参 総仕上げ

【壱】

 家康包囲網に加わった島津義久を倒すべく、家康は本多正信、明智光秀を招いて軍議を開いた。

「島津義久を討とうと思うのだが、その前に目障りな奴らが幾人も儂の前に盾突いておる。その者たちをいかが・・・・・・」

 家康の言葉を遮り、正信が問うた。

「殿、少々お待ちを。光秀殿、宇喜多と毛利の屈服には失敗はいたしましたでしょうか」

「おお、そうであった。して、光秀。どうであった?」

「毛利は失敗しましたが、宇喜多は世の中の読める男でありました」

「年の若い者にしてはわかっておる男よの」

「ということは、備前、備中、備後は手に入ったと」

「そういうことになりますな」

「ではまず、毛利を屈服させる。それを足がかりとし、九州を攻める」

「では、儂の家臣である黒田官兵衛をお使いくだされ」

「ああ、毛利屈服失敗の汚名返上の好機とせよ」

「ははっ」

 軍議は順調に進んでいた。

「では、毛利を攻め滅ぼしたあと、秋月、鍋島、大友を倒し、島津を攻めると」

「そういうことじゃ」

 だが、一つ、正信が反論した。

「家康様、お待ち下さい。無駄に兵を死なせたくありません。ここは、降伏の遣いを差し向けて済むのであればそのほうが良いかと」

「なるほど。穏便に済ませられるところは穏便に済ませようということだな」

「御意」

「では、九州の全大名に降伏の遣いを差し向けよ。結果次第で、策はそれから考えることといたす。光秀が秋月、鍋島を、正信が大友を、それぞれ言って参れ」

「ははっ」

 秋月には光秀が、鍋島には官兵衛が行くこととした。

「秋月左兵衛尉種実殿、本領安堵にいたします故、家康様に従ってはくれないでしょうか」

「儂は城を枕に討ち死にする所存じゃ」

「そうでございますか・・・・・・では、御免」

 秋月はうまく行かなかった。

 最後の望みは官兵衛となった。

「鍋島加賀守直茂殿、本領安堵にいたします故、家康様に従ってはくれないでしょうか」

「確かに、鍋島では天下を狙うには力不足だな。よし、趨勢は決したぞ。権大納言殿に鍋島は徳川に従うととりなしてくれ」

「ありがたきお言葉にございます。これで私も、胸を張って家康様の元へ戻ることができまする」

 官兵衛は、鍋島直茂を降伏させることに成功した。

 大友宗麟は、正信が来るなり、これ以上無いもてなしをし、ご機嫌を取った。

「我が大友はの、一月に一回くらいの頻度で島津に侵攻されて、もう一大名として生きて行けぬやもしれぬ。ああ、誰か儂らを救ってはくださらんだろうか」

 宗麟は、正信の前で目を見て、あからさまに徳川家を頼るような態度を取った。というより、媚びた。

「・・・・・・であれば、本領安堵にいたします故、徳川家に従ってはくれないでしょうか」

「まことか」

 待っていましたとばかりに宗麟は話に食いついた。

「ええ」

「こちらの方こそお願いいたす」

「いいお返事がいただけました」

 帰る途中、光秀と官兵衛と正信は合流した。

「どうでしたか」

「儂は無理であった」

「秋月は名門ですからな」

「意地があるのでございましょう」

「大友はうまく行ったぞ」

「おお」

「流石でござる」

「光秀様には可哀想ではありますが、実は私も」

「鍋島もうまく行ったのか」

「官兵衛殿は流石だな」

「儂ごときの家臣として居るには惜しい才」

「何を申されるか」

「そういえば、宇都宮はどういたしますか」

「ああ、宇都宮鎮房のことでございますな」

「宇都宮鎮房とは誰じゃ?」

 光秀は、己の知らないことは早いうちに知っておきたいという性格である。そのため、当時珍しかった鉄砲も、最初は興味本位だったが、この頃は百発百中になるまで腕を上げていた。

「名門ということを掲げて領民に暴力を振るう大悪人でございます」

「名門らしくないな」

「本当にそうですな」

「だから今度、捕らえようと決心いたしました」

「それが良い」

「では早速、明日早朝にでもいたしましょうか」

 宇都宮鎮房は官兵衛にとって厄介者であった。領民に暴力を振るって、金銭を強奪するだけでなく、先月はついに黒田家に与えられた唐津城を乗っ取り、農民から年貢の搾取を行っていた。

