英国貴族物語 episode 私の王子様

霜月華月

序章 お嬢様になる日

「例えそれが天文学的な確率でも」

『例えそれが決して叶わない恋と分かっていても』

「人を恋することがありませんか」

『そう、明日さえも見えない恋でも』

「人は恋をします。そしてそんなピュアな恋をしてみたと思いませんか」

『知り合うこと自体が天文学的だった』

「そう、ありえない恋でした。でも」

『知り合ってしまった。しかしそれは許されない恋』

「でも」

『それでも』

(私たちは明日も見えない恋をする)

「この恋は」

『そんな人たちに送る』

(一途でピュアな恋物語)


1918年4月15日 

 イギリスのある辺鄙な田舎に少女が住んでいた。その少女は母と共に暮らし、母はパン工房で懸命に働き、パン工房の職人手伝いとして賃金を貰い、そして娘は村で生成されるウィスキーの販売手伝いをしながら生計をなんとか立てていた。


 それでも母といれる時間はとても楽しいもので、娘であるマリア・マーガレットは別段その生活に不満を覚える事がなかった。

 ただある一つを除いて。それは偶にウィスキーを好んで買いに来るフィル・ハルバートという男性に原因があった。

仲が悪いわけではなく。仲が良いから困ったものである。フィルはどうやらロンドンにある貴族学校の教師をしているらしい。

 そんなフィルがマリアに学校の話をすると、マリアはそれはそれは楽しそうにその話を聞いていたものだ。

そしてフィルの家も貴族学校に勤める以上、それなりの貴族らしく、こうして格下のウィスキーを買いにくるのもお忍びらしい。


「学校か……行ってみたいわ」


「うむ……楽しいのだがね」

「でも学校より、今の生活を守ってた方がいいよね」

「私が隠れてお金を出すことも可能なのだが、それなりの条件が整わないとな……それが悔しい限りだ」

「フィルがそう思ってくれるのは嬉しいけど、それってお母さんだけここに置いていくことになるし、フィルにも迷惑かけるし、気にしない気にしない」

「すまない。誰かが君たちを救ってやれればいいのだが……いや、こんな他人頼みの話しかできないことを許してほしい」 

「だ・か・ら気にしないで」


 この様な会話がいつも繰り広げられるが、でもどれだけマリアをフィルが可愛がっていても、フィルの言うとおり、はい、お金やるよと勝手に学校の学費を出せる訳もなく、そしてマリアには母がいる。

全ての条件が整えないとマリアは仮に、そんな胸高鳴るお話を出されてもついていける筈もなく、そしてそんな顔見知りでもない見ず知らずの正体不明の誰かにそんな話をされてもほいほいとマリアが食いつくはずもない。


 でもマリアはそれでも学校に行ってみたかった。フィルはよくウィスキーを受領した事を証明する為に、サインを紙になぞるように書いていく。

そんなフィルの様な流麗な字をマリアはいつか書いてみたく、字の特訓をしていのはフィルには内緒だ。

 でもやはり厳然たる事実としてあるのは、向こうは貴族様、そしてこちらは単なる庶民ときたものだ。


 別段マリアはフィルを男性として好きなわけではないが、でもそういう劣等感を感じてしまうのは仕方がない事と言える。何度も何度も会っていると、フィルの優しい人間性のせいか、その辺りの感覚が麻痺しにかかることも多いが、でもそこは現実として見なければならない。

 仲が良い、そして偶に会いに来るお忍びの貴族のお兄さん。


 でもそんな劣等感や思いがあっても、マリアは母と仲良くこれからも暮らさせればよいのだ。そう母とさえ仲良く暮らせれば、だからそんな思いは断ち切るべきだといつも思っている。

