第八章 灯りを灯す人

第一話

 開け放たれた窓から、夏風が迷い込んでくる。新しく取り付けられたというレースのカーテンがふわふわと揺れていた。


 月雲邸に戻ってきてから、一週間。たっぷりと陽光を取り入れるこの部屋の明るさに目が慣れなかったが、このところようやくまともに昼間も目を開けていられるようになった。


「千花さま、お加減はいかがですか?」


 りんさんが、水の入ったグラスを差し出してくれる。帰ってきた直後はグラスも持てないほどに弱っていたが、食事をして、ゆっくりと眠ったおかげで今ではひとりで水を飲めるようになった。


 ありがとう、と礼を言う代わりに微笑んで、数口水を口に運ぶ。冷たすぎない、飲みやすい温度の水だった。甘やかされていると改めて感じる。


「千花さま! 見てください! 綺麗な向日葵が手に入ったのです! この辺りにおいておきますね!」


 すずさんはどこからか抱えるほど大きな花瓶と向日葵の束を運んできた。それらを窓際の戸棚の上に置き、早速生け始める。窓の外に広がる濃い青空と向日葵の鮮やかな黄色の対比が目に痛いほど綺麗だった。


「すこし多すぎるんじゃない?」


 りんさんが、軽く眉をひそめて意見する。だが、すずさんは生ける手を止めずに晴れやかに笑い飛ばした。


「いいの! このほうが、お部屋が明るくなるもの。そうですよね、千花さま!」


 弾けるようなすずさんの声に、笑みを深めて頷く。


 死神に囚われていた二週間、わたしが燭台ひとつで照らされるだけの暗い部屋に閉じ込められたと知ってから、すずさんはわたしの部屋を明るく華やかにすることにこだわっているのだ。花のほかにもひらひらとした尾鰭の綺麗な金魚をおいてみたり、わたしが見えるところに水色や青磁色の着物をかけてみたりと、あれこれと工夫してくれている。死神に囚われていた日々に比べれば、ここは天国のような場所だった。


 ふと、開け放った窓から、黄色と黒の羽を持つ蝶がひらひらと迷い込んできた。鳳蝶だ。


「わあ、蝶々です、千花さま!」


 蝶は部屋の中まで飛んできて、わたしのすぐそばまでやってきた。そうして薄手の布団越しに、わたしの足に止まる。りんさんは蝶が苦手なのか、わたしに縋るように身を寄せてきた。


 瑠璃色の蝶とはまるで違うのに、ふと、向日葵のような笑顔を浮かべる彼女のことが蘇った。決別から一週間が経っても、胸に張りついた重苦しい気持ちは薄れていない。


 あの夜、朔がわたしを助け出してくれたあと、幻術師たちにより速やかにわたしが囚われていたあの建物の消火が行われた。火は半刻ほどで消し止められたが建物は全焼しており、焼け痕からは性別不明のふたりの遺体が見つかった。そのまま幻術師たちによる検視が行われ、遺体の身元は月雲朧と藤花蝶子だと判明したらしい。


 その後の調べで、朧さんは一連の令嬢の連続殺人に加え、三年前の藤花家一家殺人事件の犯人と推定されたが、朧さんが拠点としていた建物が燃えてしまったために断定に至るまでの証拠は見つからず、被疑者死亡を皮切りに事件は幕を閉じてしまった。


 わたしの流した人魚の涙で動いていたあの心臓も、一緒に燃えてしまったらしい。朔は心臓が保管されていた部屋があった場所に残された灰をかき集めて、最後の被害者の家に渡してくれたようだ。薫子さんのあとにさらにひとり、犠牲になっていた令嬢がいたのだという。


 わたしも一連の事件に深く関わった被害者のひとり、と言えるのだろうが、話を聞いてもなんだか実感が湧かないことのほうが多かった。こうして月雲邸で過ごしていると時折、あの二週間のことは夢の中の出来事のように遠く思えることがある。まるで別の人生を生きていたような感覚だ。


 それでも確かに体の傷も心の傷も残っているのだから、あれは現実のことだったのだろう。一週間の治療を経て体の傷についてはずいぶん癒えているが、いまだに声は出なかった。


