第2話 招かれざる客と、招かれたい客
「凪ちゃん」と呼ばれた日から、私と月島さんの間には、目に見えないけれど確かな繋がりが生まれた気がした。それは物理的な糸というより、互いの視線が交差する瞬間にだけ存在する、光の筋のようなものだった。昼休みに彼女が時々、私の席の近くで弁当を広げること。廊下ですれ違う時に、彼女が他の誰にも見せない、少しだけはにかんだ笑顔を私に向けること。その一つ一つが、私の凪いだ日常に、静かな波紋を広げ続けた。私のテリ-トリーに彼女の存在がゆっくりと染み込んでくる感覚は、心地良いような、それでいて少しだけ胸を締め付けるような、奇妙な甘さを伴っていた。
その日の学校からの帰り道、私は珍しく姉の潮と一緒だった。美大に通う彼女は、気分が乗ると、古いスクーターを飛ばして私の学校の近くまで迎えに来ることがある。ヘルメットを脱いだ潮の髪が、潮風に煽られて踊っていた。
「なーちゃん、あんた最近、雰囲気変わったんじゃない?」
姉の言葉はいつもストレートだ。私は返事をせず、黙って隣を歩く。
「ふぅん? なんかさ、こう、長いこと閉まってた店のシャッターが、少しだけ開いた感じ?」
潮の独特な比喩は、時に的確すぎて腹が立つ。私の変化なんて、この太陽みたいな人にはお見通しなのだろう。
家の近くの、心臓破りの坂道を上っていると、前方に見慣れない人影を認めた。電柱の陰に隠れるようにして、誰かがこちらを窺っている。その不審な動きに、私は思わず足を止めた。
「…高槻くん?」
声に出してしまい、後悔した。影の主は、同じクラスの高槻蓮くんだった。私が声をかけると、彼はビクリと肩をすくめ、まるで悪いことをしているところを見つかった子供のように、バツが悪そうに頭をかいた。
「や、やあ、海野さん…。偶然だな!」
「こんな家の前で?」
「そう、偶然! この辺、ちょっと散歩してたら道に迷っちゃってさ!」
あまりにも拙い嘘に、隣で潮が「ぷっ」と吹き出す音が聞こえた。高槻くんは、時々私に話しかけてくる数少ない男子だ。彼なりに何か意図があるのだろうけれど、私にはそれに応える気も、方法も持ち合わせていなかった。
「へー、迷子なんだ。じゃあ、うちでお茶でも飲んでく? ママのアップルパイ、今日あたり焼いてるかもよ。絶品だから」
潮が、面白がってとんでもないことを言い出した。その悪魔の囁きに、高槻くんは「え、いいんですか!?」と、分かりやすく目を輝かせる。やめて。やめてくれ。この家は、私の
「姉さん、やめてよ」
「えー、いいじゃん。困ってる人は助けないと。人助け、人助け」
私の制止も聞かず、潮は高槻くんの腕を掴むと、まるで戦利品でも手に入れたかのように、意気揚々と我が家の玄関のドアを開けてしまう。最悪だ。私の平穏な日常が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
リビングに足を踏み入れた高槻くんは、案の定、石像のように固まった。ソファで分厚い建築雑誌を広げていた湊と、キッチンから「あら、お帰り」と顔を出した栞を見て、彼の思考回路がショートするのが手に取るように分かった。
「…えっと、お母さんと、その、お姉さん…とか?」
彼の常識が、必死に目の前の光景を理解しようと足掻いている。
「あら、凪のお友達? はじめまして、母の湊です」
「こんにちは、母の栞です。ようこそ」
湊と栞が、にこやかに、そして残酷に自己紹介をする。高槻くんの顔から、さっと血の気が引いていくのが見えた。無理もない。彼の世界では、母親は一人しかいないのだから。
私はもう、どうにでもなれという諦めの境地で、さっさと自分の部屋に引きこもろうとした。まさに、その時だった。
ピンポーン、と軽やかな電子音が、カオスな空間に響き渡った。
「はーい」と栞が慣れた様子でドアを開けると、そこに立っていたのは、月島さんだった。その手には、上品な焼き菓子店のものらしい、小さな紙袋が握られていた。
「あ、あの…海野さん、いますか? これ、この間の傘のお礼にって、母が…」
彼女は、玄関先で立ち尽くす高槻くんと、リビングにいる私たちを見て、きょとんと目を丸くしている。
招かれざる客と、私が心のどこかで招きたいと願っていた客。
二人が、私の家の玄関で鉢合わせるという、悪夢と奇跡がごちゃ混ぜになったような光景。
「え…月島さん? なんでここに…」
「高槻くんこそ…。えっと、ここは…」
二人の視線が、リビングの奥、湊と栞の間を行ったり来たりする。潮は、この予測不能なドラマの展開が楽しくて仕方ないというように、肩を震わせて笑いを堪えている。
私の城の壁は、今日、二人の闖入者によって、あっけなく、そして完全に崩れ去った。
