んだ。
「ごめん、もう帰らなきゃ。門限、破るとうるさいから」
「…うん」
「ハンカチ、洗って返すね」
「別に、いいのに」
立ち上がった彼女の背中は、夕暮れの光の中で、やけに小さく、儚く見えた。
私は、彼女を引き留める言葉を知らなかった。彼女を縛る鎖を、断ち切る方法も知らなかった。
ただ、遠ざかっていくその後ろ姿を、胸が張り裂けそうな思いで見送ることしかできなかった。
楽しかった一日の終わりに、彼女が抱える影の深さを、私はまざまざと見せつけられた。
そして、その影から彼女を救い出したいと、強く、強く願っている自分に気づいた。
それは、もう「共犯者」という言葉だけでは片付けられない、もっと切実で、名前のつけられない感情だった。
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