第六話
月雲家の台所は、浅海家の離れに備え付けられていた台所よりもずいぶんと広く、見慣れないものがたくさんあった。ここにもやはり術具が用いられているようで、水を汲み出すのはもちろんのこと、食材の保管庫にはひやりと冷気が漂っていて驚いてしまった。
「夏には氷を作ることもできるのです。もうすこし暑くなったら、氷菓子を作りましょう」
りんさんはざっと設備の説明をしながら、そう提案してくれた。この屋敷で夏を迎えられるかもしれないと思うと、心がとんと弾む。想像しただけで楽しそうだ。
……だめね、これではまるで復讐になっていないわ。
何かを楽しみにしたり、待ち望んだりすることは、復讐のために買われた花嫁として相応しいとは思えないのに、どうしてもとめられない。それだけ彼もりんさんたちもわたしに優しくしすぎているのだ。
大量の白いご飯は、粗熱を取るために重箱に薄く敷き詰められていたようで、おにぎりにするにはちょうどよかった。すずさんたちが保管庫から次々と具材を運んでくる。
「すぐにお出しできるのは梅干しくらいですね……」
「わたし、鮭を焼きます!」
わたしとりんさんは梅おにぎりを、すずさんには鮭おにぎりにするための鮭を焼いてもらうことにした。すずさんが塩を使いすぎないように時折注意を払いながら、せっせとおにぎりを握り続けた。
いざ台所に立ってみてわかったことだが、りんさんは料理となるとかなり不器用なようだ。食事の支度をすずさんに任せていたのはそのせいだろう。見ていてひやひやとする。とても包丁は持たせられなかった。
「りんは、澄ました顔をしていますが不器用なんです」
鮭を焼きながら、すずさんが悪戯っぽく微笑む。りんさんが、どうしても丸くなるおにぎりと格闘しながらすずさんを睨みつけていた。
「余計なことは言わないでいいのよ、すず」
仲のいい姉妹だ。会話を盗み聞きながらわたしもくすくすと笑ってしまう。
思えば、同世代の娘とまともに交流するのは彼女たちが初めてだった。たまや兄さまと過ごすときとはまた違う、弾むような楽しさがある。女学校に通っていたら、これが日常だったのだろうか。
……こんな楽しい思いまで、味わわせてくれるなんて。
やっぱり、復讐になっていないような気がしてならない。傷が増えるどころか、癒えていくばかりの毎日だ。
三人でせっせと手を動かした結果、三段重ねの重箱いっぱいのおにぎりができた。これとは別に八重さんに持っていくためにお皿に分けたおにぎり三つもあるので、かなりの量だ。
「水野さんたちにたくさん食べてもらわないとね」
「そうですね……後で持って行きましょう」
それでもまだまだあまりそうなので、夜ご飯もおにぎりで決定だ。彼は出かけた日には外で食べてきているようだから、りんさんたちとわたしでわけあえばいいだろう。
お盆にお皿に乗ったおにぎりとお茶を乗せ、八重さんの部屋を目指す。お盆はすずさんが持ってくれた。
使用人部屋がある区画は、屋敷の他の場所より日当たりが悪いようで、昼間でもどこかひんやりとしていた。
「ずいぶん涼しいのね。冬は寒くないかしら」
「旦那さまが、術具を使った暖房器具をそれぞれの部屋に置いてくださっているので、寒くはありません。他にも、厚手の毛布や湯たんぽも支給してくださるのですよ」
りんさんが、頬を緩めて答える。彼は本当に、彼女たちに慕われているようだ。
「そう……」
わかっていたことだが彼は使用人たちをとても大切にしているようだ。わたしにちゃんと復讐ができていないのは、彼らの目を気にしてわたしを傷つけていることをためらっているからなのだろうか。
「ここが八重の部屋です。……八重さん、千花さまがお見舞いにいらっしゃいましたよ」
りんさんが扉の向こう側に話しかける。返事は返ってこなかった。
「眠っているのかしら……?」