 その鎮房を捕らえると言っているのだ。誰も反対するはずがなかった。むしろ、殺されても仕方がないと世間から疎まれていた。少なくとも、唐津城の領民は、今まで何回も一揆を企てていた。

「場合によっては殺すやもしれませぬが」

「それくらいやらねば奴もわからぬであろう」

「そうじゃそうじゃ」

「では、遠慮なく」

 鍋島直茂降伏の褒美として家康から光秀を介して福岡城を与えられていた官兵衛は、城に戻り、寝室に入り、考え事をした。

「宇都宮鎮房をなんとかしておびき出し、誰にも知られぬように殺すしか無い。だが、相手は名門の宇都宮家の系統。迂闊な殺し方をすれば、黒田の名は落ちる。それどころか、それを雇っている家康様にも悪評が立つ。それだけは避けねば」

 そこに、官兵衛の嫡男の長政が尋ねる。

「父上、何をそんなに考えておるのですか」

「宇都宮鎮房を殺したいのだ」

「前々から厄介者と言っていた、あの?」

「そうじゃ。なまじ名門ゆえ、迂闊な殺し方をすれば黒田の名がすたる。それだけは避けねばならぬ」

「では、攻め滅ぼせば良いではないですか」

「それがそうは行かぬのだ。奴が奪った城にはな、この福岡城よりも多い兵を派遣しておったのだ」

「攻め滅ぼすことは難しい。ですが・・・・・・例えば、正月に呼び寄せて、酒の席で酔ったところを始末する・・・・・・などどうでしょう?」

「そうか、それは良い。考えておらなんだわ。長政、ありがたい」

「もったいなきお言葉」

「奴を滅ぼしたら唐津の城は長政にくれてやる」

「ありがたき幸せ」

 長政は喜びながらその場を離れていった。

「だが、これが本題ではない・・・・・・」

 島津征伐、その前哨戦となる秋月征伐と毛利征伐も、官兵衛は忘れていなかった。

「いや、だがよく考えれば宇都宮鎮房征伐に成功すれば秋月征伐や毛利征伐に回せる兵も多くなるか。よし、まずは宇都宮鎮房征伐を成功させよう」

 官兵衛は、正月ではなくこの日の翌朝に手を回し、唐津城で偶然宴を催していた鎮房は殺された。鎮房にとどめを刺したのは、鎮房に福岡城から無理やり連れて行かれた栗山善助であった。唐津城は、再び官兵衛のものとなり、城は約束通り長政に与えられた。福岡城と唐津城の連合軍は秋月家の本拠地である立花山城を落とした。秋月種実は徳川家に降伏した。

 そして、種実を与力として、官兵衛は初めて総大将としての戦、毛利征伐を行った。最初の目的地は、毛利家の本拠地である吉田郡山城であった。

 その数、なんと四万。毛利軍も、一万弱の兵は用意していたが、それは種実が降伏しないことを前提とした話で、種実が降伏した今、毛利家の近辺に助けてくれる者はいなかった。

 援軍に出せるとしても、少し離れた月山富田城の五千である。だが、それを足しても官兵衛の軍には及ばなかった。

 しかも、毛利家が月山富田城と同じ五千の兵を置いていた福光城が、宇都宮、秋月を攻め滅ぼした徳川家の勢いに降伏したのだ。しかも、城主は毛利一門の吉川広家であった。

 広家は、吉田郡山城、月山富田城の両城から「裏切り者」と罵られ、父で月山富田城主の元春からも散々な誹謗中傷を受けた。

 だが、広家の寝返りが毛利征伐に重きをなした。これによって、月山富田城の五千は動けなくなり、結果、輝元は城を捨てて薩摩へ逃亡、月山富田城の吉川元春は、息子の仲介で徳川家に降伏した。

 このとき、月山富田城にいた小早川隆景は元春を説き伏せ、月山富田城を降伏させたことを家康から称賛され、官兵衛のとりなしによって、いち家臣はおろか伊予国の主となった。

 その頃、光秀は、親戚である筒井順慶の死に泣き崩れていた。

 島津義久は、秋月種実が降伏したと知り、激怒した。

「秋月種実め!あの大言壮語は何なのだ!自分の城を攻めた敵は必ずや撃退してみせるとまで豪語したくせして!」

 憤慨しだしたら島津一門で切腹するなどと言いかねないことを知っている弟の義弘は、兄を諌めた。

「怒ってもこの状況は変わりませぬ。しかも、秋月が降伏したということは北九州は全て徳川の手中に落ちたことになります。その上、この城を包囲する軍に毛利輝元殿がいるということは毛利がもたなかった証拠。毛利が落ちたということは、山城から西にいる徳川の敵は我らだけとなります。つまり、孤立無援なのです。降伏すれば悪いようにはせぬ、と福岡城の黒田殿も言っておられます故、降伏してもよろしいかと」

