第三話

「千花さま! 今日のおやつはあんみつです! なんと、藍さまも手伝ってくださったのですよ!」


 弾むようなすずさんの声とともに、目の前に小ぶりの器に盛られたあんみつが置かれる。開け放たれた窓から風が吹いて、いつか桜木さんがくれた風鈴がちりんと鳴った。


「だいぶ、風も涼しくなってまいりましたね」


 りんさんがあんみつの器の隣にお茶を並べながら、眩しそうに窓の外を眺めた。よく晴れているが、確かにこのところは暑さも薄らいでいる。


「この風鈴はいつまでつけておきましょうか? そろそろ季節外れになってしまいそうですね……」


「千花が外したければあとで取ってあげよう」


 わたしの向かいに座った兄さまが穏やかに微笑む。その合間にも、風鈴がりんと鳴った。


 朔に悪夢のことを打ち明けてから二週間。あの翌日から、こうして朔のいない毎日が繰り返されている。すずさんたちも兄さまも何ごともなかったかのように振る舞っているし、たまには桜木さんも見舞いにやってきてくれる。けれど、朔は徹底的にわたしに姿を見せなかった。


 屋敷には戻ってきているらしいが、彼の姿を見かけたことすらもいちどもなかった。きっと彼のほうで特別に注意を払ってわたしと鉢あわないようにしてくれているのだろう。


 朔に会わないこの二週間は、いちども悪い夢を見たことがなかった。夢を見ない日もあるし、他愛もない穏やかな夢を見ることもある。泣きながら目覚めることはもうなくなった。


 兄さまは思い出させないようにしているのか、あえて夢の話題には触れてこない。わたしの声が出るようになるのをじっと待ってくれているのだ。


「どうした? 千花」


 わたしの視線に気づいたらしい兄さまが穏やかに微笑む。慌てて、木の匙であんみつを掬って食べた。今ではすっかり食事を摂れるようになっている。帰ってきたときよりは顔色もいいはずだ。


「口にあったようでよかった」


 安心したように、兄さまもあんみつを一口口に運んだ。そういう兄さまこそ、このところはとても顔色がいい。わたしが朔に会っていない間も、兄さまの治療は順調に続けられているようだった。治療を一時中断していたために全体の治療期間は伸びてしまうだろうと予想されていたが、回復の具合が順調なため、治療期間を大きく伸ばさずに済むらしい。


 朔は、会わないあいだも兄さまの治療を続けてくれている。その事実にまた、きゅう、と胸が締めつけられた。わたしが彼にできることなんて、彼が望む限りそばにいることくらいしかないというのに、それすらできていないわたしはまるで彼の能力だけを利用しようとする寄生虫のようだ。


 あんみつを食べ終えたあと、みんなと相談して金魚の風鈴は取ることにした。上背のある兄さまが難なく手を伸ばして取ってくれる。浅海家にいたころの弱々しく青白い肌をした青年の姿はもうどこにもなかった。


 柔らかな布で風鈴を拭き、木の小箱にそっと納める。さっそくりんさんはその小箱を物置へしまいに行ってくれた。あとを追うように、すずさんもあんみつの器を片付けに台所へ下がっていく。


 部屋には、わたしと兄さまのふたりだけが残された。兄さまはこのところ治療の時間以外はずっとわたしに付き添ってくれているから、珍しい状況ではない。


 兄さまはお茶を飲み干すと、どこか気遣わしげに切り出した。


「千花、知っていると思うが、実はそろそろぼくの治療が終わるんだ。……浅海の当主としての仕事をこれ以上引き延ばしにするわけにもいかないから、治療が終わり次第ぼくは浅海の家に戻らなければならない」


