第四話

 それから二日後、灯籠祭の日がやってきた。


 帝都の外からも観光客が押し寄せるほどの有名な催しというだけあって、今日は昼間から街は賑わっていたようだ。朔も、日中は幻術師として街の見回りに出かけていたらしい。


 その間、わたしはというとすずさんとりんさんに徹底的に磨き上げられていた。わたしが攫われて以来初めて外出することに加え、朔も交えてお祭りを回ると聞いて気合が入ったらしい。


 湯浴みをして、髪に香油を馴染ませて結い上げられ、薄く化粧も施された。このところの療養のおかげで、見た目はほとんど攫われる前に戻っている。


「お着物は、こちらにいたしましょうか」


 そう言ってりんさんが取り出したのは、深い緋の着物だった。秋らしい色だが、それ以上に妙な懐かしさに駆られる。


 ……幼いころ、よくこんな色の着物を着ていたわ。


 朔がたまの代わりとして浅海邸にいたころは、この色ばかり着ていた。母が亡くなり、父がわたしに新しい着物を買い与えなくなった時期でもあり、体の大きさに合うのが緋の色の着物しかなくなってしまったのだ。


 ……ちょうどいいかもしれないわね。


 朔と、もういちど向き合おうとする日には、ぴったりの色だ。


 季節はすこし早いがいちょうの帯留めもつけてもらった。姿見に映るわたしは、久しぶりに令嬢然とした格好をしている。これなら、他の幻術師と出会って朔の妻として紹介されても恥ずかしくないだろう。