「会って殺されぬであろうか」

「黒田殿の言ったことが嘘であればまた盾突けばよいかと」

「それもそうだな」

「いかがいたしましょう」

「降伏する。だが、それを示すにはどうしたら良いだろうか」

「剃髪して、出家する意志を示してみては」

「名案だ」

 その直後、義久は剃髪し、降伏するとの書状を家康宛に出した。

 それを見た家康は仰天した。

「まさか島津が降伏するとは」

 その後、家康と義久は無二の親友となった。

 家康が着実に仲間を増やしているこの頃、徳川と北条の関係は既に破綻寸前であった。

 その北条は、徳川との関係を修復することなど最早考えていなかった。

 家康は、北条がその気なのを知ると大軍を率いて小田原城を攻め落とすことを決めた。それには、支城を落とすことが肝要だと感じ、幼馴染の北条氏勝が籠もる韮山城を攻めた。氏勝は、家康の大軍を見るなり勝てないと感じて降伏し、韮山城を明け渡した。

 当主は北条氏直であったが、北条の政治を牛耳っていたのは氏直の父の氏政だった。その氏政は、一門である氏勝が寝返ったことを知ると、大激怒した。

「一門を見捨て権力者に降るとは何事ぞ。皆の者!逆賊北条氏勝を討ち果たすのだ!」

「殿!」

「どうした、小太郎」

「箕輪城の北条安房守氏邦が徳川に降伏しました!」

「氏邦まで・・・・・・」

 上杉は既に徳川家に降伏していた。氏邦は、上杉景勝や直江兼続が率いる大軍に攻められ、氏邦も大軍を残して、その上で上杉の軍に合流して降伏した。

 その上杉軍には、連合軍として家康とは数々の戦で功を競ってきた前田利家が加わっていた。

「氏邦に氏勝・・・・・・裏切り者があふれるほどに出てきおる。開いた口が塞がらぬわ」

 氏勝や氏邦などの裏切り者が出てくる中、河越城の北条氏照は奮戦していた。だが、城内にいた大道寺一族の裏切りに遭い、河越城を追い出された。

「重臣である大道寺まで寝返った・・・これでは新参者など信用できなくなってくるわ」

「殿!」

「また裏切りか!」

「はい。今度は山中城の北条左馬之助氏規が」

「氏規が?・・・・・・そうか・・・・・・」

 氏政はもう誰も信用できなくなっていた。陸奥の南部信直、羽後の秋田実季、陸前の伊達政宗、出羽の最上義光、常陸の佐竹義重らは、既に徳川家に降伏していた。

「もう誰の援軍も望めぬのだな・・・・・・」

 北条氏政は、自分の気を落ち着かせようと連子窓に近づいた瞬間、連子窓を埋め尽くすほどの大軍がいた。その状況を見て、氏政はそろそろ諦めたほうが良いかもしれないと感じた。