 兄さまがいつまでもこの屋敷にいるわけではないことはわかっていた。喜ばしいことなのに、この状況で離れ離れになることが不安で仕方がない。


 だが、これ以上わがままを言って兄さまをわたしに付き合わせるわけにはいかない。机の下でぎゅうと着物を握りしめながら、微笑みを取り繕ってこくりと頷いた。


「無理に笑おうとしなくていい」


 長い腕がすっと伸び、わたしの頬を摘むようにして筋肉の緊張をやわらげてくれた。兄さま相手には隠しごとなどできないらしい。


「……今の状況できみをひとりにすることががどれだけ酷なことか、わかっているつもりだ。だから――」


 気遣わしげにまつ毛を伏せながら、兄さまは続けた。


「――きみさえよければ、しばらく浅海の家に帰るのはどうだろう。環境が変われば気分が晴れることもあるかもしれない。声が出るようになるまでは療養と割り切って過ごしてみるんだ」


 ……兄さまとともに浅海の家に戻る。


 その可能性をまったく考えなかったわけではなかった。だが、やけにその提案が心に重くのしかかる。


 こんな状況でも、わたしは月雲邸にいたいと願っているらしい。わたしの家は、とうにこちらなのだ。


「このことは……昨日、月雲にも相談した。あいつも承諾してくれたよ。きみの声が戻る可能性のあることは、なんでもするべきだ、と」


 賛成とは言わず、承諾という言葉を兄さまが選んだあたり、朔の葛藤が伺えた。朔は、わたしを彼のそばに置くためにわたしを取り戻してくれたはずなのに、再び物理的に距離ができることは望んではいないはずだ。けれどもその気持ちを押し殺して、わたしの心の回復を祈ってくれている。


 ……一刻も早く、声を治さなくちゃ。


 そのためには確かに、環境を変えてみるのはひとつの手のような気がしていた。浅海家はいい思い出のある場所ではないが、父がいなくなって生まれ変わった浅海家を見れば、あの悪夢の中の屋敷の姿も薄れてくれるかもしれない。


 しばらく迷ったのちに、いちどだけ頷いた。兄さまの手が、何度か頭を撫でてくれる。


「わかった。……おそらく、十日後くらいの話になるだろう。あの女中たちにはきみの荷造りを進めるように伝えておく。もしかするとついていくというかもしれないな」


 兄さまはあえて空気を明るくするように笑って、部屋の中を眺めた。兄さまは思いの外、いまのわたしの周りにいるひとたちを気に入っているようだ。


 ……早くわたしも、いつも通りにならなくちゃ。


 息を大きく吸って、声を出そうと試みる。吐息が漏れていくばかりで、やっぱり今日も喉は震えなかった。

 

 ◇


 わたしが浅海邸で療養する話は、その日のうちにすずさんやりんさんにも伝えられたようで、さっそく荷造りが始まった。浅海邸には、すずさんもついてきてくれることになったらしい。


 浅海家に出発するころには、おそらく今よりぐっと風も涼しくなっているだろう。秋の始まりの季節だった。鞄に詰められた着物は、葡萄色の生地で仕立てられていたり、紅葉の柄が織られていたりと秋らしい装いのものばかりだ。どれも初めて目にするものだった。


「すべて、旦那さまがお選びになったものです。千花さまにお似合いになるだろうと」


 りんさんはにこやかに教えてくれた。帯留に至るまで、彼は秋らしいものを新調してくれたらしい。


 ……顔も合わせられないわたしに、こんなことまでしてくれるなんて。


 いちょうの形の帯留めを手に取って、そっと胸に抱きしめる。なんだか放し難くて、そのまま鞄から取り出して手もとにおくことにした。


 ……この帯留めを使えるうちに、朔と出掛けられるようになりたいわ。


 夕食と湯浴みを終え、寝台の上に横たわりながら帯留めを眺める。このところすっかり体調は良くなったとはいえ、過保護な兄さまたちによって夜更かしは許されていなかった。だが一日中安静にしているせいで、こうして横になってからも眠れない日が増えていた。


 ……浅海邸に行ったら、お散歩を習慣にしよう。


 食事をきちんと摂って、適度な運動をして、しっかり眠って、早く声が出せるように頑張るのだ。そうすれば誰にも気兼ねなく月雲邸に戻って来られる。朔に、余計な気遣いをさせずに顔を合わせることができる。