「すてきです! 千花さま。あとは紅を引いて完成ですよ!」


 日が沈むと同時に祭りは始まるらしい。燃え上がるような夕焼けの光を受けながら、すずさんは紅を取り出した。


 そこに、扉を叩く音が響く。この叩き方の間隔からしておそらく兄さまだ。


 りんさんに出迎えられた兄さまはまっすぐにわたしのもとへ歩み寄ってきた。兄さまも久しぶりに外出用の羽織を肩にかけている。


「千花、きれいだよ。あいつのためと思うと憎らしいくらいだ」


 兄さまは静かに微笑みながら、わたしの装いを褒めてくれた。兄さまに褒められるとなんだか自信がつく。


「紅を引こうとしていたのか。どれ」


 兄さまはすずさんから紅を受け取ると、そのまま指先で少量取ってわたしに向き直った。まさか、兄さまに化粧を手伝ってもらう日が来るとは思わなかった。


「きみがうまく言葉を伝えられるように、祈りを込めさせてくれ」


 兄さまはやっぱり穏やかな声のまま、静かに告げた。


 そう、あれだけ願ったにもかかわらず、わたしの声は今日も戻っていないのだ。朔と、自分の声で話がしたいのに。


 兄さまは、その気持ちを知っていてこうして祈ってくれているのだろう。思わず、ぎゅう、と兄さまに抱きつく。すぐに、頭をぽんぽんと軽く撫でてくれた。


「大丈夫。声が出なくたって、あいつはきっときみの言葉をひと言も逃さずに聞こうとするはずだ。あまり身構えなくていい」


 いつもと何も変わらない調子の兄さまの声を聞いていると、緊張が解けていく。

「おふたりとも、そろそろ出発のお時間ですよ!」


 すずさんが弾む声で教えてくれる。日が沈みきる前に、運河に到着する予定なのだ。


 ……ちゃんと朔とお話しできるかしら。


 思えばわたしは助けてもらったあともまともに「ありがとう」すら言えていないのだ。ゆっくりでも、自分の言葉で朔と話さなければならない。


「行こうか、千花」


 兄さまに手を引かれ、部屋を出る。夕日が差し込む廊下を進み、玄関を出ると正門の前に馬車が留まっていた。


 馬車の前には、見ようによっては冷ややかに思える表情の朔が立っていた。まるで、浅海家にわたしを買い取りに来たあの日の彼のようだ。


 馬車の前まで近づくと、朔はわたしの姿を見て目を瞠った。この着物の色から、浅海邸で過ごした幼い日々のことを思い出したのだろうか。


「……きれいです、お嬢さま」


 朔は淡く微笑んで、それからわたしの目の前に手を差し出した。黒い手袋をつけているところまで、あの日と同じだ。


「あ……申し訳ございません。つい、癖で……」


 朔は誤魔化すように微笑むと、指先を握り込んで手を下げた。わたしのほうを、まっすぐに見ようとせず、視線を伏せてしまう。


「どうぞお先に。ぼくは最後に乗りますから」


「わかった」


 朔の代わりに、兄さまが先に馬車に乗り込み、わたしの手を引いてくれた。そのあとで、朔が乗り込み、わたしと兄さまの向かい側の座椅子に腰かける。


 視線のやり場にすら困るようなこの気まずさも、久しぶりだ。月雲邸に向かう馬車でもこんな思いで彼と向かいあっていた。


 わたしの体調を気遣う言葉をひと言ふた言かけたあと、朔は黙って窓の外を眺めていた。夕焼けに照らされたその横顔をじっと見つめる。何気ない表情が、たまらなく愛おしい。親愛が恋情に変わった今も、根底には彼を慈しむようなやわらかい感情が残っている気がした。


 馬車はまもなく運河のそばについた。すずさんが言っていた通り、人通りが激しい。いつもより華やかな装いをした人々が行き交うその光景だけでもすでに見ものだった。


「月雲! 千花ちゃん! こっちこっち」


 運河に近づくと、ぶんぶんと大きく手を振る桜木さんの姿が見えた。どうやら、祭りを見物するための席を取っておいてくれたらしい。


「わあ、千花ちゃん、今日はいつもにも増してかわいいね。月雲が語っていた『お嬢さま』の想像通りの姿だ」


 桜木さんはわたしの装いを見て、手放しに褒めてくれた。唇だけで「ありがとう」と告げる。どうやら伝わったようで、桜木さんははしゃぎながらわたしたちを席に案内してくれた。


「月雲は帝都の街灯の設計者なんだし、もっといい関係者席を取ればいいのに」


 確かに、この祭りは朔が帝都の街灯を一新したことを機に始まったはずだ。関係者の中心にいてもいいくらいだろう。


「いいんだ。このあたりのほうがきれいに見える」


 運河のそばには、家族連れや恋人たちの姿が多く見られた。皆、一斉に街灯がともる瞬間を待ち望んでいるようだ。


「楽しみですね! 千花さま!」


 わたしの後ろですずさんがはしゃぐ。こくりとうなずきながら、周りの人たちの視線を辿るようにして運河の街灯を見上げた。


 空に紺色が混じり始め、徐々に日が沈んでいく。暗くなるにつれて、人々の熱気がぶわりと膨らんでいくのがわかった。


 やがて完全に日が沈むとあたりは仄暗さを増して、夜の始まりの空気を漂わせた。今日は月のない夜だ。もともと灯篭を流す儀式自体は、毎年秋口の新月に行われていたようだが、そこに帝都の新たな観光資源となった街灯を灯す催しを加えたことで、今の灯篭祭のかたちになったのだという。


「お嬢さま、見ていてください」


 ふと、隣で朔が囁いたかと思うと、彼は黒手袋をつけた手で何かを掬い上げるような動作をし、まつ毛を伏せた。器のようなかたちをした手の中に、黄金色に輝く光が生まれ、それはやがて輪郭を変えていく。


 瞬く間に、黄金色の光は手のひらに収まるほどの大きさの小鳥のかたちになった。朔は、それを空に放つように手を掲げる。


 光を帯びた小鳥は、わたしたちの頭上を二、三周飛び回ったかと思うと、運河の上をめがけて飛んでいった。そのあいだに大きさはどんどんと大きくなって、運河の上に辿り着くころには抱えるほどの大きさの鳥になっていた。灯りが灯るのを待っていた観衆たちが、わあ、と歓声をあげる。


 鳥が羽ばたくと、きらきらと光の粒が舞った。鳥は狙いを定めるように嘴を突き出すと、それまでとは比べ物にならない速さで運河の上を飛び進んだ。遠くから見ると、まるで流れ星のようだ。


 そして、鳥が通り過ぎたそばから、運河の脇の街灯に灯りが灯っていく。観衆たちの声がいっそう大きくなった。誰もが、光を引き連れて優雅に飛ぶその姿にから目を離せない。運河の水面にも鳥と街灯の光がそっくり写り込んでいて、この世のものとは思えない美しい光景だった。