「どれだけの大軍で来ておるのだ。徳川は」

 翌日、氏政は家康に降伏を申し入れた。

「小田原城だけは残してくださらぬだろうか」

「わかった」

「ありがとうございます」

「ただし」

「小田原城が残るなら何でもいたしましょうぞ」

「ほう。なんでもと申したな」

 家康はほくそ笑んだ。

 それに気づかなかったのは、氏政への災いとなった。

「ああ。男に二言はない」

「では、氏政殿、氏照と共に父親の元へ行くが良い」

「まさか」

「ちゃんと言わねばわからぬか。切腹じゃ」

「家康殿。気でも狂ったか」

「狂ってなどおらぬ。場をわきまえて、いたせ」

 場をわきまえていたせとは切腹を命じた相手に対しての家康の口癖である。

 翌日、氏政と氏照は小田原城内で切腹した。介錯は二人の弟で、家康の幼馴染である氏規が務めた。

 その時、津田信澄は、その生涯を閉じていた。

 慶長二年八月二十八日、室町御所で室町幕府第十五代将軍がその生涯を閉じようとしていた。

「義尋を呼んでくれ」

「ははっ」

「父上・・・・・・」

「まろはもう今日死ぬかもしれん。その前に言っておきたいことがある」

 義昭の嫡男である義尋はうつむいたままで話を聞いている。

「義尋よ。そこまでまろが見苦しいか」

 義尋は飲んでいた茶を吹き出した。図星だったのである。

「とにかく、まろの望みはただ一つ。明智光秀の討伐じゃ」

「明智・・・・・・光秀」

「ああ。まろに恩がありながら背いた逆賊じゃ」

「わかりました」

「頼んだぞ」

 義昭はそのまま息を引き取った。

「高次。高知。まずは光秀の暗殺を試せ」

「あ・・・・・・暗殺にございますか」

「それは・・・・・・」

「いかがした?」

「なんでもございません」

「ではとにかく行って参れ」

 室町御所を出た京極高次、高知兄弟は、光秀の暗殺にあまり乗り気ではなかった。

「無理なこと言われるよな。義尋様」

「うむ。家臣にも喧嘩腰だしな」

「もうこの際幕臣辞めるか」

「おお!それは良い」

「では儂は徳川様の家臣である今川氏真様と仲が良い。氏真様にとりなしてもらおう」

「頼みましたぞ。兄者」

 駿府城に入った高次は、氏真に徳川家の家臣になりたいと伝えると、家康様にとりなしてみるという話になった。

 そこに高次の同僚であった光秀が合流し、氏真と光秀のとりなしで、徳川家の中でもそれなりに高い位で仕えることができた。

「流石氏真殿と、光秀殿。お話が早い」

 無事、京極高次、高知兄弟は徳川家の家臣となった。

 この頃、家康の天下統一は殆ど完成した。

 あとは室町御所のみとなった。光秀は一万の兵を率いて松尾山に陣を敷いた。これは義尋に対する、我が首欲しくばとってみよとの挑発である。

 義尋は単細胞な人間である。室町御所にいる十万の兵を全部光秀殲滅に仕向けた。

 この状況に流石に一万に十万は勝ち目がないと感じた家康は、井伊直政、本多忠勝、榊原康政と共に五万の兵を引き連れて援軍へと向かった。

 だが、時、既に遅し。家康の援軍が到着した頃には光秀の軍は壊滅していた。

 家康は、義尋の軍九万に総攻撃を仕掛けられ、五千の損害を出した。

「家康様、九万対四万五千、勝ち目はありませぬ」

「殉死してくれるか」

「は?」

「まさか・・・・・・切腹する気では」

「うむ・・・・・・場合によってはな」

 松尾山に陣を敷いた家康は、義尋の軍に虫の通る穴なく囲まれていた。

「最早これまでか」

 家康は短刀を握った。それを腹に突きつけようとしたその時であった。

 今まで足利義昭・義尋親子の悪政に苦しめられた領民、無理やり信長包囲網に参加させられた本願寺の僧侶、義尋の暴力に耐えかねた幕臣とその軍、計十万を超える軍勢を率いた光秀が足利の部隊に突撃した。足利軍は慌てふためき、逃亡する者まで出た。そこに光秀はつけ込んだ。

 そこで、裏切り者が出たぞと名指しをせずに叫んだのだ。足利軍の兵たちは互いを疑い、同士討ちをしだした。そこを光秀の軍と家康の軍が挟み撃ちにしたのだ。足利軍は容易く崩壊した。明智軍、徳川軍両方合わせて二万の被害しか出さなかったが、足利軍は十万の兵が殆ど全滅した。

 義尋は室町御所に火を放って逃亡した。旧幕臣であった三淵光行、真木島昭光は関ヶ原での獅子奮迅の活躍を敵ながら高く評価され、徳川家に登用された。

「家康様、帝からの使者がいらっしゃいました」

「帝から?身に覚えはないぞ」

 家康は帝からの使者、山科言経に会いに行った。言経は、もともと家康の家臣であったが、朝廷で帝のもとで働く身となった。

「家康様、お久しゅうございます」

「久しぶりじゃな、言経。帝が儂にということじゃが何用だ?朝敵になるようなことをした覚えは無いのだが」

「家康様、お喜びくだされ」

 言経は咳払いをして続けた。

「世に安寧をもたらしてくれたことを帝は大層お喜びじゃ。それ故、家康様を征夷大将軍に任命いたすとの由」

「儂を征夷大将軍に・・・」

「お受けなさるか」

「お受けいたす」

「では、どこに幕府を開くかを考えておいてくだされ」

「それならもう決まっている」

「ほう」

「江戸じゃ」

「江戸?」

「かの太田備中守道灌殿が江戸城を建てたあの江戸じゃ」

「何故江戸なのじゃ」

「武蔵国の江戸周辺は今はもう荒れておる。それを少しでも復興するため、本拠地にする。その本拠地を、幕府の本拠地ともしたいのだ」

「では、今日から家康様は江戸幕府初代征夷大将軍徳川家康でおじゃる。これからも世の安寧の為、帝のために粉骨砕身働いてもらいたい」

「ははっ」

 家康が幕府を開いた。それに対し、多くの家臣が喜ぶ中、面白く思わない者もいた。

 羽柴秀吉の遺児、羽柴秀頼である。

 一年後、賤ヶ岳の戦い以降光秀の軍師として活躍した天才軍師黒田官兵衛は、その生涯を閉じた。

 家康は、年頭の挨拶に秀頼のみが来ないことを疑問に思い、羽柴家は徳川家に盾突くと感じた。

 そのため、何か布石がほしいと感じた。

 家康は正信と光秀を呼び寄せた。

「何でござろうか」

「羽柴を滅ぼしたい。そのための布石がほしいのじゃ」

「なるほど」

 今や、光秀と正信は、軍略や調略が得意、かつ考えることが似ていたため、馬が合ったところから今では徳川家臣団の中で無二の親友となった。

「まず、正信はどう思う」

「典型的な謀反の疑いがよろしいかと」

「なるほど。では、光秀はどう思う」

「は。家康様、方広寺の鐘が秀頼によって再建されたことはご存知でしょうか」

「ああ。知っておるぞ」

「その方向時の鐘に『国家安康 君臣豊楽』という刻印があるのはご存知でしょうか」

「知っておるが、それが何だと言うのだ」

「それを布石にするのです」

「いかようにしてだ?」

 光秀の言うことがわからない家康と正信が口を揃えて問うた。

「国家安康は、家康様の家と康の字を切り裂いておりまする。某、姓名学というものの中に名の文字を切り裂いて入っている四字熟語は不吉、場合によっては呪縛にもなると」

「羽柴が儂を呪おうとしていると」

「しかも、羽柴は近頃朝廷から豊臣という姓を授かったそうにございます」

「豊臣とな」

「君臣豊楽にはその豊臣の字が入っておりまする。しかも、あとに続く文字は楽という字。豊臣が君主として繁栄し、徳川を呪い滅ぼそうとしているという魂胆ではないかという言いがかりをつけるのはどうか」

「よくできておるし、一理ある」

「姓名学というのがそれらしいですな」

「では後日、大坂城まで行って参る」

 これによって、豊臣と徳川の間に亀裂が入ることとなる。


【弐】

 豊臣家臣の大野治長が、慌てふためいて大坂城の天守閣に走り込んできた。

「秀頼様、駿河から徳川家康殿が参りました」

「それがどうしたのだ」

「は?」

「会えば良いのだろう?」

 秀頼は会見場所を大坂城近くの方広寺をとした。

「おお、秀頼殿。久しゅうござるな。徳川権大納言家康じゃ」

「久しゅうございます。豊臣右大臣秀頼にございます」

「儂がなんのためにここに来たかわかっておるか」

「わかりませぬ」

「お主に苛立ったからだ」

「何か無礼をいたしましたでしょうか」

「ここの鐘だ」

「鐘が何か」

 秀頼には訳がわからなかった。別に父親が造った寺を再建しただけなのだ。確かに、豊臣家が他大名に何も言わずに再建したことはまずかった。だが、それだからといって自分だけに苛立ったのには納得がいかなかった。

 秀頼が鐘がどうかしたのかというのも無理はなかった。

「『国家安康 君臣豊楽』」

「・・・・・・それが何か?」

 秀頼はますます訳がわからなくなった。国家安康、君臣豊楽は縁起の良い四字熟語だと思っていた。それに言いがかりをつけられたことに秀頼は家康に対して少々怒りを覚えた。

「これは豊臣が君主として繁栄し、徳川を呪い、滅ぼそうとする意思表示じゃな」

「そんなことは」

「儂はそう取ったのだ。豊臣を許さぬ」

「お待ち下さい」

「引き止めても無駄だ」

 怒った様子で家康は方広寺の会見場所から出ていった。秀頼は呆れた様子で大坂城に戻った。

 その頃、家康は江戸城に戻り、寝室に入った。

「光秀と正信が言ったようにやったが、あそこまで言わなくても良かったのでは・・・・・・」

 家康は酒を飲みながら考えた。

「今、あそこまで言わなくても良かったのでは・・・・・・なんて思ってたんじゃないですか」

「そう思うのはまだ豊臣を滅ぼす覚悟が無い証」

 家康は飲んでいた酒を吹き出した。

「ば・・・馬鹿なことを言うでないわ」

 家康は必死にごまかしたが、光秀と正信の前には通用しなかった。

「本当は思っていたのでしょう?」

「・・・・・・」

「そんなことを思われてはなりませぬ」

「しかしだな・・・・・・」

「滅ぼす相手を思うはその相手に滅ぼされかねませぬ」

「豊臣には非情な者として接しろと言うわけか」

「そういうことでございます」

 家康は二人の言っていることに驚いた。実を言うと、豊臣は滅ぼしたいわけではなかった。自分に盾突きそうだから、親が子供に説教をするように、少し処罰をしたいだけだった。臣従すると豊臣が決めれば、滅ぼすつもりなどさらさら無いのだ。

「豊臣を滅ぼしたいと言ったのは家康様でございますぞ」

 家康は光秀と正信の説得に納得した。

「では、続けてくださいますな」

「うむ・・・・・・」

「では」

 光秀と正信が寝室から出ていくと、家康は胸をなでおろした。

 これからは豊臣に対して優しく接してはならないと自分の中で強く戒めた。

「豊臣を敵に回した以上、非情な者として接するしか無いのだな」

 家康はとうとう覚悟を決めた。

 家康は、自分のような老いぼれが幕府の将軍でいるうちは、幕府は若々しくならず、活性化しないと感じ、子供の中で一番生きた年数が長い、つまり、武士の頂点に立つ男としての経験値を一番持っている次男の秀康に将軍職を譲り、自身は大御所となった。

 家臣からも、家康様ではなく大御所様と呼ばれるようになった。

 だが、政治の実権は秀康にはなく、大御所である家康が、大御所政治と言って実権を握っていた。

 秀康は表向きは家康の言うことに従っている形ではあったが、実際は家康に対してものすごい不満があった。

 だが、秀康は継いで四年後の慶長十二年に、三十四という短い生涯を終えた。

 家康は秀康が自分より早死にしたことを深く悲しんだ。家康は、豊臣を滅ぼす合戦を、子の弔い合戦と決め、そのことを幕臣たちに宣言した。

 秀康の跡を継いだのは、その息子の松平忠直であった。家康は、徳川将軍家の名字は「徳川」に統一する、と既に決めていたため、忠直は徳川忠直に改名した。

 祖父の家康が大坂に出陣すると決めたときは、家康は徳川家の大将として、忠直は豊臣以外の全大名を率いるという形で武家の大将として出陣する形を取ることとした。

「爺様」

「忠直か。何だ」

「出羽の最上義光が豊臣の徹底抗戦を見たからか山形城に籠もり、謀反の意を示しました」

「そうか。大坂の方は儂がなんとかする。その間に義光を征伐せよ」

「わかりました」

 翌日、忠直は本軍二万、秋田藩の佐竹義宣一万、米沢藩の上杉景勝一万、仙台藩の伊達政宗一万の連合軍約五万を連れて山形城を包囲した。

 早めに戦を終わらせ、大坂に援軍に行きたかった忠直は、お抱えの商人に山形城の兵糧を全て買い占めさせた。

 足軽は商人の出した大金に目がくらんだ。忠直の狙い通り、米蔵はたちまちにして空になった。

 義光は足軽から話を聞き呆れた。しかも、籠城を始めてから売ってしまったのだ。その足軽は救いようがなかった。

 義光は幕府に降伏し、最上家は改易、義光は切腹となり、これによって山形藩の藩主は代々明智家が継ぐこととなった。

 だが、義光の子が幕府に逆恨みをした。

 山野辺義忠、最上家親、清水義親である。

 義忠は黒田官兵衛の子である長政が治める福岡藩の支藩の中津藩の中津城を乗っ取った。同じように、家親が尾張徳川家の岡崎城を、義親が山形藩の尾浦城を、それぞれ乗っ取った。