 置き時計が、まもなく零時を差そうとしていた。いつのまにか、ずいぶん夜更かしをしてしまったようだ。


 眠くないが、そろそろ目を瞑らなければならないだろう。気が進まないまま布団を整えていると、ふと、静かに扉が叩かれ、ゆっくりと開くのがわかった。


 入ってきたのは兄さまだ。ひょっとすると、廊下に灯りが漏れていたのかもしれない。つい先ほど眠る前の挨拶をしたばかりだが、灯りを消し忘れていると思って様子を見にきてくれたのだろう。兄さまの優しさには甘えてばかりだ。


 寝台の上で状態を起こして、微笑んで兄さまを出迎える。橙色の灯りに照らされた兄さまは、驚いたように目を見開いていた。


「っ……起きて、たのか」


 さすがにこんな時間まで起きているとは思わなかったのだろう。叱られることを覚悟で頷けば、何かを堪えるように兄さまは眉を下げた。


 いつもは自然と寝台のそばの椅子に腰掛けるのに、今夜は違った。わたしと距離を保ったまま、わたしの姿を目に焼き付けようとするかのようにじっとこちらを見ている。妙な兄さまだ。寝台から身を乗り出し、そばにある椅子の座面をぽんぽんと叩いて座るように促した。どうせ眠れないと思っていたところだから、すこし話がしたい。


「あ、ああ……そうだね、失礼するよ」


 わたしのそばに座るのに断りを入れるなんて、初めてだ。ひょっとして具合が悪いのだろうか。再び寝台から身を乗り出して、兄さまの額に自らの手を当て、自分の額の熱と比べてみた。いつもよりは温かいが発熱しているわけではなさそうだ。


「っ……」


 兄さまはわずかに視線を伏せ、戸惑うように耳の端を赤くしていた。そんな反応をされると、なんだかこちらまで気恥ずかしくなってしまう。好きあらばわたしを抱きしめたり頭を撫でたりしているのは兄さまのほうであるし、わたしだって気軽に触れているというのに、どうしてしまったのだろう。


「こんな時間まで起きているなんて……あまり、眠れていないんだね。……悪い夢のせいだろうか」


 夢の話題に触れられたのは久しぶりだ。けれど夜のこの静寂のなかだからこそ、ためらわずに話題にできる気がした。


 ゆっくりと首を横に振って、小さく微笑む。そのままするりと兄さまの手を取って、手のひらに指先で「悪い夢はもう見ていない」と書き綴った。


 書いている途中で、くすぐったそうに兄さまの指先が震えていた。文字を綴り終わり、伝わったかどうか顔を覗き込むと、ふい、と視線を逸らされてしまった。


「ごめん……その、くすぐったくてうまく読み取れなかった。もういちど書いてくれるかい」


 やっぱり今夜の兄さまは変だ。指で綴る文字にはすっかり慣れてしまって、今ではわたしが彼の手のひらに文字を綴る場面を見ずとも感触だけで読み取れるようになったのに、どうしてしまったのだろう。


 戸惑いながらももういちど同じ言葉を綴ると、しばらく反芻するように確かめたのち、兄さまはほっとしたように微笑んだ。


「そうか……もう、悪い夢は見ていないんだね。本当によかった……」


 ……兄さまってこんなふうにも笑えたのね。


 心底安心したようにくしゃりと笑うその姿は、初めて見た。いつも笑いかけてはくれるけれど、凪いだ水面のような穏やかな微笑みしか知らない。


 つられるようにわたしも頬を緩めると、兄さまははっと目を瞠った。


 どうしたのかと小首を傾げたのも束の間、余裕のない仕草で抱きしめられてしまう。


 ……兄さま?


