第七話

 その夜、ずいぶん月が高くなってから、彼は八重さんを連れて屋敷に戻ってきた。


 わたしはりんさんたちのすすめで湯浴みを済ませたあとだったが、心も体もまるでほぐれていない。せっかく三人でつくったおにぎりの味も、結局わからないままだった。


 水野さんと瀬戸さんに引きずられるようにして居室に連れてこられるなり、八重さんは床の上に崩れ落ちた。


 同時にばらばらと、彼女の懐から人魚の涙がこぼれ落ちる。ころころと転がりながら、それは場違いなほど鮮やかに虹色の光を放っていた。


「お嬢さまに罪を告白しろ。お嬢さまの持ちものを盗んだのだ。ただでは済まないと思え」


 いつになく冷たく苛立った声で、彼は八重さんを見下ろしていた。足腰を痛めている相手に、あんな体勢はかわいそうだ。


「待って……せめて、椅子に座らせてあげて。八重さんは、足腰が痛いのよ」


 思わず椅子から滑り降りるようにして、絨毯に膝をつく。懇願するように彼を見上げるも、薄水色の瞳はうんざりするようにわたしを一瞥しただけで、まるで取りあってくれなかった。


「お嬢さま、それもこの者の嘘です。化粧で化けていますが、本当はまだ足腰は丈夫な四十後半の女だったようです。現に、この者を見つけたときには、何の障りもなく滑らかに歩いていました」


 とてもじゃないが、六十は過ぎているように見える。八重さんの化粧の腕前は相当なものらしい。足腰を痛めている振る舞いだって、まったく違和感を覚えなかった。


「お嬢さまのものを盗んだのです。お嬢さまが処遇をお決めください」


 びりびりと彼の苛立ちが伝わってくる。いつもは柔らかな屋敷の空気が、息もつけないほど張り詰めていた。特にりんさんとすずさんは怯えたようにそっと身を寄せあっている。


「せめて……三人で話しましょう。こんなふうに、見せしめにする必要はないわ」


 八重さんは使用人たちの中でもいちばんの年長者だ。こんな姿を、りんさんたちに見せ続けたくない。


 彼は何か言いたげに唇を開きかけたが、眉を顰めながら視線を伏せると、低い声で彼らに命じた。


「……聞こえただろう、お前たちは下がれ」


 りんさんたちは心配そうにわたしたちを見つめたのち、お辞儀をして部屋から出ていった。


 三人きりの部屋のなかに、重苦しい沈黙が漂う。けれどわたしが口を開かなければ話が進まないような気がして、思いきって八重さんに問いかけた。


「……どうして、真珠を盗んだの? お金が、必要だった?」


 何か、急ぎでお金を用意しなければならない事情ができたのだろうか。そっと八重さんの顔を伺うように見つめると、彼女は両目にじわりと涙を滲ませた。


「千花さま……どうか、どうかお許しください! ついこの間、孫が生まれたのですが……重い病が発覚して……幻術師さまの治療を受けねばならず、お金が必要だったのです」


「お孫さんが……?」


 幻術師による治療は確かに効果が高いが、そのぶんかかる費用も莫大なものとなると聞いた。誰も彼もが治療を受けられるわけではないのだ。


「そこで、千花さまの真珠を見つけ……魔が差してしまったんです。ほんの、出来心だったのです!」


 泣きじゃくる八重さんの口もとを、ふいに彼の手が塞いだ。黒手袋をつけた指先は、容赦なく八重さんの頬に食い込んでいる。


「いい加減にしろ。お前に子も孫もないことは調べがついている。お嬢さまを愚弄するのも大概にしろ」


 ふたりは、しばらく睨みあっていた。やがて八重さんはすっと涙を引っ込めたかと思うと、無理やり彼の手を振り解き、床に唾を吐いた。


 一瞬で、心優しい老婆の顔から、年相応の衝動を秘めた意地の悪い笑みに変わる。


「はっ……路地裏で転がっていたガキが偉くなったもんだね。仕えていた令嬢を妻に迎えていい気になっているんだろうが、あんたの本性は薄汚い乞食のまんまさ」


 ひどい言葉の連続に、思わず目を丸くする。彼が苛立ちを隠しもせずに舌打ちするのがわかった。


「そうか、帝都の裏路地の作法を持ち込む気ならこちらもそうさせてもらおう。二十回の鞭打ちの上で運河に放り投げてやる。それが裏路地の盗人への罰だったな」


 恐ろしいことを言いながら、冷たく笑う彼は知らないひとのようだった。八重さんの瞳に、一瞬怯えの色が混じる。


「その反応……盗みを繰り返していたのは本当のようだな。鞭の味を既に知っているらしい。罰を受けても学習しない者は獣と同じだ。人間が作った文明の利器でいっそ殺してやろうか」


