第二章 第一話
寮の自室で身支度をしながら、
掃除や洗濯などの雑務にはずいぶんと慣れてきたが、今日は新しい仕事が始まる。ついに宿を訪ねてきたお客さんの相手を任されることになっているのだ。
昨日は
しかし、ここは普通の宿とは違う。
お客さんの心残りを晴らし、安心して黄泉の国に旅立ってもらわなくてはならない。心残りというものは人それぞれだ。
慣れるまでは誰かが付き添ってくれないかと思ったが、あいにくしばらく宿は満杯で、手が空きそうな人はいなかった。「数をこなすしかない」という兆司からの励ましを受け、ひとり立ちすることになったのだ。
なんて無茶苦茶なと最初は感じたものの、結局は
その人がどんな心残りを抱えているのかは、宿に来て話してみなければわからない。ひとりひとりに向き合って、その都度解決策を探していくしかないのだろう。
そして、心残りを晴らすことがこの宿の最大の目的である以上、それができるようにならなくては、いつまで経っても一人前にはなれない。
不安はあるが、自分なりにできることをやっていこう。
廊下を雑巾でピカピカに磨き上げ、玄関から外の掃き掃除とてきぱきとこなしていく。
昨夜から宿泊していたお客さんがいなくなった部屋を片付け、干したての布団に交換する。
「忘れてること、ないかな」
部屋をぐるりと見渡しながら、抜けているところがないか確認する。
すると、入り口のほうから声をかけられた。
「手ぬぐいも、替えた?」
驚きながら振り返ると
「うん。新しいのにしたよ」
「そう。掃除も綺麗に行き届いてるし、問題なさそうだね」
「何かあったら声かけて。まあ、忙しくてそれどころじゃないかもしれないけど」
それだけ言い残して、さっさとどこかへ行こうとする。
「もしかして、それを言いに来てくれたの?」
何か用事があったのかと思ったけど、様子を見にきてくれたのだろうか。
「まあ、そうだけど……困った時は誰か頼って。ひとりで抱えて問題が大きくなるよりいいから。頼るの、俺じゃなくてもいいし」
「うん、ありがとう」
笑顔で言うと、
ここで働き始めた日、
「どうしたの? ぴーすけ」
ぴーすけは
ぴーすけは
「お客さんさんダヨ、お客さんさんダヨ」
受付にいる
ついに、初めて自分で担当するお客さんが来たのだ。
「わかった。すぐ行く」
門の前には、人の気配がなかった。
どうやらまだお客さんは到着していないようだ。ほっと息を吐き、はやる鼓動を落ち着ける。
門から数メートルの距離を取って立ち、静かにその時を待つ。
すると、門の脇にぶら下がっている風鈴が、ちりんと音を立てた。この風鈴が鳴るのは風が吹いているからではなく、お客さんが来る合図だ。
まもなくして、門の内側がパッと輝いた。門の柱で囲われているところから光が溢れ出し、まるで光の窓ができたように見える。
その光の中から、ひとりの青年が敷地内に足を踏み入れた。歳は
「ようこそ、夜見之屋へ」
昨日、
「
担当する顧客情報は、今朝のうちに頭に入れてあった。
しかし、名前を呼ばれても、
焦らずに待っていると、やがて
「あれ……僕、死んだはずじゃ……」
「ここはお客さまが黄泉の国へ向かう前に立ち寄る旅館です」
意識がしっかりとした後、自分がこの宿にいることへの反応は様々だ。
夢だと思い込み信じない人。
元の場所へ帰してほしいと強く訴える人。
「黄泉の国へ……そっか、そうか」
一人ごとのように呟き、納得したように頷いた。
「お部屋にご案内しますね」
そう声をかけて歩き出すと、
特に荷物があるわけでもないので、
座卓に淹れたての桜茶を置いてすすめると、はにかみながらお礼を言って口を付けた。
「おいしい……」
なんとも穏やかな印象だけれど、
「お客さま」と声をかけると、
「当旅館は少し特別でして、宿に訪ねてくるのは何かしら心残りがあるお客さまなんです」
「心残り……?」
佳月はその意味を噛み砕くようにゆっくりと繰り返しながら、小首を傾げた。
「はい。わたしたちはその心残りを解消して、お客さまが安心して黄泉の国へ旅立てるようにお手伝いをさせていただければと思っています」
「ああ、それで僕もこの宿に来たんですね……でも、心残りかぁ。そう言われても、何も思い当たることがないんですよね」
「どんなことでも構いませんので、何かありませんか?」
「うーん……ごめんなさい、思いつかないです」
「では、最期に会いたい人はいませんか?」
お客さんからの要望で最も多いものは、最期に会って話がしたい人がいるというものだ。
「会いたい人がいれば、この宿に呼ぶこともできます」
ただし、呼べる人には制約がある。
「今、生きている方しかお招きはできないのですが……」
「せっかくですが、会いたい人も特にいません。両親は先に旅立ってしまいましたし、友人も疎遠になった人ばかりで」
「では、何かやり残したことはないですか?」
もっともここで叶えられる心残りは限られている。
基本的に、宿とこの島の中でできることしか叶えられない。現世にあるどこどこに行ってみたかったというような心残りは実現できないのだ。
それでも、こうしたやり取りから何かしらの手がかりが掴めるかもしれない。
「やっぱり、思いつかないですね」
これは、困った。
温厚そうなお客さんで、初めての接客にはありがたいだなんて思っていたけれど、なかなか手強そうだ。心残りに自覚がないとなると、まずはそれを引き出さなくてはならない。
この宿に来る人は、何かしら心残りがある。そして、
とはいえ、そんな恐がらせるような話をお客さんに伝えることはできない。
どうしたものかと考えていると、
「少しゆっくり考えてみます。あ、このお菓子いただいてもいいですか?」
「もちろんです。どうぞ」
何も知らず吞気な
竹串が皿にかつんと当たった音がした。
「あっ……」
「どうかしましたか?」
雷を受けたかのように硬直している
「そういえば、ありました。心残り」
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