 朔にも桜木さんにも、他の幻術師にも診てもらったが、朧さんの幻術は解けており、声が出ない原因は精神的な負担によるものではないかという見立てに落ち着いていた。蝶子さんが出したあの瑠璃色の蝶が消失したように、幻術は基本的に術者が亡くなると解けるものらしい。幻術で一時的に朧さんに声を取られたのは事実だが、その効果はもう消えているはずなのだという。


 まずは焦らずにゆっくりと休養することが肝要だと、誰もがいった。その言葉に甘えて、こうしてすずさんやりんさんとともに談笑する穏やかな日々を送っているのだ。


「千花」


 ふいに慈しむような響きの声に呼びかけられ、はっと顔をあげる。いつのまにか、寝台のそばの椅子に兄さまが腰かけていた。この一週間、こうして考えごとに耽っているあいだはまるで周りのことを気にかけられず、いつの間にか誰かが訪ねてきていたり、食事の支度が整っていたりといったことが多くて驚いてしまう。相手には、悪いことをしていた。


「様子を見にきたよ。難しい顔をしてどうしたんだ」


 くすぐるように、兄さまはわたしの頬を折り曲げた指先で撫でた。まるで小動物にするようなその仕草に、ふ、と頬を緩めてしまう。


 わたしが朧さんに攫われているあいだ、わたしの捜索が最優先されたせいで、兄さまの治療は一時中断されていたのだという。わたしが戻ってきた翌日から治療は再開されたが、いちど休んでしまったせいで治療全体の期間自体は予定より伸びてしまったらしい。兄さまにも迷惑をかけてしまった。


「何か甘いものでも食べようか」


 甘やかすような兄さまの言葉は嬉しい。だがどうしても食欲が湧かず、静かに首を横に振った。今は、すずさんたちが運んできてくれる三度の食事を半分ほど食べるだけで精いっぱいなのだ。


「そうか、もちろん、食べたくなったらでいいんだ」


 兄さまは安心させるように微笑み、頭を撫でてくれた。兄さまからはいつも薬の匂いがしていたが、それがすこしずつ薄れていることが嬉しい。着実に病状が改善している証だった。


「このあいだ、どうしても用事があって浅海の家に戻ったんだ。そのときにすこしだけ海辺を歩いて……綺麗な貝があったから拾ってきた」


 そう言いながら兄さまは、懐から折り畳まれた布を取り出すと、わたしの膝の上でそれを広げてみせた。中には桜色の二枚貝の片方や、巻貝が包まれている。内側はどれも虹色に輝いていた。


 あんまり綺麗で、思わず貝を摘んで日の光にかざしてみる。螺鈿の煌めきは人魚の涙の光にもよく似ているのに、不思議と嫌いではなかった。何より、兄さまが砂浜でこれを見つけ、わたしのためにわざわざ身をかがめて拾ってきたのかと思うと、それだけで心がじわりと温かくなる。


 思わず、満面の笑みを浮かべて兄さまの手を握る。感謝の気持ちが伝わったのか、兄さまもすぐに柔らかく握り返してくれた。


「喜んでくれてよかった。……お互いに体が回復したら、また砂浜を散歩しよう」


 思えば心中を図ったあのとき以外に、兄さまと海辺を歩いたことはなかった。お互いに病と能力のために浅海邸に囚われていたのだから無理もない。


 大きく頷いて、そっと兄さまの手に頬を擦り寄せる。この手は決してわたしを傷つけない、優しい手だ。


「千花さま、藍さま、旦那さまがおかえりです。桜木さまもご一緒のようですが、お通ししてよろしいですか」


 りんさんが、慎ましく頭を下げながら報告してくれる。兄さまはあからさまなため息をついた。


「またあの騒がしい奴が来たのか……」


 桜木さんはこのところ、何かにつけてお見舞いにやってきてくれる。賑やかなぶんには気が紛れるので大歓迎だが、兄さまにとっては苦手な相手なのだろうと思う。兄さまの今までの人生にはおそらく登場してこなかった類のひとだ。


「疲れていないか? 千花。すこしでもつらかったら断りなさい」


 わたしの手を両手で包み込んで、兄さまはわたしの顔を覗き込んだ。すこしもつらくはない。むしろ、桜木さんがきてくれるとほっとするのだ。


 にこりと微笑んで首を横に振ると、意図を汲んでくれたらしいりんさんが早速ふたりを呼びにいった。すぐに階段を登るふたりぶんの足音が近づいてくる。


「千花ちゃん! お見舞いにきたよ!」


 扉を開けるなり、賑やかな声が響き渡る。言うまでもなく桜木さんだ。脇には花柄の包み紙が巻かれた小箱を抱えている。


 寝台に座ったままの状態でぺこりと頭を下げると、桜木さんはにこにこしながらそばへ寄ってきた。そうして、抱えていた小箱をわたしに差し出す。


「これ、千花ちゃんにあげる」


 兄さまからいただいた貝殻を割らないように注意しながら、小箱を膝の上に乗せる。包み紙を解くと、木箱が現れた。その蓋をそっと開いてみる。


 そのまま中に入っていたものを、そっと摘み上げた。ちょうどよく窓から吹き込んだ風で、りんと音が鳴る。


 それは、金魚鉢を模した風鈴だった。丸い硝子の中に、紐でくくりつけられた赤い金魚の硝子細工が揺れていて、風が吹くたび金魚が硝子にぶつかって音が鳴る仕組みになっている。


「夏も折り返しだけど、飾ってくれたら嬉しいな」


 お見舞いでもらうには少々気が引けるような、すてきな品だ。桜木さんに再び頭を下げ、感謝の気持ちを込めて笑みを送る。


 桜木さんには、朔の治療をはじめ、この月雲邸の修復にも尽力してもらったようで、このところお世話になりっぱなしだ。けれど決して恩着せがましい態度はなく、へらへらと笑いながら「合法的に月雲の家に入り浸れて嬉しいよ」などと言っているのだから本当に頭が上がらない。


 風が吹き込む方向に風鈴をかざして、音を楽しむ。りん、りんと繰り返し響いても耳に痛くない、優しい音色の風鈴だった。


「そんなに気に入ってくれたなんて照れちゃうな」


「よかったな、千花」


 桜木さんと兄さまの口々の声かけに、にこりと微笑んで頷く。


「桜木にしては悪くない品だな」


 揶揄うような声とともに、ふっと、高く掲げたわたしの手を支えるように大きな手が触れる。その拍子に一瞬だけびくりと肩が跳ねた。


 ……気づかれて、ないかしら。


 恐る恐るふたりの様子を伺ってみるも、会話に注意が向いていたようで気づかれていないようだった。兄さまだけが、はっとしたようにわたしを見つめている。その視線から逃れるように、慌てて俯いた。


