Blue Dystopia
大谷智和
0 2024年6月
井村がその患者に初めて出会ったのはその年の5月だった。彼女は職場での人間関係に疲れ、その結果精神的に限界を感じて自身の心療内科に受診してきたのだ。初診の際井村は彼女に抑うつ状態であると診断し、まずは1か月分の休職の診断書を出した。それ以降2週間に一度の受診を受けてもらっている。今日もその日だ。
井村は時計を見る。丁度彼女が来る予定の時間だ。受付からも彼女が来院している旨を聞くと彼は部屋のドアを開けて彼女の名前を呼んだ。
「久保田花蓮さん、どうぞ」
久保田花蓮、27歳。自動車販売会社で事務の仕事をしながら休日は趣味のバンド活動を行っている。どうやら高校時代軽音楽部に所属していたらしい。話によると4月の人事異動で社内体制が大幅に変化したらしく、そのせいもあってか人間関係も大きく変化したらしい。どうやらその変化に心身がついていかなかったようだ。だがうつ病と診断するまではいかなかったため、井村は抑うつの診断書を出した。それからおよそ1か月、そろそろ診断書の期限が切れる頃だ。
「体調の方はいかがですか」
久保田は淡々と話し出した。
「まだだるさというか・・・体が重いっていう感じです」
「そうですか、心の具合はどうですか」
「・・・なんというか・・・あまりよくなったように思えません」
井村は久保田の表情を改めて見た。確かに心労が表情に出ているようだ。
「やはり、職場での人間関係がストレスになっているみたいですね。そのことについて職場の人とは何か話しましたか?」
「・・・話したって、意味があると思えません。労務担当の人も今年別部署から異動したばかりの人でして」
話を聞く限り相当大きな組織改編が行われたようだ。だが全く違う畑の人間を労務に就けるとはいかがなものかと井村は話を聞きながら思った。はっきり言って正気とは思えない。例えるなら内科医の人間に何も教えず外科手術を行わせるようなものだ。
「もし話しても解決しないというのであれば、最悪職場を変えるという選択肢も念頭に入れなければなりませんね。その点は久保田さんはどう考えていますか?」
「それも考えました。・・・でも、私なんかが転職したってうまくいくとは思えないというか・・・それに、ここ1週間昔の嫌な思い出というか、トラウマみたいなものがよみがえってきたっていうか」
トラウマ、その言葉に井村は引っかかった。
「トラウマですか。それは、今回の職場での一件と何か関係はあるんでしょうか」
「・・・確かに・・・あると思います」
久保田は力なく答えた。その様子を見て井村は少し考え込んだ。
「・・・久保田さん、もし久保田さんがよろしければ、そのことについてお話頂くことはできますか?誰かに話す事で問題の解決につながることもあります」
久保田は考え込んだ。彼女自身トラウマと呼ぶだけあってやはりそう簡単に話せるものではないのだろうか・・・。
「・・・話すより、何かに書いてお渡しすることは可能ですか」
久保田からは少し意外な答えが返ってきた。
「手記、という形ですか、なるほど。確かに話すのがどうしてもつらいというのであれば、久保田さんにとって負担にならない形で私に伝えていただければいいですよ」
「ありがとうございます・・・では次の診断日に持ってくるので」
「分かりました。ああそれと、診断書の期限が近づいていますが、また1か月分出しなおしますか」
「はい、お願いします」
それから2週間後、久保田は大きな紙の束を持って診察室に入ってきた。その様子を見て井村は目を丸くした。
「すいません、書いていくうちになんか熱中してしまって」
「あ、ああそれは別に良いんですけど・・・ちなみに差し支えなければ、職場でどういった人間関係のトラブルがあったんですか」
「一言で言うと・・・恋愛のトラブルですね。私ではなく後輩の事なんですが」
恋愛のトラブル、井村自身もそう言った内容で受診する患者を何人も見てきた。
「そうですか・・・それにしても結構量がありますね。全て読むのに時間がかかりますので、この件については次回の診察でお話ししましょう」
「はい、わかりました」
その日の診察は午前のみだったため、井村はそのまま久保田が持ってきた手記に目を通した。
「それにしても多いな。これじゃあ小説だな」
紙を見るからに手書きではなくWordなどを使って作成したようだ。確かにその方が楽かもしれない。その手記の最初の一文にはこう書かれていた。
「これは、私と私の同級生が高校時代に経験したとある事件の記録を同級生からの証言も含めて記録したものです」
事件、その言葉に井村は少し興味を持った。彼自身推理小説といった類は昔からよく読んでいる。
「・・・いかん、これは仕事だ」
井村は自分にそう言い聞かせて手記を読み始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます