第二十一話 水底の眠り、怠惰の影

 空気が変わったのは、東の国境へ向かう街道を抜けたあたりだった。


 草木は湿り気を帯び、遠くの山脈から流れ落ちる水音が耳を打つ。


 ルクスは、やや足取りを緩めながら地図を見やった。


「この先にあるのが……“湖の廃都”か。」


 湿原に沈むようにして建てられたかつての街。かつては水運と交易の要所だったが、ある日を境にすべてが沈んだ。


 いまは探索者たちの間で“水底の迷宮”と呼ばれている。


「廃都に《原初スキル:|怠惰(スロウス)》が眠ってる可能性があるんだよね?」


 レアが隣で問いかける。

 彼女の視線は、草の間に見え隠れする人工の石畳に向けられていた。


「仮面の導師が言っていた。“怠惰”の気配は水の底にある、と。……まあ、普通に探しても見つからないだろうな。」


 二人は歩を進め、やがて霧が立ち込める湖畔へと辿り着いた。


 廃都は、まるで水底に吸い込まれるように、沈黙していた。


 レンガ造りの建物の輪郭が、湖面下にぼんやりと浮かんでいる。


「……不気味なくらい静か。」


「ここで、何があったんだろうな。」


 そんな時だった。


 水面が不自然に波打った。


 ゴボ、ゴボ、と泡が弾け、水底から何かが浮かび上がる。


「……っ! 魔物か――?」


 構えかけたルクスの前で、水から現れたのは――人影だった。


 ぬらりと濡れた髪、ぼんやりとした瞳。

 全身から冷気のような魔力が漂っている。


 まるで“眠ったまま歩く”人形のようだった。


「う、動いてる……でも、生きてる感じがしない……!」


 レアの声が震える。

 だがその人影は、二人に目もくれず、廃都の奥へとゆっくり歩き出した。


「……追おう。あいつが、何かを知ってるかもしれない。」


 湖畔を抜け、二人は廃都へと足を踏み入れる。


 湿った石畳、崩れたアーチ、苔に覆われた噴水――そのすべてが、時間の流れを止めたようだった。


 そして、中央広場の遺跡に辿り着いたとき。


「いた……!」


 先ほどの人影が、中央の台座に跪くようにして座っていた。


 そして、その手のひらに――黒く揺らめく魔力が渦を巻いていた。


「……間違いない。あれが、《原初スキル:怠惰(スロウス)》の気配だ。」


 ルクスの声が低くなる。


 次の継承者――怠惰の使い手は、今まさに“目覚めよう”としていた。


 中央の台座で黒く渦巻く魔力は、まるで眠気のように意識を蝕む。


 ルクスが眉をひそめた瞬間、背後のレアが足を取られて膝をついた。


「く……な、にこれ……体が……重い……っ。」


 空気そのものが、鉛のように圧し掛かっていた。

 何かが、この空間全体に“怠惰”を撒き散らしている。


 その中心にいる青年――もとい、“怠惰の継承者”が、ゆっくりと顔を上げた。


 その表情には感情の色がなく、瞳の奥に灯るのはどこまでも虚ろな闇。


「……うるさい。……静かに、してくれ。」


 まるで夢の中で話すような、気だるげな声。


 次の瞬間、床下から何本もの黒い影が這い出してきた。


「影の触手……! この空間そのものがスキルの影響下にあるってことか……!」


 ルクスは即座に《怒気解放ブレイズギア》を展開し、怒りの魔力で脚を強化すると、レアを抱えて跳び退いた。


 が、その一瞬の動作ですら身体にのしかかる倦怠感が苛立ちを呼ぶ。


 ……これが、《原初スキル:怠惰》……。

 重力でも毒でもねぇ。

 感情を削ぐ“無力感”そのものだ。


「お願い、目を覚まして……!」


 レアが叫ぶが、継承者の青年はただ微かに首を横に振った。


「ぼくは……もう、戦いたくない。傷つけたくも、傷つけられたくもない。……だから、眠ってるだけでいいんだ。」


 その言葉に、ルクスの奥底で何かが反応する。


「……“逃げてるだけ”だろ、それ。」


 その声に、影がざわついた。

 まるで怒りでも悲しみでもない、感情なき否定の波。


「痛ぇよな。裏切られて、絶望して……何もかも嫌になって。それでも……俺は、お前の気持ち、少しだけ分かる。」


 拳を握り、炎を纏う。


「でもな、それでも俺は止まらねえ。怒りが、前に進ませてくれるからだ。」


 拳が黒い影を穿つ。《赫ノ牙》が、眠気の帳を破る。


「だから立てよ、継承者。……それでも歩くって、選ばなきゃならねえんだろ!」


 炸裂する怒りの一撃。


 その光の中心で、青年の身体がぐらりと傾いた。


 ──そして。


「……本当に、君って人は……めんどくさいな。」


 かすかな笑みを浮かべながら、怠惰の継承者が立ち上がる。

 その顔には、どこか懐かしみを覚えているような気がした。


「でも……たしかに、怒りってやつは、心を揺さぶる力がある。」


 黒い魔力が霧散し、重苦しい空気が嘘のように晴れていく。


 湖底に漂っていた空間の魔力が解放され、夜明けの風が吹き込んできた。


「……眠ってばかりも、悪くないけどさ。たまには、こうやって目を覚ますのもいいかもね。」


 そう言った継承者は、ゆっくりと背を向けた。


「“怠惰”は、ここに置いていく。……僕は、もう少し、自分で考えてみるよ。」


 その背が、再び湖の奥へと消えていく。


 ルクスは黙って見送った。


 そこにあるのは、勝ち負けではない。

 怒りで眠りを破ったこと、そして再び“歩き出そう”としたこと。


 それこそが、今回の答えだった。


「カイ……。」


 レアが、どこか嬉しそうに微笑んだ。


「怒りって、伝わるんだね。」


「ああ。伝えたかったのは、拳だけじゃねえ。俺の……覚悟だ。」


 二人の背後、湖の水面が静かに揺れていた。

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