第15話 菖蒲「別に話さなくても良い。充分伝わった」

 朝食後の薬草茶を菖蒲くんに届けに行く。

 桃華ちゃんに


「泣いたせいで瞼が腫れてブスだから」


 と助っ人を拒否されたので、私一人の訪問となる。

 菖蒲くんがきちんと飲んでくれるか不安だが、やるしかない。

 決意とともに到着した菖蒲君の部屋の前で声をかける。


「桜井草子です。薬草茶を持ってきました」


 わずかな沈黙のあと「入れ」と返事がしてきて驚く。

 これまで助っ人がいないときに返事をされたことはなかったのに。


 数秒呆然としたあと、ハッとして入室する。

 すると、部屋の中が明るかった。


 雨戸も襖も開けられて、庭が見える。

 ずっと薄暗い室内で、布団をすっぽりかぶっていたのに……。


 菖蒲くんがのっそりと上半身を起こし「薬草茶を」と落ち着いた声音とまなざしを向けてくる。

 私は


「は、はい。こちらに……」


 と湯呑を渡す。

 菖蒲くんはグイッと飲み干すと、無言でじっと私を凝視し尋ねてきた。


「君は、人間不信に陥ったことはある?」


 私はひゅっと息を呑んだ。

 瞬時に脳裏によみがえるのは中学生の頃のこと。


 当時、私の通う中学は女子内に二つの派閥があって争っていた。


 中性的な美貌の優馬のファンと、もう一人の凛々しくて男臭さのある男子生徒のファンだ。


 私はしょっちゅう「優馬くんと付き合ってるの?」とつめよられて辟易していたのを覚えている。


 そんな中、中学二年の秋に「付き合ってください」と凛々しい方の男子生徒に告白された。


 私はろくに会話したこともないのにいきなりなんだろうと困惑したし、なにより女子の間の派閥争いに巻き込まれそうで正直少し迷惑だった。

 なので。


「ごめんなさい」


 と断ったのだが、凛々しい方の男子生徒は怪訝そうにして。


「なんで? やっぱり優馬と付き合ってるの?」


 などと質問してきた。

 私はさっさと話しを終わらせたくて若干そっけなく。


「いいえ。ただの幼馴染よ」


 と答えた。

 凛々しい方の男子生徒は。


「なら俺にしときなよ。優馬よりずっと楽しませてやるからさ」


 自信満々に言い放った。

 私は『楽しませてやる』という台詞が上から目線に聞こえ、眉をひそめた。

 優馬なら『一緒に楽しもうぜ』といってくれるはずだ。


 やはり凛々しい方の男子生徒とは相性が悪い。

 私はため息をこらえ、二度目のお断りをする。


「ごめんなさい。今は学校の勉強が楽しいので恋人を作る気はないの」


 これは本心だったけれど、凛々しい男子生徒はどう受け取ったのか急に舌打ちして態度が悪くなった。


「お高く留まりやがって。いーよそれじゃあ」


 吐き捨てるように言って去っていった。

 さすがに私も嫌な気分になったが、もうこれで関わってくることはないだろうと気持ちを切り替えた……のだが。


 翌日学校へ行くと「桜井草子が二大イケメンを手玉に取った上に捨てた」というウワサが広まっていた。


 私はそれまでも優馬と親しいことから多くの女生徒に嫉妬されていた。


 だが優馬はファンをある程度しつけていたので陰湿ないじめなどはなかった……のだが、ここにきて凛々しい方の男子生徒のファンにも敵視されるようになってしまった。


 この日以降、優馬のファンには無視され、凛々しい方の男子生徒のファンには上履きを隠されたりと、いじめられるようになってしまった。


 優馬には「すまない」と謝罪されたが、彼のせいではない。


 むしろ優馬のファンが無視以上のいじめをしてこないのはこれまでの彼のしつけのおかげだろう。


 たちが悪いのは告白を断った報復としてファンを使った凛々しい方の男子生徒だ。


 苦情を申し立てたいくらいだが、もはや問題は彼の手を離れており、そんなことをしてもどうにもならないだろう。


 女子間のことに男子が口出しするとややこしくなるのは自明だ。