「ひどい言い草だな、月雲。これでも女性への贈り物には自信があるんだ」


「あれだけ見境なく声かけしていたらそうなるか」


「やめてくれよ! 千花ちゃんの前で!」


 朔は桜木さんとの会話を適当に切り上げると、微笑みながらわたしの顔を覗き込んだ。


「お嬢さま、よろしければあの窓に飾りつけます」


 いつも通りの、優しい朔の笑みだ。だが、自分の意思に反して体ががちがちに固まってしまった。声が出せないのは救いだったかもしれない。


「……お嬢さま?」


 だが異変には気づかれてしまったようで、朔は心配そうに眉を下げてわたしに手を伸ばした。その手が近づくほど、息ができなくなるような苦しさに襲われる。


「――いや、ぼくが飾ってやろう」


 助け舟を出すように、ふわりと背後から兄さまに抱きしめられる。そのまま兄さまはわたしに伸ばされた朔の手を遮るようにして、わたしが持つ風鈴を受け取った。

 その拍子に、兄さまは他の誰にも聞こえないような声でわたしに耳打ちした。


「……ちゃんと息をしなさい、千花」


 風鈴を持つ手とは反対側の手で、兄さまが背中を撫でてくれる。その瞬間に、凍りついていた胸にじわりと熱が広がって、まともに息ができるようになった。


「病人は大人しくしていたほうがよいのではありませんか」


 すっと目を細めて、冷ややかな声で朔は兄さまに嫌味を言う。兄さまも負けじとわたしの耳もとでくすくすと笑った。


「気づいていないか? ぼくのほうがお前より一寸ほど背が高い。ぼくが飾ってやったほうが手間にならないんじゃないかと思って申し出てやったんだが」


「そうですか、そんな些事を気に留めるような暇はあいにくありませんでしたので」


 まあまあ、と横で桜木さんがふたりをなだめている。いつも通りの応酬に、普段であればくすくすと笑うところだが、ぎこちない笑みを取り繕うので精いっぱいだった。


 風鈴を受け取った兄さまが、早速窓辺に飾りつけに行ってくれる。そばにはすずさんがついて、手伝ってくれているようだ。


「お嬢さまは、今日はお変わりありませんでしたか」


 わたしの寝台を挟むようにして、桜木さんの向かい側の椅子に腰掛けた朔は、穏やかに尋ねてきた。こくりと頷きながら、無理やり口角を上げて微笑む。


「千花ちゃん、聞いてよ。今日も月雲が俺に当たり強かったんだよ!」


「お嬢さまにくだらない話をお聞かせするな」


「ほら、ひどいんだよ。お昼のときだってさあ……」


 ふたりの他愛もない話を聞くのは好きだ。この場所に、戻ってきたいとずっと願っていた。


 それなのにこのところ、朔がそばにいるだけで心臓がばくばくと暴れて落ち着かないのだ。


 それが、恋に由来するときめきのせいだったらどんなによかっただろう。初めは久しぶりに会ったのだから新鮮に感じて緊張しているだけかと思ったのだが、うまく息ができなくなることといい、体がこわばることといい、朔に対するまっとうな反応とは思えなかった。


 ……あの、悪い夢のせい、よね。


 頭の中でははっきりと、悪夢の中で何度もわたしを殺した朔と、こうしてそばにいて優しい言葉をかけてくれる朔は別物だと理解している。それでも、体が勝手に逃げようとするのだ。死神がわたしに残した傷は、考えていたよりもずっとずっと深いようだった。


 けれどそれを朔に悟られたくなくて、こうしてなんとか笑みを浮かべて耐えている。おそらく、時間が解決してくれるはずだ。帰ってきてまだ一週間しか経っていないから、この朔があの夢の中の朔とは違うのだという実感が湧かないだけで、だんだんと悪い夢の記憶は薄れてくれるはずなのだ。ぼろぼろになって、二週間まともに眠らずにわたしを探し続けてくれていた朔に、これ以上心配をかけたくない。


「千花、疲れたんだろう。そろそろ休みなさい」


 どのくらい、考え込んでいただろう。兄さまの声にはっと顔をあげると、三人の注目がわたしに集まっていた。せっかく桜木さんが来てくれたのに、話を聞き流してしまっていたのだと気づき、申し訳なさが込み上げる。


「本当だ、すこし眠そうだね? じゃあ俺は月雲と一緒に屋敷の修繕の仕上げをしてこようかな」


 桜木さんはにこにこと笑ったまま席を立つ。朔もそれに合わせて立ち上がり、穏やかな笑みを浮かべた。


「ゆっくりおやすみください。また様子を見にきます」


 ……朔。


 彼はこんなに優しくしてくれているのに、密かに怯えている自分が情けなくてたまらなかった。早く、あの夢を頭の中から追い出したい。やっぱり張り詰めたような笑みを返し、ふたりを見送ったあとに思わず頭を抱えた。


 すずさんとりんさんも屋敷の修繕の手伝いに行ったようで、部屋の中にはわたしと兄さまだけが残される。久しぶりに新鮮な息を吸えたような気がした。


「千花……あいつと何かあったのか?」


 兄さまは寝台の縁に腰掛けると、眉を下げてそっとわたしの頬を撫でた。同じ男性の手でも、兄さまの手は、怖くない。桜木さまの手も平気だ。いちばん触れたい朔の手だけが、恐ろしかった。