 義忠には官兵衛の嫡男の長政が、家親には家康の十男である義直が、義親には光秀の養子である秀満が、それぞれ鎮圧に向かった。

 その頃、大坂城では、大規模な戦が起きていた。

 豊臣秀頼についていった者は数えるほどしかいなかった。

 石田三成、長束正家、増田長盛、前田玄以の息子の茂勝、豊臣秀次、小早川秀秋だけであった。

 しかも、三成、正家、長盛、茂勝を合わせても二万もいなかった。秀次と秀秋も、それぞれ二万程しかいなかった。秀頼の本軍も、二万がいいところであった。

 豊臣方の兵は八万、徳川方の兵は十万である。

 だが、意外に城はよく耐えた。

 三成は槍働きが苦手な中、二千の兵を連れて命がけの突撃、徳川の兵に一万五千と大損害を与えた。

 正家、長盛、茂勝などの諸将も、三成が与えた損害と合わせて五万の被害を与えた。

「これでは埒が明かぬ」

 家康を冬の寒気が襲った。

 だが、もう一つ、別の寒気も家康を襲った。

 家康を襲った寒気は、冬の寒気だけではなかった。

 諸大名のことである。ここで豊臣を捻り潰すくらいでないと、大名の一つや二つ、最上義光のように反乱を起こしかねないのだ。

 そんな中、家康のもとに一つの知らせが届いた。

「そうか。長政が義忠を屈服させたか」

 山野辺義忠は、中津藩の城の中津城を乗っ取り、長く持ちこたえていたが、ついに降伏した。

 長政は、父譲りの頭を使って義忠を二度と反乱を起こせないような社会的信用度にした。義忠は、こうなるくらいならと中津藩で働かせてくれと長政本人に直接掛け合った。

 長政は、義忠が反乱軍として長く持ちこたえていたことを羨ましく思った。福岡藩にも中津藩にも、辛抱、忍耐ができる者が殆どいなかった。そのため、冷静に物事を判断できる者も少なかった。

