第三話

 昨夜は大きさを把握しきれなかった月雲邸だが、明るい中で歩き回っていると広さ自体は浅海家の半分くらいであることがわかった。彼がひとりで暮らすには大きすぎるが、無駄に広すぎず、過ごしやすい屋敷だ。部屋も廊下もすみずみまで掃除され、派手さはないが質のよい調度品で丁寧に飾られている。浅海家よりもずっと洗練されている印象だ。彼はとても趣味がいい。


 彼の部屋は、わたしと同じ二階にあるようだ。他にも客間がいくつかあり、ひとつひとつ説明してもらった。一階には八重さんたちが寝泊まりする使用人部屋と、台所、食料を保存しておく倉庫があるようだった。


「こちらが、温室につながる扉です」


 一階の隅にある白い扉の前で、彼はなんてことないように告げた。


「温室があるの……?」


 さらりと言っているが、温室は温度管理のために術具と幻石を大量に使うため大変な維持費がかかる。個人の持ち物として温室が存在するなんて考えてもみなかった。


「はい。そう大きなものではありませんが」


「すごいわ……今は何が咲いているの?」


 温室では季節外れの花を咲かせることができるのだと聞いて、幼いころのわたしは彼とともに何を咲かせようかと空想に耽ったものだ。彼が覚えているはずもないが、自然と心が弾む。


「ご案内してもいいのですが、今は暑いばかりでつまらないと思いますよ。鈴蘭くらいしか咲いていないので――」


 そこまで言いかけて彼は口をつぐんでしまった。まるで口を滑らせたといわんばかりに、口もとに拳を当てている。


 鈴蘭と言われて思い出すのは、昨夜のおにぎりとあの置き手紙だった。


 ……やっぱり、あれは彼が――。


 彼は復讐したいほどにわたしのことが嫌いなはずなのに、どうして親切にしてくれるのだろう。言葉がすこしぶっきらぼうになっただけで、これでは昔の優しい彼のままだ。


「――もうひとつ、ご案内する場所があります。行きましょう」


 お互いに昨夜の鈴蘭の意味には触れないまま、温室の前から移動する。もう手は繋いでいないのに、柔らかな熱はなかなか逃げてくれない。


 彼を追いかけるように二、三歩後ろを歩き続けると、今度は深い茶色の扉の前にたどり着いた。他の扉同様に、分厚い木の扉に草や花の模様が彫り込まれている。


「ここは書斎です。お嬢さまのお好きなものがあるかはわかりませんが……ご自由にお使いください」


 そこには、ぐるりと部屋の四方を囲うように本棚が設置されていた。和書も洋書も揃っている。古くなった紙の匂いがして、なんだか落ち着いた。


「……すばらしいわ。こんなにたくさんの本を見たのは初めて」


 兄さまの部屋には本棚があったが、ここまでの量ではなかった。父の部屋にもあると聞いたが、見せてもらえたことはない。


「あ……これ」


 見慣れた背表紙を見つけて、そっと本棚から取り出す。それは、外国のお伽話を翻訳した子ども向けの本だった。お母さまからいただいた、わたしが唯一持っていた本でもある。


「懐かしいですね。お嬢さまに、何度も読み聞かせていただきました」


 たまの身代わりとして連れてこられたあのころ、彼は文字を読むことができなかった。親も師もなく裏路地で暮らしていたのだから当然だろう。


 だから代わりに、わたしが読んで聞かせたのだ。自分より年下の子どもの朗読なんてたどたどしくて聞いていられなかっただろうに、彼はじっと耳を傾けてくれていた。


「そうだったわね。……わたしは人魚の姫君のお話が特に好きだったわ」


 幸せな結末ではないが、人魚という存在に親近感を覚えていたのかもしれない。


 遠い記憶をなぞるように、微笑みながらそっと表紙を撫でた。分厚い青い布が貼られた表紙で、人魚の姿と真珠や貝が刺繍されている。


「そうですか。ぼくは……あまり好みではありませんでした」


「そうなの?」


 彼は懐かしむようなまなざしで、わたしの手の中の本を眺めていた。


「……人魚が泡になるなんて、嫌に決まっています」


 憂うような横顔だった。けれど伏せたまつ毛が作り出した影があまりに繊細で、思わず見惚れてしまう。彼は、美しいひとだった。


「読書をなさるなら、こちらの椅子をお使いください。……ぼくは用事があるのですこし出てきます」


 彼は窓辺の椅子を引いて、わたしをそこへ導いた。窓からは庭の様子を眺めることができる。まだ花の咲かない、冬の終わりの庭が見えた。


「ありがとう。……ここにあるものはなんでも読んでいいの?」


「はい。もうお嬢さまのものでもあるのですから」


 彼はやっぱりなんてことないように告げると、くるりと踵を返した。このまま出かけるつもりなのだろう。


「あの、いってらっしゃい……。気をつけてね」


 咄嗟に立ち上がったせいで、ぎぎ、と椅子の足が床に擦れた。彼は扉に向かっていた足を止め、はっとしたようにこちらを振り返っていた。


 昔は彼がわたしを残して出かけることなどなかったから、彼を見送る挨拶をするのは初めてだ。そのせいでなんだかぎこちなくなってしまう。


「……いってまいります」


 彼も似たような思いを抱いたのだろう。どこか滑らかでない返事をして、再び踵を返し、振り返ることなく出ていった。


 中途半端に離れた椅子を手で手繰り寄せながら座面に腰かける。今日はなんだか、落ち着かないことばかりだ。


 ……でも、悪くない気分だわ。


 いってきます、いってらっしゃい。そんな呼応を彼とできることが嬉しい。けれど、やはり彼はわたしと同じ気持ちではないだろうと思うと、虚しくなるのも確かだった。


 人魚が刺繍された表紙を、そうっと開いてみる。彼とのかつての思い出を辿るように、一頁ずつ読み進めていった。


 ◇

 

