湿地帯の木の魔物

 急ピッチの行軍の末、俺たちはついに目的の丘へとたどり着いた。周囲は夕暮れ時でオレンジ色の深い霧に包まれているが、ここからなら湿地帯全体を見渡せるだろう。


「……よし、一番乗り、か」


 幸いなことに、まだこの丘は他のチームに発見されていないようだった。陣地獲りのための前哨戦も覚悟していたが、まずは幸先の良いスタートだ。


「湊、俺は一度、この丘の周囲を偵察してくる。敵の接近に備えて、簡単なトラップも仕掛けておきたい」

「わかった。頼む。何かあればすぐに無線で知らせろ。こっちは拠点を作って待ってる」


 土田は頷くと、音もなく霧の中へと姿を消した。彼の索敵スキルと隠密スキルは、こういう場面でこそ真価を発揮する。


 さて、と。残された俺とレオナは、観測拠点となるベースの設営に取り掛かることにした。


「レオナ、周囲の警戒を頼む。俺は今のうちに、簡易的な拠点をクラフトする」

「ええ、わかったわ」


 俺がアイテムボックスから資材収集用の斧を取り出そうとした、その時だった。


「あの、湊……ちょっといいかしら?」


 背後から、おずおずとした声がかかる。振り返ると、レオナが俺の服の裾を、小さな子供のようにつまんでいた。その頬は心なしか赤く染まっており、つられて俺の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がる。


「……なんだ?」

「その……私も、拠点のクラフトをしてみたいんだけど……ダメ、かな?」


 上目遣いで、そう尋ねてくるレオナ。

 ――ダメなわけがあるか。むしろ大歓迎だ。


「……別に、構わんが。やったことはあるのか?」


 俺は内心の動揺を押し殺し、平静を装って聞き返す。ここでにやけたら、俺の負けだ。


「ううん、全くないわ。私の国では、こういうのは専門の工兵科の仕事だったから……でも、あなたが教えてくれた矢除けのネックレス、最近はうまくいくことが増えてきたの。だから、私にもできるんじゃないかって」

「……そうか」


 なるほどな。自分の無力さを嘆くのではなく、できることを増やそうと努力する。その前向きな姿勢は、純粋に好感が持てた。


「よし、じゃあ教えてやる。よく見てろ」


 俺は手近な木に斧を振るい、数回の的確な打撃で切り倒す。そして、身体強化で重さを感じさせずに、枝葉がついたままの丸太を拠点予定地の脇まで引きずってきた。


「拠点の建築は、プラモデルみたいなもんだ。まず、作りたい場所に建築素材を置いておく」


 俺はアイテムボックスから拠点の基本となる『木の土台』の設計図を取り出し、レオナに見せる。


「次に、この設計図に魔力を通し、設置したい場所を指定する。そうすれば、素材がクラフト範囲内にあれば、自動で選別し最適な形に加工してくれるんだ」


 俺は手本として、地面に最初の土台を設置してみせた。地面に置かれた丸太が淡い光を放ち、みるみるうちに綺麗な四角い床板へと姿を変える。


「か、簡単そうに見えるけど……」


 レオナの顔が少し引きつっている。おそらく、何度も失敗した矢除けのネックレスのクラフトを思い出しているのだろう。


「心配するな。設計図をよく見てみろ。線が極太だろう? 矢除けのネックレスは、小さくて精密な作業が必要だから、魔力経路の線が髪の毛みたいに細いんだ。それに比べて、建築パーツは単純で頑丈さが求められる。ネックレスをたまに成功させられるくらい上達してるなら、これは問題なく作れるはずだ。やってみろ」

「……うん、やってみる!」


 レオナは俺の手から設計図を受け取ると、意を決して魔力を流し始めた。彼女の魔力に呼応し、設計図が淡く光る。俺の想定通り、クラフトは難なく成功し、彼女の足元に二つ目の土台が出現した。


「できた……! できたわ、湊!」


 レオナはぴょんと飛び跳ね、満面の笑みでこちらを振り返る。

 くそ……かわいいな。思わず抱きしめて、よしよししてやりたくなる。いや、待て。これは違う。大型犬が「お手」を覚えて飼い主にじゃれついてくる、あれと同じだ。断じて恋愛感情などという非合理的なものではない。


「ご、ごほんっ。その調子で、土台を繋げて床を作っていけ。それが終わったら、『壁』と『天井』のパーツをはめ込んで、箱を作る。単純だが、これが全ての基本だ。大きさは4メートル四方の二階建てで頼む。俺は追加の木材を調達してくるから、建築は任せた」

「うんっ!」


 レオナは輝くような笑顔で頷くと、早速次のクラフトに取り掛かった。その真剣な横顔と、初めての共同作業に、俺の口元が少しだけ緩んだのは、きっと気のせいだろう。


 ---


 レオナの建築作業は驚くほど順調で、拠点の一階部分がほぼ完成しようとしていた、その時だった。俺の腰に提げた通信機から、短い呼び出し音と共に土田の声が響く。


『こちら土田。湊、聞こえるか?』


 俺はクラフトに夢中なレオナに気づかれないよう、少し離れた場所へ移動し、小声で応答した。


「こちら湊。状況は?」

『東のルートから、7人組のチームがこっちに向かってる。装備から見て、おそらく陵南の下部チームだ。このままだと、あと30分ほどで丘に到達する』


 ……まずいな。想定より早い。ここで戦闘になれば、拠点の設営も中途半端なまま、消耗戦を強いられることになる。


『そこで提案なんだが……』


 土田の声色が一瞬、低くなる。


『連中の最後尾を一人か二人、こっそり**〝間引いて〟**やらないか?』


「間引く、だと?」

『ああ。全員を相手にするのは得策じゃない。だが、行軍中に仲間が〝神隠し〟にでもあったように静かに消えれば、連中は疑心暗鬼になって足を止めるはずだ。うまくいけば、警戒して進路を変えるかもしれん』