 そのため、義忠を貴重な人材と思い、中津藩で働かせるどころか、親戚に仕立て上げて中津藩の藩主にまでしてしまった。

「大御所様」

 徳川家の重臣の井伊直政の子、直孝が報告に来た。

「どうした」

「明智秀満殿が清水義親を降伏させました」

「残るは最上家親か」

「そうなりますな」

「家親・・・・・・孤立無援の状態でどこまで耐えきれるかの。だが、義直。戦に強かったはずなのだがな」

「そうですね。家康様が直々に刀の稽古をしていましたからな」

「どういう迎撃の仕方をしているのだろうか」

「は。最上家親、少々下品らしいので」

「下品とな」

「は。己のした糞尿を迎撃のときに投げつけているとか」

「なるほど。義直も苦戦するわけじゃ」

「ここが片付くまでになんとかならないでしょうか」

「だな。して、今、豊臣の方はどうなっておる」

「は。なかなか落ちませぬ」

「であろうな。・・・・・・そうじゃ、わかった。堀を埋めてしまおう」

「そんなことができるはずが・・・・・・」

「なに、一度和睦して、その条件として提示すればよいのじゃ」

「なるほど」

「それには、敵将たちが条件を飲むように怖がらせなければならぬ。よし、大坂城の天守閣に向かって鉄砲と大砲を撃ちまくれ!」

 家康の作戦は、面白いほどうまくいった。戦をあまり経験していない秀頼はおろか、三成や正家などが震え、秀頼に避難を進言したほどだった。

 秀頼はそれでも強気で行こうとしたが、秀頼の母である淀が鉄砲と大砲の音に驚き、どういう和睦の条件でも飲めと、家康の思惑通りにことが進んだ。

 家康は、和睦の条件として、「徳川が外堀を、豊臣が内堀を埋める」という条件を提示した。

 淀は、この条件も秀頼や三成たちに了承を得ず、勝手に飲み、勝手に和睦を結んでしまった。

 淀は、大坂城に戻ったら、秀頼に一時的な謹慎を命じられた。淀はそれを恨み、三成と正家を侍女に命じて暗殺した。

 秀頼はこれに大激怒し、淀に切腹を命じた。

 これに対し、長盛と茂勝は秀頼に呆れ、説教をした。

「母親を切腹させるとは何事であるか」

「では、許せばいつまでも制限なく好き勝手にやるぞ。そんなことを許しても良いのか」

「それでもせめて助命は」

「助命も儂の中では許すことと一緒だ。助命は最初から考えておらぬ」

「貴方様には呆れました」

「勝手に呆れるが良い」

 この夜、長盛と茂勝は大坂城を抜け出し、徳川家康の本陣まで行き、寝返りの意を示した。

 翌朝、侍女から話を聞いて秀頼は唖然とした。

「何!?長盛と茂勝が徳川に寝返っただと!?」

「はい」

「おのれ。まさか最近儂に反対意見ばかり述べてきたのは豊臣を内部から破滅に導こうという魂胆だな。最終決戦になったらせめてあの逆賊二人は討ち取ってやる」

「お待ち下さい秀頼様、最終決戦も何も家臣がいないのでは軍も統制できないではありませんか」

「何を言う。家臣がいなければこそ、軍を自分の一存で動かすことができる。そのほうが儂の戦い方には合っているのだ」

「わかりました」

 侍女は、それ以上何も言わなかった。

 外堀を埋めた徳川軍は、まだ内堀が埋められていないことに気づき、内堀まで埋め、大坂城を裸城にしてしまった。

 それを聞いた秀頼は、討って出ることにした。

 それでも、秀頼は軍を集めようと必死だった。その結果、秀頼は七万の軍勢を集めた。

 だが、徳川方はそれを遥かに超える十五万の軍勢を用意した。完全に豊臣を捻り潰す用意は整っていた。

 秀頼は討って出た。だが、もともと戦の得意でない秀頼である。最初から徳川方に足軽一万を討ち取られた。

 それに恐怖を覚えた足軽たちは、次々に徳川に付こうと必死になり、同士討ちを始めてしまった。

 その惨状を見た秀頼は、隊形を整えるために大坂城まで退くことを決めたが、時、既に遅し。光秀と正信の軍勢に回り込まれ、完全に包囲されていた。

 それでも必死に豊臣方として戦う足軽と、徳川方に寝返ってしまう足軽、武器も鎧も捨てて逃亡する足軽と様々に分かれ、ついに豊臣の軍勢は一万となってしまった。

 それに対して徳川方は豊臣から寝返った足軽を含めて十七万。完全に勝ち目は無くなってしまった。

 徳川と折りの合わない秀頼である。徳川にだけは従いたくないという思いがどこかにあった。

 そんなときに、家康が交渉を持ちかけてきた。

「貴殿と拙者は姻戚でござれば、決して悪いようにはいたしませぬ。どうじゃ。この徳川将軍家に仕えてはくれませぬか」

 家康と秀頼は義理の祖父と孫の関係であった。家康の孫である千姫が、秀頼の妻である。

 家康は、少しでも交渉がうまくいくように、下手に出た。だが、秀頼は家康の言うことに聞く耳を持たなかった。

「お心遣いありがたく存じますが、こうなってしまえば姻戚などということは関係ない。それに、この豊臣秀頼には徳川家康ごときに垂れるこうべなど持っておらぬ。そこまで豊臣を従わせたいのなら我が軍を殲滅し、大坂城を落としてみせよ」

「秀頼殿がそこまでの頑固者だったとは思いませなんだ。よし、こうなったら全軍で秀頼の軍勢を殲滅してしまえ!秀頼の首を持ってきたものには十分な褒美を取らす!」

 この言葉に、足軽たちの頭に血がのぼった。

「十分な褒美・・・・・・」

「秀頼の首か」

 足軽たちの目当ては戦で勲功を立てて褒美を貰うことである。別に自分の取った首が誰の首だったかなど、戦が終わってしまえば忘れてしまうのだ。

 そのため、家康は足軽たちが全力で攻撃を仕掛けられるような言葉を使って足軽たちを煽り、秀頼殲滅を謀った。

 秀頼は、足軽たちが自軍に全力で突撃してきたことに驚いた。まさか優勢な方が死ぬ気で来るとは思っていなかったからである。

「支えよ、支えよ」

 だが、全力で突撃を喰らった足軽に、そんな言葉は聞こえなかった。

 そんなとき秀頼が、逃げ出そうとする足軽一人を斬った。

「うぎゃあああああ」

 その悲鳴を聞いて、秀頼が斬ったなどと想像する者は誰一人としていなかった。

「徳川の兵か」

「もう、一隊が破られたのか」

 何しろ、兵力差が五倍近くあるのである。そう考えるのもしょうがなかった。

 これによって大混乱に陥った豊臣軍は、本陣前ががら空きとなってしまった。

 本陣に突撃され、秀頼は首を掻き斬られた。首を斬ったのは、明智光秀の娘婿である、明智秀満であった。明智秀満は、これを家康から直々に高く評価され、宇和島藩の藩主となった。

 豊臣秀次は徳川家の軍事力に恐れ臣従し、小早川秀秋は秀次と小早川隆景の必死の説得でついに徳川家への臣従を決めた。

 これによって、大名としての豊臣家は滅亡した。

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