第13話 逢瀬②
その後二人は、三日月公園の茂みの奥で、おおよそ一ヶ月間、猫を飼い続けた。
その頃になると猫は、ぶっちゃんと呼ぶと、公園のどこにいても、すぐに姿を見せるくらいに、懐いていたらしい。
基本的には一緒に様子を見に行っていたが、どうしても外せない用事がある時などは、連絡を取り合って、手の空いた方が餌をやりに行くようにしていたという。
だが、七月のある金曜日――いつものように二人が餌を届けに行くと、そこには、猫が捨てられた時に入っていたダンボールだけが残されていた。
頭上には、抜けるような青空と聳え立つ入道雲とが、果てしもなく広がっていた。どちらもしばらく黙っていた。お互いに思うことや言いたいことはあったが、少なくとも先輩は――これでもう、歌織ちゃんと会うこともないのかな――そう考えていたからだった。口を開くと、別れの言葉や悲しい言葉しか出てこなさそうで、無意識に、胸元に手を当てていた。何か大切なものが抜け落ちた。そんな気がしたからだった。
「きっと、優しい人が……拾ってくれたんだよ」
胸を押さえながら出した声は、想像していたよりもずっと苦しそうだったので、先輩は自分でびっくりしたそうだ。
猫がいなくなったこと――それ自体も純粋に悲しいが、それよりもずっと歌織ちゃんに会えなくなることが、会う理由のなくなることが――胸が潰れそうなほどに、苦しい。
この時はっきりと、自分は目の前の少女を慕っているのだと、気付いたという。
「佐々木さん……」
対する吉野は、先輩の心を知ってか知らずか、静かに名前を呼ぶと、ダンボールの底に敷いていたタオルで、少し顔を隠すようにして俯いた。
「そう、ですよね……」
ややあって、顔を上げた吉野の頬には、一筋の涙の跡が付いていた。
先輩は、黙って吉野を前から抱きしめた。
条件反射――そうとしか言えなかった。
「歌織ちゃん」
吉野の名前を呼んで、先輩が続けようとする。
「え? 佐々木……さん……?」
腕の中の吉野が、体を固くしているのは分かったらしい。それでも先輩は、言わずにはいられなかった。
「僕と付き合ってくれませんか?」
タイミングとしては最悪で、弱みに付け込んでいると見られても仕方のない告白だった。
先輩は、オレたちに話しながら、
――我ながら、俳優だった時代もあるのだから、もう少し考えて行動できなかったものかな、とは今でもたまに思うのだけど――参ったように頭を掻いて、情けなさそうに笑った。
吉野は、何も言わなかった。先輩の腕の中で、ただじっと身を固くして唇を噛み締め、心なしか視線は下を向いていた。とどのつまり、目の前にいる先輩と、目を合わさないようにしているようだった。
「……ごめん。いきなりすぎて、びっくりしてるよね。ぶっちゃんがいなくなった時に、こんなことを言って……。でも、本気なんだ。ずっと思っていた。タイミングは最悪かもしれないけれど……冗談でもなんでもない……好きなんだ……きみのことが」
吉野を抱きしめる先輩の手に、自然と力がこもった。だが――、
「やめてください!」
はっきりとした拒絶の言葉だった。そうとだけ言い吉野は先輩の腕から逃れると、半歩ほど距離を開け、先輩の正面に立った。そして、衝撃の告白をする。
「私……駄目なんです。どうしても、怖いんです。男の人が」
その言葉でひとつ合点がいった。
吉野歌織は、男性恐怖症だったのだ――。
だからモテるけれど、浮いた噂を聞いたことがなかったのだろう。
吉野が男性を怖がるようになったのは、叔父が原因らしい。
まだ、小学校に上がる前のことだった。寝室にひとりで寝ていると、吉野の両親の目を盗んで、叔父が部屋に忍び込んで来た。
ふと目が覚めた吉野の上には、息を荒くした大の男が覆い被さっていた。何がなんだか理解できないながらに、本能的な恐怖を感じた――と吉野は言っていたそうだ。
その後、身じろぎひとつ出来なくなった吉野の体を力で押さえつけた叔父が、布団の中に手を差しいれたところに、ちょうど吉野の様子を見に来た母親が来て、事なきを得たそうだ。
その後も叔父は、何事もなかったかのように吉野家に現れたが、それ以来、吉野に手を出してくることはなかった。けれども、自分を襲おうとした叔父と「身内の恥だから」という理由で、自分の弟を警察に突き出さなかった父とに、心から失望した吉野は、いつしか男という生き物すべてに嫌悪感を覚えるようになり、自然と距離をもとるようになっていったそうだ。
「でも……」
自分の過去を話したあと、吉野は目に涙を滲ませながら、
「佐々木さんのことは、怖くなかったんです……」
素直な気持ちを吐露した。そうして震える唇で、
「佐々木さんは、とても優しくて、とてもカッコ良くて、とても面白くて、一緒にいると時間があっという間に過ぎちゃって……だけど、だけど……性別は、男の人で……」
それがとても残念で――吉野はたぶん、そう続けたかったのだろう。だが、吉野の言葉を先輩は遮った。
「傍にいてくれるだけでいい。他に何も望まない。関係を迫ったりもしない。きみを悲しませたり、苦しませたり、絶対にしない!」
叫ぶようにそう宣言した先輩に、吉野は唖然として目を丸くする。
「本当ですか?」
念を押すように、弱々しくもはっきりと聞いてきた。
そんな吉野に、先輩はただただ頷いた。拒絶さえされないのならば、何も望まない。そう目顔で応えた。
「この気持ちを信じてもらうためなら、なんだって誓うよ」
それは、先輩の心からの言葉だった。それでも吉野は訝しげに、眉根をひそめていた。
「……私のどこを気に入ったのですか?」
唐突に、吉野がそう切り出した。先輩は怯える吉野の目を見つめながら、気が付くと、こう口にしていたらしい。
「透明感のある空気を纏っているところと、笑顔だよ」
――自分でも驚くくらい無意識にそう言っていたんだ――先輩が照れたように笑って続ける。
他にもいっぱいあるけれど、一番はそのふたつだよ。優しくそう言うも、吉野はまだ目を逸らして不安そうに瞳を揺らしていた。
その様子を見て、吉野が何を一番気にしているのか、先輩は気づいた。
「大丈夫だ。きみは、とても綺麗だよ」
穢されたわけじゃない。きみの心も体も――その意味を強く込めて、先輩は言った。
先輩の言わんとすることが分かったのか、吉野は途端に表情を崩し、号泣した。
その後、先輩は、吉野が泣き止むまで、黙って隣に立っていたそうだ。
――――どれだけの時間が流れただろう。吉野は、そっと涙を拭くと、先輩に面と向かって、
「不束者ですが、よろしくお願いします」
そっと頭を下げた。
こうして、佐々木永治と吉野歌織のふたりは、付き合うことになった。
夏休み前日のことだった。
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