 うーむ。成功すれば、戦闘を回避して敵の進軍を止められる。だが、もし失敗すれば……土田が危険に晒され、俺たちの存在も位置も、すべてが露見する。


「……勝算は? と言うかそんな隠密行動なんてできたのか? どうやってやるつもりだ」

『俺だって『あいつ』にやられっぱなしなのは癪だから、こういうこともあろうかと、前回の演習からずっと特訓してきたんだよ。とびっきりのナイフも持ってきたんだ。背後から忍び寄って、首元にスパッとやれば、声も出せずにリスポーン送りって寸法よ。大丈夫、専門家プロに任せなって』


 その軽薄な口調とは裏腹に、声には確かな自信が滲んでいる。こいつ、一体どういう経験を積んできたんだ。


 俺は数秒間、思考を巡らせる。そして、最もリスクが少なく、リターンが大きい選択をした。


「……許可する。だが、三つ条件がある」

『なんだ?』

「第一に、絶対に深追いするな。狙うのは最後尾の一人、多くても二人までだ。無理すればチーム壊滅できそうでも絶対やるな。第二に、少しでも危険を察知したら、即座に作戦を放棄して離脱しろ。お前の身が最優先だ。第三に、絶対に正体を悟られるな。顔を隠し、痕跡を残すな。……以上だ。やれるな?」

『了解。じゃ、行ってくる』


 通信が一方的に切れる。俺は、レオナが楽しそうに壁を組み立てている姿に視線を戻した。彼女はこの丘の上で、希望に満ちた拠点を作っている。そのすぐ麓では、土田が敵の命を刈り取ろうとしている。その歪な対比に、俺の血は滾った。


 一瞬、『あいつ』の顔が脳裏をよぎる。もし、このチームが奴の斥候だったら……。いや、桜井の話だと大規模なチームが北側に陣取っているはずだ。大丈夫だ、と俺は自分に言い聞かせた。


 ---


 深い霧の中を進む、7人組のチーム。先頭を歩くリーダーらしき男が、ぬかるんだ地面に悪態をついている。チームの最後尾を歩く一人の生徒が、皆から少しだけ遅れていた。靴にまとわりつく泥が、彼の体力をじわじわと奪っていたからだ。


「くそっ、待ってくれよ……!」


 彼がそう悪態をついた瞬間、背後のマングローブの根が、ぬるりと動いたように見えた。

 いや、気のせいか。この湿地帯は、何もかもが不気味に見える。

 彼が再び前を向いた、その刹那。

 背後に、気配はなかった。ただ、ぬるりとした泥が、人の形を成したかのような気配があった。


 彼の首筋に、氷のように冷たい何かが、そっと触れる。


「え?」


 声にならない声が漏れた。視界の端で、仲間たちの背中が遠ざかっていく。それが、彼の見た最後の光景だった。ぶつり、と世界が途切れ、彼の体は光の粒子となって霧の中へ溶けていった。


 しばらくして、チームのリーダーが立ち止まる。


「おい、ケンタがいないぞ!?」


 仲間の一人が、最後尾にいたはずの名前を叫ぶ。しかし、返事はない。ただ、彼が背負っていたはずのバックパックが、泥の上にぽつんと残されているだけだった。争った形跡がない。まるで、神隠しにでもあったかのように、一人の人間が忽然と消えていた。


「な、なんだよ……!敵襲か? 何が起きてるんだ……!」


 チーム全員が武器を構え、背中合わせに円陣を組む。霧の向こう、闇に染まった木々の隙間から、無数の何かがこちらを監視しているような、悪寒が走る。


 その時、ひゅ、と空気を切り裂く短い音。

 円陣の一人の眉間に、黒い何かが突き刺さっていた。木の枝を荒々しく削っただけの、原始的な矢だった。彼は悲鳴を上げる間もなく、崩れ落ちるようにして光の粒子と化す。


「うわあああああっ!」

「もうダメだ! 逃げろぉっ!」


 パニックに陥ったチームは、陣形を崩して蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。その背後、霧の奥で、木の皮で作られた能面をかぶった土田が、静かに彼らを見送っていた。

 土田は、次の獲物を求めて、音もなく湿地帯を駆ける。

 少し離れた開けた場所で、別のチームが焚き火を囲んでいた。彼らはこの魔境の中で、火の光に安堵しきっているのか、楽しげに談笑している。絶好の的だった。


 二人の生徒が「小便してくる」と言って、茂みの中へと入っていく。

 暗闇の中、背中を向けて無防備に用を足す二人。その背後に、土田は水の流れに溶け込むように、静かに接近した。


 まず一人目。その首筋に、ナイフが吸い込まれるように滑り込む。男は短い呼気を漏らし、光の粒子に変換され崩れ落ちて消えた。

 あまりにも静かな、作業だった。


「……おい、先に戻るぞ」


 残された一人が、そう声をかける。だが、隣にいるはずの仲間からの返事はない。


「……おーい?」


 不審に思って彼が振り返った、その瞬間。

 彼の目の前に、木の皮の面をつけた、人型の〝何か〟が立っていた。感情の読めない、虚ろな二つの穴が、彼をじっと見つめている。


「ひっ……!」


 恐怖に引きつった彼の喉が、何か言葉を発する前に。

 横薙ぎに振るわれたナイフの銀閃が、彼の視界を赤く染め上げた。


 後日、この演習の生存者たちの間で、一つの噂が囁かれることになる。

 あの湿地帯には、人の姿をした、木の魔物がいる。

 それは、忍者みたいに音もなく現れて、気づいた時には、その首を狩られているのだ、と。

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