第29話 元凶
「家にいたのに……気づかなかった……音楽をイヤフォンで聴いていたから。鍵を壊して誰かが入ってきたことにも。恐らく叫び続けたであろう大事な妹の声にも……気づけなかった……家にいたのに、何も出来なかった。助けられなかった……大切なたったひとりの妹を、宝物だったあの子を、翼を、私が、殺したの……」
「………………」
何も、言えなかった。
これが、大庭の抱える闇――。
異常なまでの〈妹〉への執着心の、正体――。
それらはすべて、救えなかったことへの、無力な過去の自分への戒めとなって、未だに大庭を蝕み続けているのだろう。
リビングに降りて来て、大好きな妹があまりにも変わり果てた姿で横たわっているのを見たときの大庭の気持ちには――なれそうもない。そこから全ての男と、そして無力すぎた自分自身とを憎み続けているのか。
あまりにも壮絶な告白に、顔を背けようとしたその時、
「……梓ちゃん……辛かったね……悲しかったね……だけど……どうか……自分を……責めないで……」
桜絵の頬を静かに涙が伝った。その光景に、胸がざわめいた。
ぎゅっという音が聞こえてきそうなくらい、桜絵は大庭を強く抱きしめている。頬には次々と涙の跡を残して。
まさか――いや、そんなはずはない――そんな――。
「あなたのせいじゃないよ……決して、あなたのせいじゃない……」
大庭の手が下ろされ、ナイフが地面に置かれた。力が抜けたのだろう。金属がコンクリートに触れる音は、オレに過った馬鹿げた考えを、すぐに消し去った。だが、泣いている。桜絵みくは、瞳から絶え間なく涙を零している。胸に拳を置く。心臓の音が全身に響いてくるかのようだった。息を大きく吸い、静かに吐いた。
落ち着け、オレ。ナイフを奪う絶好のチャンスだ。そうだ。今は目の前のやるべきことをやるんだ――。
必ず、桜絵を、そして大庭を死なせない。前を見据える。
「ありがとう。私なんかのために、泣いてくれて……」
大庭は、背後まであと一歩というオレには、気づいていないようだった。ずっとこちらに背中を向けている。
「だって……だって、そんなの、梓ちゃん……悲しすぎるよ。辛すぎるよ……」
大庭がそっと桜絵の髪を撫でた。
「ああ、よかった。貴女は間に合って……」
陽だまりを見つけた人のような声だった。やわらかくて、あたたかな――。
「まにあって?」
桜絵が瞳をぱちくりと開く。大庭はまだ桜絵の髪に触れている。
「ええ。だって貴女は、とっても、良いにおいがするもの」
「……におい?」
「ええ。とってもやわらかくて、あたたかいミルクのにおいよ。包まれているだけで、幸せになれるの。男に……あの悪魔のような下等生物に。侵されていない、証しよ」
陶酔した声だった。ミルクのにおい――異性を意識する以前の女児が放つ、乳臭さのようなものだろうか。考えながら、そっと手を伸ばす。あと少し。あと少しで、ナイフに手が届く。大庭の桜絵を撫でる手が、止まった。
「そして、私はそのにおいを、必ず守らなければ」
背後を――
「ならないの!」
振り返る。その表情で理解した。
気づいてなかったんじゃない。気づかないふりをしていたのだ――と。
それでも、チャンスには違いない。迷いを断ち切るようにして、ナイフを掴むことだけに集中する。ナイフの柄に触れ、握り込んだ瞬間、
「ぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!!!!」
獣の咆哮かと見紛う声量で、オレの動きを牽制した。かと思うと、ナイフに触れたオレの手を無遠慮に踏みつける。
「やめて! 梓ちゃん!! お願い!!! お願いだから! やめて!!」
桜絵が叫ぶが、大庭はまるで、それを応援であるかのように、更ににじるように踏みつけてくる。
「お前からは! 飢えた獣の臭いしかしない!!」
「……獣……」
痛みに顔をしかめながら、何とか抜け出そうともがく。だが、ナイフを握った手は、自由が利かず、かと言って手を離せばナイフが奪われる。オレは痛みに顔を歪める。大庭はなおも叫ぶ。
「この子を犯すことしか考えていない! 本能を剝き出しにした雄の臭いだ! それを! いつもどこでも! 教室でも! 今でも!!! 必ずこの子の隣で! お前は放っている! お前は危険だ! 私はこの子を守るために! お前を必ず排除する!!!」
オレの手を踏みつけて叫びながら、大庭は腹に足に腕に蹴りを入れてくる。
――犯す? そんな訳があるか。確かに大切な奴ではあるが、単なる幼馴染みだ。その辺の分別はさすがにつく。だから、欲情したことはないし、これからも永遠にないと言い切れる。
ようやく逃れられた時には手に力は入らず、ナイフはあろうことか、大庭の後ろへと回転しながら飛んだ。オレはそれを呆然と見つめることしかできない。
カラカラカラカラという渇いた音が妙に響く。大庭がナイフを手に取った。にたりとした笑みに見据えられる。一瞬にして顔から血の気が引いていくのが分かった。左手にじんじんと響く痛みがある。それは、疲労困憊の体全てを蝕むかのようだった。轟き、増していく。吐きそうなほどの鈍痛が、全身を巡り出した。
オレは無事な方の手を小刻みに震わせながら、腹を庇う姿勢をとる。
「……そうか。それが、お前が、オレの名を騙り、陥れた、理由、なんだな……」
息も絶え絶えでそう零したオレに、
「騙った? 何を言っている? お前が全ての元凶だろう!!!」
大庭が叫ぶ。蛇蝎を見るかのような目で、ナイフの切先をこちらに向けて。
「オレが……全ての、元凶?」
口に出して、眉をひそめる。全ての、ということは――吉野のことも、オレのせいだと思っているのか――?
「私はそのことを、無自覚で無法者なお前の代わりに、クラス中に知らしめた。ただ、それだけのことだ!!」
「無自覚で無法者……」
なるほど。大庭がオレを絶対悪とする理由に、ようやく合点がいった。騙されているとも知らずに、オレを信じている桜絵みくが不憫でならなくて、ここまで大胆な行動に出た――間違いない。そういうことなのだ。
大庭梓にとってオレは、藤崎親一郎は、憎むべき……言わば倒すべき相手。そうとしか、映っていない。
だが、オレは桜絵を騙してなんていない。どうすれば、それを示せる? どうすれば――。
「……親ちゃんが、元凶?」
桜絵の声は裏返っていた。大庭にはそれが、同意とでも聞こえたのだろう。
「ええ、そうよ」
とだけ言うと、大庭はまた桜絵の髪に触れる。
「歌織は……あの男に、藤崎親一郎に、命じられて私に近づいたのだもの!」
「!!?」
声が出せなかった。ただ、オレをこの世の澱かのように見る大庭の瞳から、逃れられなくなる。
オレが、命じた? 何を? 誰にだって?
自分の名前が出ているのに、まるで異世界の話を聞いているような心地だ。そして、それはひどく居心地が悪い。
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