「千花さま、入りますよ」


 扉を叩く音とともに年配の女性の声が聞こえて、はっとする。気づけば日はずいぶん高くなっていて、書斎の置き時計は昼過ぎを指していた。すっかり読書に夢中になっていたようだ。


「え、ええ……どうぞ」


 時間を忘れて本を読むなんて初めての経験だ。えも言われぬ充足感に体が満たされている。


「千花さま、読書をなさるのは感心ですが、お食事は召し上がりませんとお体に障りますよ」


 入ってきたのは八重さんだ。藤色の着物に、白いエプロンをしている。


「あ……ごめんなさい。せっかく用意してくださったのに……」


 面白そうな本を見つけて、ちょっと覗いてみるだけのつもりが、こんな時間になってしまった。せっかく用意してくれた昼食が冷めてしまっただろうか。


「いいんですよ、そんなのは。千花さまが心配なだけで――」


 ふと、八重さんは机の上できらりと光るものに目をとめた。怪訝そうに、太い眉がひそめられる。


「真珠? どうしてこんなところに……」


「あ……それは、その、なんでもないのよ」


 なんとなく気まずくて、人魚の涙を回収し、隠すように握り込む。


 実はさっき、本を読んでいるうちに感情移入してすこしだけ泣いてしまったのだ。たくさん泣いたわけではないから、涙が一粒こぼれただけで、机の上に放置して読み進めるうちに存在を忘れてしまっていた。


 ……わたしの力のこと、話してもいいのかしら。


 彼は、使用人たちにはわたしの能力について話していないように思う。何か隠したい意図があるのだとしたらやはりわたしから明かすわけにはいかない。


「旦那さまからの贈り物ですか?」


「え、ええ……そんなところなの」


 嘘をつくのは心苦しいが、今はやむをえない。八重さんは、にこにこと微笑んでいた。


「仲がよろしいようで、八重は嬉しく思いますよ」


 なんとか話題を追えられたことに、ほ、と息をつく。装飾品に加工していない真珠を持ち歩いているなんて怪しまれても無理はないのに、八重さんはそれ以上追求しないことにしてくれたようだ。


「八重さんは……その、彼のことを大事に思っているのね」


 彼女たちの前でまさか彼のことを「たま」と呼ぶわけにもいかず、曖昧な呼び方をしてしまう。八重さんは笑みを崩さずに、大きく頷いてみせた。


「それはもちろん。この屋敷に勤める者はみなそうです。みな……旦那さまに救われた者たちですから」


「救われた?」


 八重さんは、懐かしむように遠くを見ていた。


「はい。……本当はわたくしたちは、こんな立派なお屋敷に勤められるような者ではないのです。それを、旦那さまは拾ってくださったんですよ」


 ここに勤める者たちは皆、なにか事情を抱えていたということなのだろうか。確かに爵位を授けられるような名家に勤める者は、素性がしっかりとした人間がほとんどだ。あんなに落ちぶれている浅海家でさえそうだったのだから。


 ……わたし、彼のことを何も知らないわ。


 浅海家に来る前のことも、逃げ出した後のことも。どうして月雲家の当主になったのかも、いつから幻術師の才能を発揮していたのかも――本当の名はいつからわかっていたのかも。何もわからない。


 直接彼に聞いたところで、なんだかうまくはぐらかされてしまうような気がしていた。彼に恩があるという使用人たちもまた、主人が口をつぐんでいることを明らかにはしないだろう。


 知る権利などわたしにはないと思うのに、気になって仕方がなかった。他の誰かのことであれば諦めもついただろうが、彼のことはどうしてもどうでもいいとは思えない。それくらい、わたしにとっては大きな存在なのだ。


「さあさあ、食堂へ参りましょう。旦那さまから千花さまはかなり少食だと伺っておりますので、お昼は軽めのものにいたしました」


 本来わたしはよく食べる娘だったが、この二、三年は一日一食の生活をしていたから、正直に言って三食しっかりと食べられる気がしない。きっと彼はその事情を汲んだ上で「少食」という表現をしてくれたのだろう。ともすれば見逃してしまいそうな彼の気遣いをまたひとつ見つけたような気がして、体の中の温かなものがまたじわりと熱を増した気がした。


 昼食に出てきたのは、洋風の軽食だった。白いパンに、生の野菜と焼いた鶏肉が挟まっている。おにぎりのように手で持って食べるのだと聞いて、その通りにした。ふわふわのパンと生野菜がぱりっと裂ける食感に慣れないが、鶏肉には甘辛いたれが塗られていてとてもおいしかった。


 彼も、外で昼食をとっただろうか。用事があると言っていたが、おそらく幻術師としての仕事で出かけたのだろう。一緒に食事をするような仕事仲間はいるのだろうか。


 窓の外を眺めながら、彼のことばかり考える。


 飼われている猫はきっと、こんな気持ちで主人を待っているのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る