 ……朔は、ほんとうにすばらしい力を持っているのね。


 柔らかな灯りが眩しくて、じわりと涙がにじむ。こんなに美しい光なら、あの世にも届いているだろうか。


 ……見ているかしら、蝶子さん。


 彼女とともに訪れるという約束は結局叶わなかったけれど、不思議と彼女もこの光景を楽しんでくれているような気がした。


「お嬢さま……? 泣いていらっしゃるのですか」


 はっとしたように、朔に声をかけられる。涙が一粒だけ、真珠になって落ちていった。


 朔がわたしに手を伸ばそうとして、思いとどまるように指先を握り込んだ。宙をかいた朔の手の代わりに、横から別の手に抱き寄せられる。


「千花……どうしたんだ? まだ、人混みはつらいか……?」


 兄さまはわたしを引き寄せながら、眉を下げてわたしを見下ろしていた。兄さまの腕の中で、そのまま首を横に振る。


 朔が生み出した灯りが、心の中に宿っていた闇を薙ぎ払ってくれたような気がした。悪夢の名残が、すうっと消えていくのがわかる。


 兄さまを安心させるように微笑んでから、彼の腕から抜け出した。そのまま、距離をとってわたしを見守っていた朔の前に立ち、彼の手を握る。


「お嬢さま……?」


 そのまま、彼の手を引く。すこし、彼とふたりで歩きたかった。


 兄さまはその意図を汲んでくれたのか、わずかに微笑んでわたしと朔の背中を押した。


「せっかくだから、すこし歩いてきなさい。あの騒がしいお前たちの友人はこちらで引き受けておく」


 桜木さんはというと、こちらの会話には気づきもせずに、子どものように目を輝かせて鳥と街灯の灯りに見入っていた。彼自身も幻術師だというのに、まるで幻術を初めて見たかのような感動の仕方がなんだか微笑ましい。


「……わかりました。何かあれば、すぐに戻ります」


 朔は迷うように視線を泳がせたあと、ぽつりと告げた。わたしを心配してくれているのだろう。


 わたしは大丈夫だ、と言葉で告げる代わりに朔の手をぎゅ、と握りしめた。はっとしたような薄水色の瞳とまっすぐに目があう。


 そのまま、彼の手をぐい、と引いた。よろけるように歩き出した彼を導くように、人混みを避けて進む。幼いころもよくこうして、彼の手を引いて遊びにいっていた。

 昔と違うのは、朔がすぐにわたしの隣に追いついて、導く役割を代わってくれたことだ。光に夢中になる人々の波をかき分けて、彼は黙々と進んでいた。どこか目的地があるようだ。


 しばらく歩くと、人の波が途切れる。運河のほとりではあるが、どうやら裏路地に近いためにひとけがまばらになったようだった。


「お嬢さまに、お見せしたいものがあるのです」


 朔は横目でわたしを捉え、小さく微笑むと、裏路地のほうへ向けて手を翳した。


 その瞬間、裏路地に点々とほのかな灯りが灯り、段々とそれは柔らかな橙色の光となって辺りを照らし出した。


「ぎりぎりでしたが、なんとか今日に間にあいました。……あの灯りの燃料には、お嬢さまからいただいた涙が使われています。裏路地の環境改善の第一歩です」


 わたしと顔を合わせていない間にも、彼は裏路地に街灯を作る動きを進めてくれていたのだ。温かな橙色の光を見て、またしても目頭が熱くなってしまう。


「幼いころ、暗い裏路地で殴られたあとに見た街の灯りがあんまりきれいで……ろくに泣かない子どもだったのに、そのときばかりは涙を流してしまったのをよく覚えています。自分にまつわる何もかもを諦めた気でいたのに、あの灯りに照らされたいと心のどこかでは願っていたんです」


 朔はわたしの手をそっと握りしめ、遠くを眺めるような目で笑った。


「そんな過去の自分までも、お嬢さまは救ってくださった。……お嬢さまは、ぼくにとってこの灯りのような方です」


 そんなの、わたしのほうがずっと強く思っている。街中に灯されたこの橙色の灯りは、彼の心の温かさをそのまま表しているようだ。


 それを言葉で伝えられないのがもどかしくて、思わず彼の腕をぎゅう、と抱きしめた。夢の中とは違う。温かくて、わたしを決して傷つけない優しい手だ。


「こんな場所で大胆な方ですね」


 彼は静かに頬を緩めると、そっとわたしの手を引いた。


「すこし、座りませんか。あの場所でなら、灯籠を流すのがよく見えるはずです」


 朔が指さしたのは、運河のほとりの石段だった。目を凝らせば、ぽつぽつと石段に腰掛けて運河に映り込む街灯の灯りを楽しんでいる人たちがいる。ここは、知る人ぞ知る穴場なのかもしれない。