 彼は黒い外套から、見慣れない鉄の塊を取り出した。噂にしか聞いたことがないが、あれは幻術師が使うという武器――拳銃ではないだろうか。


 あれで撃たれると、どんなに屈強な人間でもたちまち絶命してしまうと聞いた。そんな物騒なものを彼が持ち歩いていたなんて驚きを隠せない。


「お嬢さま、どうぞお部屋にお戻りください。あとはぼくが始末しておきます」


 彼は拳銃を構えたまま、わたしのほうを見向きもせずに告げた。このまま立ち去れば、どうなるかなんて目に見えている。彼がそんな残虐なことをできるとは思いたくないが、引き金を引いてもおかしくないと思うような怒りが彼から伝わってきた。


「待って……! 八重さんの処罰はわたしに決めさせてくれるのでしょう? 勝手に決めないで!」


 拳銃を構える彼の腕にそっと手を添えて、まっすぐに彼を見上げる。


 彼は、吐き捨てるように薄く笑ってみせた。乱雑な言葉で話していたせいか、いつもよりすこし所作が乱暴だ。


「お嬢さまのことだ……どうせ見逃すのでしょう。この手の輩は繰り返しますよ」


「でも、もうしないかもしれないわ。そう信じることもできる」


「お手本のような綺麗事ですね」


「そうね、でも許しを与えることができるのは人間だけよ」


「っ……」


 彼が、ぐ、と息を呑むのがわかった。言ってしまってから、自分の言葉が意図しないかたちで彼を傷つけたかもしれない可能性に気づく。


 それについて弁明するのは後だ。場の主導権を握った今のうちに、彼女の処分を言い渡すべきだろう。


「八重さん……盗みは、許されない罪だわ。悪いけれど、この屋敷にこれ以上置いておくことはできない。今夜中にここから出ていってもらうわ」


 元々彼女はそうするつもりだったのかもしれない。そのつもりで、部屋から姿を消していたのだろう。人魚の涙を売って、その裏路地とやら生活するつもりだったのだ。


「それは願ったり叶ったりだね。これ以上こんな屋敷にはいられるかってんだ。あんたも、考え直したほうがいいんじゃないかい? 子でも孕まされたら、逃げられなくなるよ」


「お前っ……お嬢さまになんてことを……!」


 怒りをあらわにする彼を何とか手で制して、八重さんを見つめる。


 確かに、こんな過激なことを言われたのは初めてだ。地獄のような世界で生きていたと思っていたが、あれでも温室の中だったのだと知る。


「ご助言どうもありがとう。でも、わたしのことはわたしが解決するわ」


 床に屈みこみ、あたりに散らばった人魚の涙を数粒拾い集める。それを、そっと八重さんの手に握らせた。


「……すくないけれど、持っていって。おそらく、あなたの想像以上の値段で売れるはずよ。これを元手に、これからはまっとうに生きてほしいの」


 八重さんは、これ以上ないほどに目を見開いていた。動揺を表すように瞳が揺れている。


「馬鹿なお嬢さんだ。こんなの……明日明後日の酒代にしておしまいさ」


「わたしは信じたいの。あなたの本質は、わたしに見せてくれたあの優しさだって。……過去に盗みをしたのなら、きっとその人たちに償って」


 真珠を握る彼女の手が震えている。吐き捨てるように、彼女は乾いた笑い声を上げた。


「こういう生き方しか知らずに生きてきたんだよ……今更、どうやって……」


「そういう生き方しか知らなかったからこそ、彼はあなたに手を差し伸べたのではなかったの? あなたは『旦那さまに恩がある』って言っていたでしょう。あなたは……いちどその期待を裏切った。二度は、許されないことだわ」


 震える彼女の手を、そっと両手で握り込む。あかぎれだらけの、水仕事をしている手だった。


 この手が、あのおいしい料理を作り続けてくれたのだ。適当な仕事をすることだってできたのに、そうはしなかった。それこそが、彼女の本質で、良心が生きている証だと思いたい。


「償いながら生きるのは、怖いことよね。でも、あなたはきっとそれができるわ。そう、信じてる。……わたしも、頑張るから」


 一生をかけて、彼に償い続けるから。


 悲しいのか、驚いたのか、よくわからない感情のまま、気づけば頬を涙が伝っていた。それは次々に真珠へ変わり、こんこんと床に落ちていく。八重さんにあげたぶん以上の涙が、あっという間にあたりに散らばった。


「あんた……」


 八重さんは、息を呑んでわたしを見ていた。この真珠の正体に気がついたのだろう。


 ふっと、床に崩れ落ちるわたしたちの上に影がかかる。彼が近寄ってきたのだ。


「ここから出ていけ。ぼくの気が変わらないうちに」


 八重さんは怯えたようにびくりと肩を震わせると、わたしが握らせた真珠を強く握りしめて、逃げるように部屋から飛び出していった。どたどたと、足音が遠ざかっていく。


 彼は、いちどだけ大きなため息をつくと、くるりと踵を返した。そのまま何も言わずに、部屋から出ていってしまう。


「待って……!」


 先ほど意図せずして彼を傷つけたことを、謝りたかった。


 許しを与えられるのは人間だけだ、なんて、裏を返せばわたしに復讐している彼は獣のようだと言っているようなものだ。それは、わたしに猫の代わりとして飼われていた彼に対してはいちばん言ってはいけない言葉だった。