 わたしの肩口に顔を埋め、しがみつくような強さでわたしの体に腕を回すその仕草は、やっぱり兄さまらしくなかった。いつもは甘やかすように、包み込むようにそっと抱きしめてくれるのに。


「ごめん……すこしだけ、このままで……」


 震える声でそう告げると、兄さまはいっそう強くわたしの体を引き寄せた。ともすれば息もできなくなりそうな強さだ。隙間なくわたしにくっつこうとするその姿は、やはり兄さまらしくはない。


 ……こんなふうにわたしを抱きしめるのは、どちらかといえば――。


 戸惑いながらもそっと、兄さまの黒髪に手を伸ばす。そのままゆっくりと頭を撫でると、彼の吐息が震えるのがわかった。


 ……もしかして、泣いているの。


 はっとして兄さまの肩を押し、顔を覗き込めば、涙に濡れた瞳と至近距離で目が合った。兄さまが泣いているのを見るのは、それこそ初めてだ。


 ……いいえ、違う。このひとはきっと――。


 朔。


 そう、声なき声で名前を呼ぶ。やっぱり吐息が漏れるばかりで音は出なかったが、唇の動きで彼は読み取ったようだ。


 がたん、と彼は大きな音を立てて椅子から立ち上がると、すぐにわたしと距離をとった。そのまま、両手で顔を覆い、くぐもった声で弁明を始める。


「申し訳、ございません……こんな……お嬢さまの兄上の姿を借りて近づくような卑怯な真似をして……」


 それは、完全に朔の声だった。泣いて動揺しているせいで、幻術が解け始めているのだろう。


「ただ……寂しくて……あなたに触れられるあいつが羨ましくて……この姿でなら、お嬢さまの前に姿を現しても、怖がられないかと思ったんです……」


 髪の色がわずかに変わる。同じ黒髪だが、朔の髪はわたしや兄さまよりも一段暗い、月のない夜ような深い色だった。


「お嬢さまのためには近づいてはならないのに……それでも会いに来るのを我慢できなかった。ぼくは、浅ましい人間です」


 顔を覆ったままなのは、わたしに見せまいとしているからなのだろう。その気遣いが痛々しくて、思わず寝台から立ち上がる。


「許してください、千花お嬢さま……」


 それだけを告げたかと思うと、彼はくるりと踵を返して部屋から出ていった。


 ……朔。


 わたしが彼に怯えていることが、こんなにも深く彼を傷つけていたなんて。あんなにも、寂しい思いをさせていたなんて。


 聞き齧った程度の知識だが、見た目を変える幻術はかなりの力を消耗するはずだ。そんな高度な術を使ってまで、彼はわたしに会いにきてくれたのだ。


 いても立ってもいられず、思わず廊下に飛び出す。ぼんやりとした灯りに照らされた廊下に、すでに朔の姿はなかった。


 代わりに、扉のそばには寝巻き姿の兄さまの姿があった。静かな笑い方からして、本物の兄さまだろう。


「あいつはわざわざぼくの姿を借りていいか聞きにきたんだ。だから着物を貸してやった。……きみを動揺させたかったわけじゃないだろう。そっとしておいておあげ」


 兄さまの声に、頭の中が冷静になっていく。たしかに、今追いかけても彼に気遣わせるだけなのかもしれない。けれど、こんな状態のまま浅海家には行きたくなかった。


 わたしの焦るような気持ちを察したのか、兄さまはなだめるように頭を撫でてくれた。


「明後日、街で灯籠を流す祭りがあるらしい。屋敷の者たちも連れて見物に行こう。……あいつとはそこで話せばいい」


 それは、いつか蝶子さんが言っていた灯籠祭という祭りだろうか。朔と並んで街の明かりや灯籠を眺めることができたらどんなにいいだろう。


 ……朔と、ちゃんと話したいわ。


 心の傷は完全には埋まっておらずとも、時の流れのおかげでずきずきとした痛みは引いているような気がした。今なら、以前のように突然朔から逃げ出すような自体には陥らないはずだ。


 兄さまに促されて、寝室に戻る。シーツの上に転がった帯留めを拾い上げ、祈るように両手で包み込んだ。


 ……明日には、声が出ていますように。


 申し訳なさと、愛おしさが入り混じったこの想いは、どうしても自分の声で伝えたかった。

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