 彼はいつかのように薄手の上着を脱ぐと、石段の上にそれを敷いた。手を引かれ、そこに座るように導かれる。


 ありがとう、と唇の動きだけで伝えて、彼と並んで石段に腰かけた。


 街の街灯は、どうやらすべて点灯したようだった。運河の上を優雅に飛び回っていた黄金色の鳥が、わたしたち目掛けて舞い降りてくる。


 朔の手に留まるころには、鳥は手のひらに収まるほどの大きさまで縮まっていた。手を伸ばして頭を撫でてみると、小鳥は心地よさそうに首を傾けた。なんともかわいらしい。


 これだけの幻術を使い続けるのは体に負担がかかりそうなものだが、朔は汗ひとつかいていなかった。さすがは帝都一と謳われる実力者だ。


「本部に演出を頼まれたときは乗り気ではありませんでしたが、お嬢さまが喜んでくださったようでよかったです」


 朔は静かに笑うと、手のひらの上の鳥をいちどだけ撫でた。その拍子にぱっと金色の光を放ったかと思うと、次の瞬間には輪郭が曖昧な白い光に戻っていた。朔がその光を握りしめると、跡形もなく消えてしまう。


 光が消えたことで、運河に反射する街灯の灯りがいっそう明るく見えた。先ほどまでわたしたちがいた向こう岸からは人々の賑やかな声が聞こえてきた。優しい灯りと笑顔で埋め尽くされた、すばらしい夜だ。


「以前、お嬢さまをお連れしたい場所があるといったことを覚えていますか。それが……この祭りなのです。去年も、一昨年も、その前も……お嬢さまにこの灯りをお見せできたらどんなにいいかと思いながら運河のほとりを歩いていました」


 懐かしむように微笑みながら、朔は向こう岸の灯りを見上げた。


「祭りだけじゃない。お嬢さまに再会するまでの数年間、街を歩いているときも、美しい花を見つけたときも……隣にお嬢さまがいてくださったらどんなにいいだろうと考えていました。ぼくが殺されかけたあのときに、泣きも笑いもしなかったあなたが憎かったのは確かなのに……結局はずっと、焦がれていたのだと思います」


 朔はどこか照れたように頬を緩めて、薄水色の瞳でわたしを捉えた。彼の瞳は、やはり暗がりの中でもよく見える。透き通る空の色だ。


「こうして隣にお嬢さまがいてくださるだけで、夢のようなことです。……これ以上を望むのは、ぼくのような者には贅沢なのかもしれません」


 朔は寂しそうに頬を緩めた。何かを諦めたような横顔に、胸の奥が抉られるように痛む。彼にこんな顔をさせてしまっているのは、きっとわたしのせいだ。


 思わず彼の腕に手を添える。声が出ないことを、これほどもどかしく思ったことはない。声さえ出てくれれば、彼はきっと安心してわたしのそばにいてくれるはずなのに。


 朔は微笑んだまま、わずかに体を捻ってわたしに向かいあった。腕に触れていたわたしの手を、ゆっくりと彼の手に下される。


 ……朔?


 壁を作るような彼の行動に、胸騒ぎがする。そもそも距離ができてしまったのはわたしのせいだとわかっているのに、彼から突き放されると縋りつこうとしてしまうのだからわたしは本当に浅ましい人間だ。


 朔は静かに微笑んだまま、そっとわたしの手を両手で握り込んだ。


「それをわかっていてもなお、ぼくは結局、お嬢さまを諦められないんです。あなたに嫌われても、疎まれてでも、ぼくをそばにおいてほしい。人としてじゃなくてもいい。たまの代わりで構わないから、そばにいさせてほしいのです」


 彼はふいに石畳に敷いた上着のポケットを探ると、そこから何やら小箱を取り出した。わたしの片手にも収まるほどの小さな箱だ。


 彼はそれをわたしの前で開けてみせた。中には、透き通るような輝きの透明な石が嵌め込まれた銀の指輪が納められている。


「異国では、愛する人にこうして指輪を贈るそうです。……浅海邸に戻ったら、どうかこれをぼくと思って身につけていていただけませんか」


 朔は指輪を摘み上げると、そのままわたしの左手の薬指につけてくれた。不思議なくらいにぴたりと大きさが合う。左手ごと灯りに手をかざすと、石がきらきらと虹色の光を反射した。人魚の涙よりも繊細で、眩しい光だ。