 泣きながら彼のあとを必死に追いかける。彼は早歩きをしているだけなのに、なかなか追いつかなかった。


 転びそうになりながら階段を駆け上がり、なんとか彼の部屋の前で腕を掴むことができた。


 腕を振り払われることはなかったが、うんざりしたような薄水色の瞳がこちらに向けられる。暗がりの中でも、彼の瞳は不思議なくらいによく見えた。


「離してください」


「ごめんなさい、でも、あなたにちゃんと謝りたくて――」


 縋るようにそう告げた瞬間、彼に思いきり腕を掴まれた。そのまま引きずられるように、部屋の中に連れ込まれる。


 ばたん、と扉が重たい音を立てて閉まったのと同時に、寝台の上に放り投げられた。カーテンが開け放たれたままの窓から、眩しいほどの月明かりがさしている。


「本当に、お嬢さまの清らかさには嫌気がさします。……あなたの清廉さを見せつけられるたび、ぐちゃぐちゃに穢してやりたくなる。どうすれば、お嬢さまはぼくと同じところまで堕ちてきてくださるんでしょうか」


 彼は黒手袋を脱ぎ捨てると、わたしに覆い被さるような姿勢で、頬に触れた。先ほどまでとは裏腹に、くすぐったいほど丁寧な仕草なのに、背筋がぞわりとする。


「堕ちる……だなんておかしなことを言うのね。あなたはすばらしい高みにいるひとだわ。帝都の英雄でしょう」


 多くの人が彼に憧れているだろうに、彼は何を言っているのだろう。いまいち意味を図りきれなかった。


「先ほどの応酬を見たでしょう。元はああいう穢れた世界で生きていた人間です。本質は変えられない。現にこうして、お嬢さまを買い取っていいようにしているではありませんか」


「それは……そういう契約なのでしょう。わたしを買った以上、あなたにはそうする権利があるわ」


「この状況でよくそんなことを言えますね。そんなふうに煽って、ぼくが無理やりお嬢さまを組み敷いたらどうするのです? ――閨で男女が何をするかもろくに知らない箱入り娘のくせに」


 吐息を溶かし込むように、彼は耳もとで笑った。ぞわり、と甘ったるい寒気が背筋を抜けていく。


「夫婦になったことですし、試してみましょうか? 今日のような夜は、あなたを抱きしめればよく眠れそうだ」


 彼の指先が、首筋をなぞる。触られた箇所が、びりびりと痺れるようだった。


 返す言葉もないままに、彼の顔が近づいてきた。はっとして、思わず顔を背ける。それだけは、駄目だった。


「ごめんなさい……くちづけだけは、許して」


 彼も知らない人魚の涙の秘密。


 それは、真実の愛を通わせる相手からのくちづけで、人魚の涙を流せなくなるというものだった。


 それこそあの人魚の姫君のお伽話のように浪漫のあるお話だが、人魚の涙にしか価値を見出されていないわたしにとっては命取りとも言える問題だ。


 そもそも彼とわたしのあいだに真実の愛などないのだろうから、くちづけても問題はない可能性は高いが、すくなくともわたしは彼が好きだ。それは、昔から変わらない親愛にも似た好き、だった。お伽話と違って、真実の愛とやらが恋情に由来するものだけとは限らないだろう。危険な橋は渡りたくない。


 彼は、ふ、と息が漏れるような笑い声を漏らしたかと思うと、そのままおかしくてたまらないとでもいうようにくつくつと笑った。あの柔らかな灯りがないせいで、彼がどんな表情で笑っているのか確かめる術はない。


 彼は笑いながらわたしの上から退くと、どこか自嘲気味に震える長いため息をついた。彼の様子を伺うように、わたしもゆっくりと体を起こす。


「出ていってください」


 静かな、落ち着き払った声だった。その冷静さが却って、彼の怒りをあらわにしているようでならない。わたしのような人間にくちづけを拒否されるなんて、屈辱に決まっているだろう。


「ごめんなさい……その、これには訳があるの」


 今後のためにも、この機会に彼には説明しておくべきだろう。彼は生涯をかけて人魚の涙の主人となるひとなのだから。


「今は聞きたくありません。どうぞお部屋へお戻りください」


 とりつく島もない返答に、息が詰まる。完全に彼の気に障ったようだ。


 これ以上の謝罪もしつこいような気がして、何も言えなくなる。わずかに乱れた浴衣を直し、黙って扉へ向かった。


 立ち去り際に、いちどだけ彼を振り返ってみる。月影の中で、薄水色の瞳は射殺さんばかりにわたしを睨みつけていた。


 それなのに、どうしてだろう。彼が泣いているように見えたのは。


 彼のもとへもういちど駆け寄りたい衝動に駆られて、ぎゅ、と指先を握り込む。これ以上は、彼の迷惑になるだけだ。


「……おやすみなさい」


 すっかり習慣になりつつあるその挨拶に、返事は返って来なかった。


 首筋の疼きだけを抱えたまま、自分の部屋に向かって走り出す。途中で涙が一粒、真珠になって落ちたような気がした。

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