だとしたら起こすのはかわいそうだ。せっかく休んでいるのだから、そっとしておくほうがいいかもしれない。
「念の為、静かに入って様子を見てきます。倒れていたりしたら嫌ですから」
りんさんの言うことはもっともだ。その役目はりんさんに任せることにして、わたしとすずさんは廊下で待つことにした。
……あんまりひどかったらお医者を呼ばなくちゃ。
彼に断りもせずに呼ぶのは少々躊躇われるが、命には代えられない。やけにしんと静まり返った空気が不気味で、りんさんが戻ってくるのをじっと待った。
「千花さま……どうかお入り下さい。すずも、入って」
そう告げたのは部屋の主人ではなく、りんさんだった。震えるような声が不穏で、おそるおそる開きかけた扉を大きく開ける。
部屋の中は、こじんまりとしていた。カーテンが閉ざされたままであるせいか、薄暗い。窓辺に設置された低い寝台には、乱れたままの毛布が放置されていた。
肝心の八重さんの姿は、どこにもない。
「……どこかへ、出かけたのかしら……?」
基本的には医者にかかるには往診を頼むしかないが、帝都にはいくつか医院もあると聞く。
八重さんは、ひとりで医院に出かけたのだろうか。あの小さな背中がひとりぼっちで帝都の雑踏の中を歩く姿を想像して、胸が痛くなった。もっと早く声をかければよかったのだ。
「いえ……千花さま、こちらを」
りんさんは、小さな書物机の上を指差した。
そこには、蓋が開けられたままの薄水色の小箱があった。午前中ずっと、探していた物だ。
「これは……千花さまがお探しだった小箱ではありませんか?」
思わず、手に取ってみる。薄水色の布に草花の刺繍が施されたその豪華な小箱は、まさにわたしが探していたものだ。中にあったはずの人魚の涙は、一粒も残されていない。
「そうよ。どうして……八重さんのお部屋に? 八重さんが、見つけてくれたのかしら……」
そっと、布張りの小箱を撫でてみる。そんなわけないと、心のどこかで気づいていた。
「千花さまのおっしゃっていた真珠が、ひとつも見当たりません。……これは、窃盗です。八重は、千花さまの持ちものを盗んだのです」
りんさんは、躊躇いなくそう言い放つと、わたしの背後に立つすずさんを見据えた。
「すず、水野さんに伝えて、旦那さまに連絡を取ってもらいなさい。八重が、千花さまの持ち物を盗んで逃げた、と」
「わ、わかった……!」
お盆を持ったままのすずさんは、おろおろと狼狽えながら扉のほうへ歩き出した。
「待って!」
考えるよりも先に、声が出てしまう。ふたりの視線が肌に突き刺さるのがわかった。
「盗みだなんて……まだわからないわ。ひょっとしたら、わたしが真珠をしまい忘れたのかも……」
「千花さま」
りんさんが、焦ったように声を詰まらせる。わたしがどれだけ筋の通らないことを言っているかわかっているつもりだ。
でも、もし人魚の涙を盗んだことが発覚したら、八重さんはきっと今まで通りではいられないだろう。
それが、どうしても嫌だった。あんな真珠で、これ以上人生を狂わされるひとを見るのは嫌なのだ。
「千花さま、申し訳ありませんが、屋敷内で起こった犯罪です。わたしたちは旦那さまに報告する義務があります。……箱の中に真珠はなかったとしても、千花さまの持ちものであるこの小物入れを自室に持ち込んだのは紛れもない事実でしょう。いずれにせよ八重から事情を聴取する必要があります」
りんさんの言うことはすべて正しい。あの人魚の涙だって、彼にあげるものだったと思えば、彼の持ちものが奪われたも同然なのだ。
りんさんはそれ以上わたしの返答を待つことはなく、すずさんを水野さんのもとへ向かわせた。
薄暗い部屋の中は、ほのかにお酒の匂いがする。ただただ黒い虚しさだけが、わたしの心を塗りつぶしていた。
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