 声が出せないので、あの悪夢のことは誰にも話せていなかった。わたしが一時的に視力を失っていたことは、兄さまも朔から聞いて知っているようで、わたしが声を出せないのはその精神的負荷によるものだろうと解釈しているはずだった。


 けれど、これ以上ひとりで抱えていられず、思わず兄さまの手に縋った。驚いたように、兄さまの指先が震える。


「千花……?」


 そっと、兄さまの手を自分の膝の上に乗せ、手のひらを上向けた。兄さまの大きな手のひらに、そっと指で文字を書く。一瞬だけくすぐったそうに兄さまの指が震えたが、じっと耐えてくれている。伝わりやすいように、なるべく短い言葉を選んだ。


「わ、る、い、ゆ、め……?」


 一文字一文字を拾い上げて兄さまは読み取ってくれた。確かめるようにわたしを見つめる兄さまに、こくりと頷く。同じ調子で文字を書き続けた。


「死神が……みせた……」


 またしても兄さまはいちどで読み取ってくれた。兄さまは怪訝そうに眉を顰める。

「あの死神が……きみに悪い夢を見せたのか。どんな?」


 ほんの少しの間躊躇ってから、再び兄さまの手のひらに「朔に何度も殺される夢」と書きつけた。兄さまは一瞬の間をおいて、すぐにわたしの指先を握りしめた。


「……死神とやらは本当に悪趣味らしいな。それだけ千花の涙が欲しかったのか」


 実に効果的な方法だったとわたしも思う。兄さまは珍しく苛立ちをあらわにしていた。


「ぼくのせいだな。ぼくの治療のために、きみは人魚の涙の能力を手放さなかったんだろう。そのせいできみは死神に目をつけられて、攫われたも同然なのに……そんな悪夢まで見ていたなんて」


 頭を抱えて悔やむような息を吐く兄さまの肩に、慌てて手を添える。


 知らなかった。兄さまがそんなふうに考えていたなんて。


 死神がどこからわたしの涙の力を知ったのかはわからないが、仮にわたしが朔と想いを通わせた直後に人魚の涙を流す力を手放していたとして、死神はその事実には気づかなかっただろう。人魚の涙の力を知られた時点で、わたしを攫うことに変わりはなかったのだと思う。むしろ、攫われたあとに人魚の涙を流す力がないと発覚してしまったら、生かしておく価値はないと判断されて、それこそわたしは蝶子さんの新しい心臓になっていたかもしれないのだ。


 声が出せない状態でその考えを詳しく説明することもできず、首を横に振りながら兄さまに抱きついた。兄さまに、ご自分が生きていることに後ろめたさなんて絶対に感じてほしくない。


「千花……せめて、ぼくにできることはなんでもする。何をしてほしい?」


 わたしの肩を掴んで、兄さまは切実に問いかけてきた。その優しさだけで、今のわたしには十分だ。時間が、解決してくれるはずなのだから。


 兄さまの手を再びとって、「そばにいて」とだけ書き記した。兄さまはその手のひらをしばらく見つめたあと、噛み締めるようにぎゅう、と指先を握り込んだ。


「わかった。できる限りそばにいる。……早く、元通りになれるといいな」


 あまりに意外な言葉に、思わず目を丸くする。


 ……まさか、兄さまがわたしと朔を応援するような言葉を口にするなんて。


 今日だって、今まで通りに嫌味の応酬しかしていなかったというのに、いつの間に心変わりしたのだろう。まじまじと兄さまを見ていると、兄さまはふい、と視線を逸らしてしまった。


「これでも、攫われる直前の千花とあいつの姿を見ているのは悪い気分ではなかったんだ。相手があいつなのはもちろん気に食わないが……千花が、隣にいて幸せだと思えるのはあいつなんだろう。千花が笑っているなら、それでいい」


 知らなかった。兄さまがそんなふうに考えてくれていたなんて。


 再びぎゅう、と兄さまの腕に抱きつく。兄さまは照れたように笑って、わたしの頭を撫でてくれた。


 ……兄さまを安心させるためにも、早く元通りにならなくちゃ。


 朔とは何度も苦難を乗り越えてわかりあえたのだ。今回だってきっと大丈夫なはずだと、自分を励ますように言い聞かせた。

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