「お嬢さまが、ぼくの姿を見ても悪い夢を見なくなるまで、待ちます。いくらでも待ちます。何年でも……何十年でも、死んでも、ずっと」


 朔はわたしの左手をそっと両手で包み込むと、身をかがめてまるで祈るように自らの額に当てた。


「このあいだのような真似は二度としません。お嬢さまを脅かすようなことは、絶対にしませんから……待つことを、許していただけませんか」


 頭を垂れてわたしの手に縋り付く姿は、まるで罪人が懺悔でもしているかのようだ。


 わたしは、このひとの何を恐れていたのだろう。こんなに温かい手をして、わたしが何からも脅かされないように気を張って、命を削ってわたしを守ろうとしてくれたひとなのに。


 ずっと、彼のもとに帰りたいと願い続けていたのに、自らこの手を離そうとするなんて。


 気づけば、導かれるように彼の頬に手を添えていた。はっとしたように、彼が顔を上げる。


「お嬢さま――?」


 彼が顔を上げた瞬間に、吸い寄せられるようにわたしは彼の唇にくちづけていた。


 薄水色の瞳が、至近距離で見開かれる。潤んだ表面に街の灯りがいくつも反射して、澄み渡る空に星が浮かんでいるかのようだった。


 ゆっくり瞬きをしてから、そっと彼から唇を離す。ずっと欠けて探し求めていた何かを、取り戻した気がした。


「……待たせてごめんなさい、朔。ただいま」


「っ……」


 朔はぐ、と息を呑んだかと思うと、先ほどまでの恭しい仕草とは裏腹にどこか余裕のない仕草でわたしの肩を掴んだ。そのまま、今度は朔からくちづけられてしまう。


 わたしがした触れるだけのくちづけとは違い、まるで噛みつくような衝動的なくちづけだった。舌先が触れあったのを機に、遠慮なくくちづけが深まっていく。たちまち頬が火を噴くように熱くなった。


 決して嫌ではないが、吐息ごとまるごと飲み込まれてしまいそうで怖くなる。思わず彼の肩をわずかに押すと、はっとしたように彼が唇を離した。


 新鮮な空気を胸いっぱい吸い込んでも、顔に帯びた熱はすこしも冷めてくれない。くらくらとしためまいを覚えながら、にじむ視界の中に彼を映し出す。どうやら、彼は焦っているようだった。


「お嬢さま……申し訳ございません、加減ができず……。苦しかったでしょうか」


 こんなときでもわたしをいちばんに気遣ってくれる彼が嬉しくて、思わずくすりと笑ってしまう。


「平気よ。……大好き、朔」


 かつてないほど、満ち足りた気持ちだった。自然と、涙がひと粒頬を伝っていく。


 橙色の光を反射して煌めいたそれは、やがて緋の着物の上に落ちて、一点の染みを作った。


「お嬢さま……涙が……?」


 朔も、この変化に気づいたようだった。あとを追うように次々と流れる涙も、真珠にはならずに着物に染みを作っていく。


 ……解き放たれたのね。


 人魚の涙を流す娘の力は、愛するひとのくちづけで失われる。


 この言い伝えは、本物だったのだ。生まれてからずっと引きずっていた枷が、頭の中で音を立てて外れていくのがわかった。


 長い呪いだった。苦しいことのほうが多い力だったけれど、この涙のおかげで裏路地に灯りを灯し、兄さまを助けられたことも確かだ。憎らしい愛すべき隣人が旅立ったような感覚に、とめどなく涙があふれていく。


 気づけばわたしたちは、どちらからともなく抱きしめあっていた。固く、息もできないほど強い力だったが、かつてないほどに心が安らいでいるのがわかる。


 ……わたしは、泡にはならなかったわ。お母さま。


 お母さまの最後の言葉を思い起こしながら、彼の胸の中で長い息を吐く。


 いつの間にか、運河の上には無数の灯籠が流されていた。悪夢と人魚の呪いを送り出すような気持ちでその優しい橙色の灯りを眺める。


 人魚の呪いと共に歩んだ長い日々が、ようやく終わった。いま、ようやく愛するひととの新たな旅路が始まろうとしているのだ。

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