 ウワサが自然消滅するまで待とうと耐えていたが、精神的にとてもつらく登校拒否も脳裏にちらついていたある日。


 数学のプリントを教室に置き忘れた。


 自宅に帰ってから気付いて、面倒くさいが仕方がないと学校に取りに戻った。

 夕日に照らされてオレンジ色の廊下を歩き、教室の扉の前まで行くと声が聞こえてきた。


「あーあ、あの草子って女をモノにしてボロボロにして捨てたら優馬の絶望顔が見れると思ったのによ」


 それは、凛々しい方の男子生徒の声だった。

 男友達数人と雑談しているところらしいが、内容にひやりと心臓が冷たくなる。


「あんな女をどうして大事にしてるんだろうな」

「特に美人でもないしな」


「もしかしたら賢い女が好みだったり?」

「賢いって、理数系がちょっとできるだけだろ」


 好き勝手に私のことを品定めしてわらっている男子生徒たちの声をそれ以上聞きたくなくて、私は気づかれないようにそっと、けれど急いで家まで戻った。


 結局回収できなかった数学のプリントは当然白紙で、提出したら先生に心配された。


 あのときに、女を優越感を得るための道具にしようとする男も存在するのだと知った。


 良い勉強になった……といえるほど今も吹っ切れてはいない。

 苦々しい記憶だ。


「なるほど。顔面蒼白になるほどの経験があるのだな」


 菖蒲くんの声に過去から現在へ意識が引き戻される。

 何か言わなくてはと逡巡しゅんじゅんするが。


「別に話さなくて良いのだぞ。充分伝わってきたから」


 十歳にしてこの冷静沈着さは、大店に生まれた立場が作ったものだろうか。

 そんな菖蒲くんは、少し目線を落としゆっくりと話し始める。


「僕も人が信じられなくなったからな。半月ほど前に辞めたが、優しい使用人が……いや、優しいように見せることが上手かった使用人がいたのだ」


 菖蒲君は空になっている湯呑を命綱か何かのようにぎゅっと握り、声を絞り出す。ずいぶんと苦しそうだ。


「僕はいつも部屋にこもっているから、まさか水をもらいに厨の入り口まで来ているとは夢にも思っていなかったのだろうな。その使用人は軽い口調で『菖蒲さまって赤ん坊のころから脆弱で、あんなのお荷物だろうによく育ててるよね。いっそさっさと死んだ方がみんな喜ぶんじゃない?』とあざけり……笑ったのだ」


 ひどい。


「その悪口のことはご両親には報告したんですか?」


 菖蒲くんはゆるりと首を横に振った。


「いや、悪口というより事実だと受け止めていたのだ。ゆえに、報告する必要性を感じなかったのだぞ」


 私はカッとして「事実なんかじゃないです!」と声を荒げてしまった。

 すぐ冷静になって、怖がらせたかもと焦ったけれど。


「うん。そうだな。家族は誰も死んだほうが良いなどと思っていないのだ」


 襖を開けられるようになったのが良かったのかな。

 暗い場所で一人で延々とマイナス思考に陥るのは良くないものね。


「桜井といったな」


 やわらかな声で苗字を呼ばれて頷く。


「君の献身のおかげで母上や父上、兄妹たちの想いを受け取れる心のゆとりができたのだ。ありがとうなのだぞ」


 感謝の言葉に、特別なことは何もしていない私はきょとんとしてしまう。

 菖蒲くんはクスリと笑って。


「わからないのならばそれでよいのだ」


 と空の湯飲みを盆の上に戻した。

 私の役目は薬草茶を提供することで、メンタルケアではない。


 暗闇を退しりぞけたのは奥方様や桃華ちゃんといった家族の皆様の愛に他ならない。


 いや、そんなことは菖蒲くんも承知の上だろう。


 きっと口に出さずとも葛城屋のみなさまも菖蒲くんの感謝の気持ちを理解しているはず。


 私なんかからの余計な言葉はいらないだろうと会釈して退室した。

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