 でも……不幸は突然やってくる。たちの悪い風邪に引っかかった母は肺炎を起こし死んでしまった。


「ママあああああああああああああああああああああっっっっっ――!」


 そう泣きじゃくるマリアをよそに、淡々と質素な葬儀が行われることがマリアはとても悔しかった。こんな墓でもない墓を見て、やっぱり自分の身分の低さを感じてしまう。

 ぼろ家とも呼べる家の中でマリアはただただ泣いた。村にはマリアと同年代の仲間もいて、そんな嘆き悲しむマリアを慰めるが、それでもマリアは泣くのを止める事は出来なかった。


 テーブルの上にあるランタンから淡い光が漏れて、それがまだあどけなさの残るマリアの横顔を照らす。整った鼻梁、そして丸く可愛い目から見えるのは深いブルーの瞳。顔は少し童顔の様に丸く、そしてその頬には零れんばかりの涙が伝っている。


「ママあああああああああああああああああああああっっっっっ」


 明日からどうして生きていけばよいのかという気持ちよりも、母が死んでしまった事が悲しかった。

そんな椅子の上で力なく座りながら泣くマリア。でもマリアはコンコンと自分の家がノックされる音に気がついた。


 こんな悲しい日ぐらい放っておいてくれと思うが、来訪者が来た以上放っておく訳にもいかなく、ドアに力なく歩みよるとドアを開けた。

 外から吹く春風がマリアの金色のロングヘアーを薙ぐが、それよりも驚いたのは、ドアを開けた瞬間に眼前に広がった光景である。


目の前には燕尾服を着た執事が立っていたからだ。長身であり、そしてそのぴしりとした燕尾服が特徴的なのに、その顔に掛けている眼鏡が尚のこと男性の事を理知的に見せる。端正に整った顔からコバルトブルーの瞳が見えており、マリアは萎縮をした。でも執事はそんなマリアを見ながらこう言った。


「少し宜しいですかな」

「な、なんのご用でしょう?」

「ふむ……私はある方の使いでここにやって参りましたアルバート・クリスと申します。この度はご愁傷様です」

「は、はい……」


 こんな身分違いの自分に、この人はご愁傷様と言ってくれるのかと思うと何故かマリアは不思議な気分になった。なのでマリアは、ど、どうぞと言いながら執事を室内へ入れる。執事はでは失礼しますと言いながら入室してくる。


 執事とマリアは椅子の対面に腰を掛けるようにして座り、執事はマリアの顔を真剣な表情で見ながらこう口から言葉を漏らした。


「お話というのは、実はあなたのお母様であるエリザ・マーガレット、いえエリザ・シュルベーヌ様は我が主の叔母様にあたるのです」

「え……」


 そんな執事の言葉にマリアは驚くしかなかった。そういうことは母が貴族という事になってしまうではないかと。


「ただ、エリザ様は町で知り合った男性と駆け落ちをしてしまい、お家の方からも勘当を言い渡されまして……そこでなのですが、そのご両親の元からお生まれになったのがマリア様なのです」

「……え?」


 なにか話が超絶過ぎる方向に向かっている事を自覚したマリアはあ? とか、え? とかはい、としか言えない。


「ですので我が主はあなた様の今後の未来を考えました。あなたはまだお母様のお力があったから食べられたのです。でも居なくなればあなたの今後の将来に光はありません」


 そう泣いてばかりもいられない。現実問題二人で働いて得た収入で食べていたのだ。母が死ねばその収入はなくなり、自分はどこかの廃れた奉公人になるしか道は残されていないだろう。

 そんな事を思いながら顔を下に俯けてしまうマリアに、アルバートは今時の高級執事らしくない柔和な笑みを浮かべながらこうマリアに諭すように言った。


「そこで我が主が、マリア様が独り立ちできるまでの間の全生活をサポートすると私におっしゃられまして。こうして私めが来た次第でございます。マリア様は明日からロンドンの貴族養成学校のエトワールにも通って頂きます」

「が、学校! 、わ、わたしが?」

「はい、そうでございます。マリア様とてシュルベーヌ家の一員なのでございます。なので貴族としての風格を身につけられるようにとの事です」


 驚くマリアにアルバートは主から伝えられた事項を淡々と述べていく。そしてアルバートは胸元から一通の便箋を取り出すとマリアの前に差し出した。


「我が主からのお手紙です。お読み下さい」

「はい、はう」


 震える手でアルバートから手紙を受け取ると、マリアは便箋を開け中の手紙を取り出し、読み進める。幼き日から母から文字や学問を習っていたので、字等はマリアは造作もなく読める。