呆然と立ち尽くす私に、栞が「あらあら、お客様が増えたわね。陽詩さんも、どうぞ上がってちょうだい。ちょうどパイが焼けたところよ」と、いつもの優しい、けれど今は少しだけ悪戯っぽく聞こえる声で言った。
その声だけが、この非現実的な光景の中で、唯一の確かなもののように響いていた。
リビングは、声にならない疑問符で満たされていた。高槻くんは、まるで未知の生命体に遭遇した探検家のように、湊と栞、そして私を交互に見比べている。その隣で、月島さんは状況が飲み込めないまま、礼儀正しくも困惑した微笑みを浮かべて立ち尽くしていた。この家の主役であるはずの私は、まるで舞台袖に追いやられた役者のように、ただ傍観するしかない。
主導権を握ったのは、やはりこの家のエンターテイナー、潮だった。
「ささ、二人とも入って入って! 立ち話もなんだし。ほら、蓮くんも栞ママの隣、空いてるよ」
蓮くん、といつの間にか親しげに呼んでいる。高槻くんは、潮に背中を押されるまま、恐る恐る栞の隣のソファに腰を下ろした。その動きは、まるで時限爆弾の隣に座らされた解体処理班のようだった。
「陽詩ちゃんは、凪の隣に座んなよ」
潮のその一言で、私の心臓が大きく跳ねた。月島さんは「あ、うん…」と小さく頷き、私の隣に、そっと腰を下ろす。肩が触れ合うか触れ合わないかの距離。彼女の体温が、制服の薄い生地越しに伝わってくるようで、私は無意味に背筋を伸ばした。
栞が、湯気の立つカップを四つ、テーブルに並べた。カモミールとレモングラスの、心を落ち着かせる香りが漂う。だが、今の私の心を落ち着かせるには、まったく効果がなかった。
「どうぞ。凪のお友達が来てくれるなんて、嬉しいわ」
栞の笑顔は、一点の曇りもない。彼女にとっては、これがごく自然な、喜ばしい日常の一コマなのだ。
「あ、ありがとうございます…」
月島さんが、小さな声で礼を言う。その視線は、テーブルの向かいに座る湊に、恐る恐る向けられていた。湊は、分厚い建築雑誌から顔を上げると、じっと月島さんを見つめた。その眼差しは、まるで建物の構造強度を確かめるかのように、鋭く、厳しい。
「君が、月島陽詩さんか」
湊の低い声が、リビングに響いた。
「は、はい!」
月島さんの背筋が、ぴんと伸びる。
「凪が、君の話をしていた」
「えっ」と驚いたのは、月島さんだけじゃない。私もだ。私が、彼女の話を? いつ?
「…してない」
私は、小さな声で抗議する。湊は私を一瞥すると、ふん、と鼻を鳴らした。
「口には出さずとも、な。最近の凪は、まるで古い港に新しい船が入ってきた時みたいに、空気がざわついていたからな。その船が、君だということか」
何を言っているんだ、この人は。詩的なようでいて、ただ分かりにくいだけだ。しかし、月島さんはその言葉の意味を正確に受け取ったらしい。彼女の白い頬が、夕焼けみたいに、ほんのりと赤く染まっていく。
その甘い雰囲気をぶち壊したのは、高槻くんだった。
「あ、あのっ!」
彼は、意を決したように声を張り上げた。
「お二人は…その、海野さんのお母さん…で、いらっしゃるんですよね? お二人とも…?」
核心を突く、あまりにも無邪気で、残酷な質問。リビングの空気が、一瞬だけ凍りついた。
栞は、にこりと微笑んだまま、少しだけ首を傾げる。
「ええ、そうよ。何か、おかしなことでもあるかしら?」
その問いは、肯定でも否定でもなく、ただ純粋な疑問として、高槻くんに投げ返された。悪意のない、だからこそ最も効果的なカウンター。
「い、いえ! おかしくないです! 全然! むしろ、素晴らしいというか、新しいというか…!」
高槻くんは、しどろもどろになりながら、必死に言葉を探している。彼の常識と、目の前の現実が、激しい綱引きをしているのが見て取れた。
私は、もう限界だった。この居心地の悪い空間から、一刻も早く逃げ出したかった。
立ち上がろうとした、その時。
テーブルの下で、私の手に、何かがそっと触れた。
驚いて隣を見ると、月島さんが、私と同じように顔を真っ赤にしながら、俯いていた。彼女の小さな手が、私の手に触れ、そして、迷うように、ゆっくりと、私の指を握った。
それは、誰にも見えない、二人だけの秘密の信号。
「大丈夫だよ」と、そう言ってくれているような、温かくて、少しだけ震えている、優しい感触。
その温もりが、私の荒れ狂う心の海に、一本の錨を降ろしてくれた。
ああ、そうか。
私は、この手を、離したくないんだ。
顔を上げると、湊が、面白そうな、それでいて全てを見透かしたような目で、私たち二人を見ていた。
リビングの攻防戦は、まだ始まったばかりらしかった。
***
テーブルの下で繋がれた手の温もりが、私の思考を麻痺させていく。高槻くんと湊、そして潮が繰り広げる、シュールで噛み合わない会話が、まるで遠い国のラジオ放送のように聞こえた。私の世界の中心は、今や、隣に座る月島さんの存在と、彼女の指先から伝わる微かな震えだけだった。
「――なーちゃん、ぼーっとしてないで、陽詩ちゃんにお部屋案内してあげなよ。男がいるリビングなんて、落ち着かないでしょ?」
潮の言葉は、まさに地獄に垂らされた蜘蛛の糸だった。男、と名指しされた高槻くんが「え、俺!?」と間の抜けた声を上げるのを背中で聞きながら、私は頷く。これ以上の公開処刑は、私にとっても、おそらく月島さんにとっても、耐え難い。
「…行く?」
私が尋ねると、月島さんはこくりと小さく頷いた。繋がれた手をそっと解き、立ち上がる。その名残惜しさに、胸の奥がきゅんと鳴った。
私の部屋は二階の角部屋で、リビングと同じように、窓から港が見えた。湊が設計した造り付けの本棚には、古今東西の小説がぎっしりと並んでいる。潮の部屋が、絵の具やキャンバスで溢れたカオスなアトリエなのとは対照的に、私の部屋には余計なものがほとんどない。整然とした、凪いだ空間。それが、私の心の最後の砦だった。
「わぁ…すごい本の数。全部、凪ちゃんの?」
月島さんは、感嘆の声を漏らしながら、本棚に吸い寄せられていく。その背中を眺めながら、私は初めて自分のテリトリーに他人がいるという事実に、不思議な心地よさを感じていた。彼女なら、いい。この聖域を、彼女になら見せてもいい。そう思った。
「この作家、私も好き」
月島さんが、一冊の本を指差して振り返った。その笑顔は、教室で見せる誰にでも向けられるものではなく、今、この瞬間の、私だけに向けられた特別なもののように見えた。
「…そうなんだ」
「うん。この人の書くお話って、すごく切なくて、綺麗で…。でも、最後には必ず、小さな光が見えるでしょう? そこが好きなの」
彼女の言葉は、私の心の最も柔らかい部分を、優しく撫でるようだった。私がこの作家を好きな理由を、彼女は寸分違わず言い当ててくれた。同じ景色を、同じように美しいと感じてくれる人がいる。その発見は、想像していたよりもずっと、私の心を揺さぶった。
「…月島さんも、悲しい話、好きなんだね」
いつか私が意地悪く言った言葉を、そのまま返してみる。彼女は一瞬きょとんとして、それから、くすくすと花が綻ぶように笑った。
「うん、そうかも。悲しいだけじゃなくて、その先に希望がある話が、好き」
私たちは、ベッドの縁に並んで腰掛けた。窓の外では、陽が傾き始め、空と海がオレンジと紫の絵の具を混ぜたような色に染まっていく。部屋に満ちる沈黙が、気まずいものではなく、穏やかで満ち足りたものに変わっていた。
「あのさ…」
先に口を開いたのは、月島さんだった。
「凪ちゃんの、お母さんたち…すごく、素敵な人たちだね」
その言葉に、私は息を呑んだ。驚き、困惑、恐怖。そんな感情を通り越して、彼女が口にしたのは、ただ純粋な「素敵」という賛辞だった。
「…普通じゃない、でしょ」
自嘲するように、そう呟く。それが、私の本心だった。誇らしくて、大好きな家族。でも、世間の物差しで測れば、きっと「普通じゃない」カテゴリーに入れられてしまう。
「普通って、何かな」
月島さんは、窓の外に広がる夕焼けを見つめながら、静かに言った。
「うちのお父さんとお母さんは、たぶん、すごく『普通』だよ。でもね、時々、息が苦しくなるの。『普通』でいなきゃ、『良い子』でいなきゃって、ずっと思ってるから」
彼女の声は、か細く、震えていた。
「だから、かな。さっきリビングにいた時、凪ちゃんのお母さんたちを見て、なんだか、ほっとしたの。ああ、こういう家族の形もあるんだなって。すごく、自由で、温かくて…羨ましいなって思った」
彼女の横顔を、盗み見る。夕陽に照らされたその表情は、いつも快活な笑顔の裏に隠された、彼女の本当の弱さや痛みを、ありのままに映し出していた。
ああ、そうか。
彼女も、私と同じだ。
見えない何かに怯えて、息苦しさを感じていたんだ。
気づけば私は、彼女の手に、自分の手を重ねていた。今度は、私から。
「…また、いつでも来ればいいよ」
声に出した言葉は、自分でも驚くほど、素直で、温かかった。
「ここ、私の部屋だけど…月島さんが来ても、いい場所だから」
月島さんが、ゆっくりと私の方を向く。その大きな瞳が、夕陽の光を吸い込んで、潤んでいた。
私の最後の砦だったこの部屋は、今日から、二人だけの聖域になった。
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