 拝啓 マリア・マーガレット様

 この度はご愁傷様です。お悔やみを申し上げます。

さてこの手紙を読まれた頃にはアルバートから説明を聞いた頃だと思います。私はなにかやましい心がありあなたを助けるものでもなく、打算もありません。

ただ今後、先の見えない闇に転落していく従兄弟をみるのは忍びないのです。よってあなたの全生活を私が保証いたします。

また大学なども視野において考えておりますので、その時はアルバートにお申し付けください。さて今回の事に関して4つの規約事項を設けさせて頂きます。

 1つ。あなたは今後、私エドワルド・シュルベーヌから援助を受けていることを言ってはならない。

 2つ、アルバートを執事に付けて、アルバートからのお小遣いを必ず受け取り、そしてアルバートの言うことを聞く。

3つ、私の事を詮索しない。

4つ目は私からなんらかの命令があった場合には逆らわない。またあなたの生活の事を知るために私に手紙を書く。

 この私が書いた規約を守ってさえ頂ければ、私は必ずあなたの生活をサポートいたします。

 そして、もしマリア様が私にお会いして仮にお礼をしたいと思って頂いても、私は今後貴女と会う気はありません。なぜならば、いくらあなたのお母様がシュルベーヌ家より勘当された身でありながらも、私はあなたの従兄弟として少しはなにかをするべきだと思っておりました。

しかしながら、私は体面や世間体や諸々事情からそんな事を考え、あなた達を見捨てたも同然なのです。そんな私があなたとお会いする事は出来うるわけもありません。

 これは私の勝手な意見ですが、ご配慮頂けると幸いです。

                          

エドワルド・シュルベーヌより


「わ、私が……執事……」


 マリアはじぃーとアルバートの顔を見るが、アルバートはそんなマリアの視線から目を逸らさずにこう言った。


「左様でございます。マリア様。私めが今日からあなたの専属の執事になります。さてここまでご理解頂けたのであれば。さっそく準備を致しましょう」


 アルバートはマリアにそう言うと椅子から立ち上がり、ドアを開けると入ってくれと誰かに言った。

そうアルバートが言うと、室内に衣装箱を持ったメイドが入って来て、うやうやしくマリアに頭を下げた。どうも年齢的にはいいお母さんぐらいの年齢だと思えた。


「さて、マリア様、私は外にでますので。カミイラの指示に従ってドレスに着替えて下さい」

「ど、ドレス、私が?」

「はい、左様でございます。きっとお似合いになるとは思いますよ」


 そんなアルバートの言葉にマリアは少し下を俯いて照れてしまうが、そんな今の自分に罪悪感を感じてしまう。


 今まで母が死んだ事に関して嘆いていた自分だが、学校の話と全生活を保障されたことを知ると深い安堵感を覚えた事だ。

 暫くしてマリアはカミイラにドレスを着せられてアルバートの前にお目見えした。それを見てアルバートはお似合いになられますと言ったが、マリアは初めて腰に巻かれたコルセットが苦しくて仕方がなかった。

 

でも本当にマリアにドレスは似合っていた。今までのような廃れた貧乏くさい格好ではなく、本当に高貴なお嬢様のようになっていたからだ。

 その後マリアはアルバートとカミイラに促され馬車へ乗る。それを何事かと村の一同が見やる中、その馬車は重々しく発車し村を後にした。


 道中、かたんかたんと初めて味わう馬車の揺れを感じながら、マリアは母の死んだ村から去ることになった。


村のみんなから離れる寂しさもあったが、これからくる学校とはどんなものだろうかという期待感もあることは確かだった。

 これが現在貴族学校エトワールにいるマリア・マーガレットの事の顛末と経緯である。

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